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第三章 森と砦と
3.8 洞窟の戸惑い
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幸いなことに、壁にあった隙間は、サシャがギリギリ通り抜けることができる大きさだった。
[……ふう]
安堵の息が、無意識に口から出る。
とにかく、よく分からない漆黒の空間から脱出することはできた。次は。僅かに明るい空間を、トールは慎重に見回した。大学構内を歩く小野寺と伊藤が見えた気がしたのは、トールの気の迷い。
「上の方、明るいね」
顔を上げたサシャが、光の方に首を傾げる。
どうやら、一人と一冊は現在、傾斜の付いた細い洞窟の、踊り場のような場所にいるらしい。暗い灰色をした冷たい岩肌を確かめる。サシャがいう通り、一人と一冊の右側、曲がりくねりながら緩やかな上り坂になっている洞窟通路の向こうは、ぼんやりと明るくなっている。対して、一人と一冊の左側は、やはり曲がりくねっているが、地下深くへと潜っていく暗い通路になっている。ここは、上り坂を選択すべきだろう。顔を上げたまま、唇を横に引き延ばしたサシャに、トールはしっかりと頷いて見せた。
トールをしっかりと抱き締めたサシャが、上り坂の方へと歩を進める。その時になって初めて、トールは、サシャが裸足であることに気付いた。
[サシャ、足!]
背表紙に、言葉を並べる。
北向を出る時に履いていた靴は、あの古代の遺跡に辿り着くまでに履き潰してしまった。トールが断片的に覚えていた作り方でサシャが器用に作り上げた草履は、確か眠りにつく前に脱いでエプロンの横に置いたと、トールの記憶にはある。そう言えば、上着も、エプロンも、今のサシャは身に着けていない。あの暗闇の中に置いてきてしまったのだろうか? 先程通り抜けた隙間の向こうの闇を確かめ、息を吐く。とにかく、足を保護するものがなければ、歩いている間に足が傷付いてしまう。怪我をしても、手当をするための道具はここには無い。怪我が原因で、弱って死んでしまうことも、ある。
「……!」
尖りが見える坂道に唇を曲げていたサシャが、口角を上げる。
側の滑らかそうな岩の上にトールを慎重に置くと、サシャは、着ていた麻の下着の袖を破り、くるくると器用に足に巻いた。
「これで、大丈夫かな?」
坂道を踏んで具合を確かめ、頷いてトールを抱き締めたサシャに、何とか頷く。
「下着は、ここ脱出したら、直せるよね」
サシャの下着は、サシャの叔父ユーグが種から育て、丁寧に績んだ糸を織った布を用いてユーグ自身が作ってくれたもの。その叔父のことを思い出したのであろう、僅かに唇を震わせたサシャに、トールは今度は大きく頷いた。
[行こう、サシャ]
「うん」
細いうえに曲がりくねってはいるが、幸い、通路の傾斜は緩やか。時間は掛かったが、それでも何とか、一人と一冊は洞窟の入り口が見える少しだけ平らになった場所まで上り坂を登り切った。
「これで、出られる?」
[まだ、安心はできない]
サシャより二回り大きい洞窟の出口に微笑んだサシャの、小さく鳴ったお腹に、それでも慎重に頷く。出口のすぐ側が崖になっていないとも限らない。
「分かった」
トールの意見に頷いたサシャは、トールを左腕で抱え直すと、確かめるように洞窟の岩肌に右腕を伸ばした。
その時。
「誰だっ!」
突如現れた、サシャより大きな影に、サシャとトールの心臓は同時に飛び上がる。
「おまえっ! ここはデルフィーノ様とクラウディオ様の場所だぞっ!」
その影が口にした聞き覚えのある名前にトールが首を傾げるより早く、洞窟に飛び込んできた影はサシャの、トールを掴んでいない方の腕をきつく掴んだ。
「痛っ!」
サシャの悲鳴が耳に響くと同時に、周りの景色が変わる。目の前に現れた、二階建ての平たい建物に、トールの息は止まった。この、建物は、テレビのコマーシャルで見たことがある。妹の光が「行きたい」と父にねだっていた県外の、ショッピングモール……?
「……!」
掴まれた腕がよほど痛かったのだろう、常にない速さで、サシャが腕を振る。その行動で大きく蹌踉けた影は、次の瞬間、トールが見ていたショッピングモールの光景と重なり、そして溶けて消えた。
「……え?」
サシャの声が聞こえてきたのは、確かにそこに居た影が消え去って暫く経ってからのこと。
起こったことが、信じられない。トールも呆然と、今は見えなくなってしまったショッピングモールの幻影を見つめていた。
どのくらい、呆然としていただろうか?
「……アルド?」
聞き覚えのない、どこか鋭さを覚える声に、サシャの震えが止まる。
「どこに行ったのですか?」
目の端に映った、夏にセルジュが着ていたのと同じ軽そうな衣服をまとった影が洞窟の入り口に立っているのをトールが認識するより早く、サシャはくるりと踵を返し、逃げてきた洞窟の奥へ飛び込んだ。
[サシャ!]
急に暗くなった視界に、戸惑いの声を上げる。
逃げるのが、正解なのか? そのことをトールが判断する前に、サシャの足は暗闇を滑った。
「あっ……!」
響く叫びは、サシャのものかトールのものか。
ふわりと宙に浮いたトールの視界は、しかしすぐに、逃れたはずの漆黒に塗り潰された。
[……ふう]
安堵の息が、無意識に口から出る。
とにかく、よく分からない漆黒の空間から脱出することはできた。次は。僅かに明るい空間を、トールは慎重に見回した。大学構内を歩く小野寺と伊藤が見えた気がしたのは、トールの気の迷い。
「上の方、明るいね」
顔を上げたサシャが、光の方に首を傾げる。
どうやら、一人と一冊は現在、傾斜の付いた細い洞窟の、踊り場のような場所にいるらしい。暗い灰色をした冷たい岩肌を確かめる。サシャがいう通り、一人と一冊の右側、曲がりくねりながら緩やかな上り坂になっている洞窟通路の向こうは、ぼんやりと明るくなっている。対して、一人と一冊の左側は、やはり曲がりくねっているが、地下深くへと潜っていく暗い通路になっている。ここは、上り坂を選択すべきだろう。顔を上げたまま、唇を横に引き延ばしたサシャに、トールはしっかりと頷いて見せた。
トールをしっかりと抱き締めたサシャが、上り坂の方へと歩を進める。その時になって初めて、トールは、サシャが裸足であることに気付いた。
[サシャ、足!]
背表紙に、言葉を並べる。
北向を出る時に履いていた靴は、あの古代の遺跡に辿り着くまでに履き潰してしまった。トールが断片的に覚えていた作り方でサシャが器用に作り上げた草履は、確か眠りにつく前に脱いでエプロンの横に置いたと、トールの記憶にはある。そう言えば、上着も、エプロンも、今のサシャは身に着けていない。あの暗闇の中に置いてきてしまったのだろうか? 先程通り抜けた隙間の向こうの闇を確かめ、息を吐く。とにかく、足を保護するものがなければ、歩いている間に足が傷付いてしまう。怪我をしても、手当をするための道具はここには無い。怪我が原因で、弱って死んでしまうことも、ある。
「……!」
尖りが見える坂道に唇を曲げていたサシャが、口角を上げる。
側の滑らかそうな岩の上にトールを慎重に置くと、サシャは、着ていた麻の下着の袖を破り、くるくると器用に足に巻いた。
「これで、大丈夫かな?」
坂道を踏んで具合を確かめ、頷いてトールを抱き締めたサシャに、何とか頷く。
「下着は、ここ脱出したら、直せるよね」
サシャの下着は、サシャの叔父ユーグが種から育て、丁寧に績んだ糸を織った布を用いてユーグ自身が作ってくれたもの。その叔父のことを思い出したのであろう、僅かに唇を震わせたサシャに、トールは今度は大きく頷いた。
[行こう、サシャ]
「うん」
細いうえに曲がりくねってはいるが、幸い、通路の傾斜は緩やか。時間は掛かったが、それでも何とか、一人と一冊は洞窟の入り口が見える少しだけ平らになった場所まで上り坂を登り切った。
「これで、出られる?」
[まだ、安心はできない]
サシャより二回り大きい洞窟の出口に微笑んだサシャの、小さく鳴ったお腹に、それでも慎重に頷く。出口のすぐ側が崖になっていないとも限らない。
「分かった」
トールの意見に頷いたサシャは、トールを左腕で抱え直すと、確かめるように洞窟の岩肌に右腕を伸ばした。
その時。
「誰だっ!」
突如現れた、サシャより大きな影に、サシャとトールの心臓は同時に飛び上がる。
「おまえっ! ここはデルフィーノ様とクラウディオ様の場所だぞっ!」
その影が口にした聞き覚えのある名前にトールが首を傾げるより早く、洞窟に飛び込んできた影はサシャの、トールを掴んでいない方の腕をきつく掴んだ。
「痛っ!」
サシャの悲鳴が耳に響くと同時に、周りの景色が変わる。目の前に現れた、二階建ての平たい建物に、トールの息は止まった。この、建物は、テレビのコマーシャルで見たことがある。妹の光が「行きたい」と父にねだっていた県外の、ショッピングモール……?
「……!」
掴まれた腕がよほど痛かったのだろう、常にない速さで、サシャが腕を振る。その行動で大きく蹌踉けた影は、次の瞬間、トールが見ていたショッピングモールの光景と重なり、そして溶けて消えた。
「……え?」
サシャの声が聞こえてきたのは、確かにそこに居た影が消え去って暫く経ってからのこと。
起こったことが、信じられない。トールも呆然と、今は見えなくなってしまったショッピングモールの幻影を見つめていた。
どのくらい、呆然としていただろうか?
「……アルド?」
聞き覚えのない、どこか鋭さを覚える声に、サシャの震えが止まる。
「どこに行ったのですか?」
目の端に映った、夏にセルジュが着ていたのと同じ軽そうな衣服をまとった影が洞窟の入り口に立っているのをトールが認識するより早く、サシャはくるりと踵を返し、逃げてきた洞窟の奥へ飛び込んだ。
[サシャ!]
急に暗くなった視界に、戸惑いの声を上げる。
逃げるのが、正解なのか? そのことをトールが判断する前に、サシャの足は暗闇を滑った。
「あっ……!」
響く叫びは、サシャのものかトールのものか。
ふわりと宙に浮いたトールの視界は、しかしすぐに、逃れたはずの漆黒に塗り潰された。
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