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第二章 湖を臨む都

2.25 新学期の教室②

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 それは、今から三週間ほど前のこと。

 暗殺者から受けた傷から回復し、図書館の中にある事務室で次に入学する学生達の書類を整理する事務長ヘラルドの手伝いをしていたサシャの前に現れたカジミールは、全身から疲れを発していた。

「『星読ほしよみ』の手伝いはどうしたんだ、カジミール?」

 憔悴しきったカジミールの顔色に驚くサシャの横で、同じようにヘラルドの手伝いをしていたエルネストが軽い口調でカジミールに声を掛ける。

「もう、数字は、金輪際見たくない」

 エルネストの言葉に、カジミールはサシャの横の空いている椅子に崩れるように座り込んだ。

 カジミールは、確か、『星読み』の養い子。前に聞いた言葉を、思い出す。『煌星祭きらぼしのまつり』が近いので、『星読み』達も、暦が星の運行に合っているかどうかを確かめる計算に全力で取り組んでいるらしい。今朝ヘラルドが言っていた言葉を組み合わせることで、トールは、算術と天文に苦手意識を持っているカジミールの苦境を理解した。

「だが、ここでサボっていても、『星読み』の仕事が軽くなるわけじゃない」

「それは、……そうだけど」

 ヘラルドの指摘に、カジミールの敬語を忘れた声が響く。

「『文法』と『論理』の資格は持っているんだよな、カジミール」

 カジミールを助けたのは、エルネストの軽い言葉。

「あ、はい。夏前に試験には受かりました、が」

「じゃ、サシャと交代しても問題は無いな」

「えっ?」

 エルネストの提案に、サシャとトールとカジミールが同時に声を出す。

 しかし確かに、算術と幾何が得意である上に『星読み』の仕事に興味があるサシャが『星読み』の仕事を手伝えば、『星読み』達の仕事は幾分楽になるだろう。『文法』の資格を持つカジミールは、資格を持っていないサシャには扱うことができない、今度の『煌星祭』から学生になる少年達が提出した書類の処理ができる。カジミールは帝華ていかの官僚を目指していると聞いているから、書類の処理のスキルは必須。どちらにとっても良いことしかない。

「じゃ、休憩ついでに交渉してくるか」

 背伸びをして立ち上がったヘラルドに、思わず口の端を上げる。

 事務長ヘラルドと『星読み』博士ヒルベルトの話し合いはすぐに終わり、『煌星祭』当日まで、サシャは、『星読み』の館に泊まり込みで計算の手伝いをした。

 些細な計算の誤りも見逃さない『星読み』達の過酷な仕事風景を、サシャはどう感じただろう? カジミールに微笑むサシャを、エプロンのポケットから見上げる。

「ヒルベルト様、もう、北辺ほくへんに?」

 トールの視線に気付かないサシャは、カジミールとの会話を続けていた。

「ああ。今朝早くに発ったみたいだな」

 秋分祭しゅうぶんのまつりで起きた暗殺未遂事件で、北向きたむく王家の脆弱性に気付いた。カジミールの代わりにサシャが『星読み』の手伝いに入ってすぐに聞いた『星読み』博士ヒルベルトの言葉を、思い出す。老王の息子は三人、直系の孫も三人いるが、直系の曾孫は、セルジュと、身体の弱いセルジュの兄しかいない。セルジュと同世代の王族も、ヒルベルトとセレスタンの息子リュカと、帝華に住まう神帝じんていを守護する『白竜はくりゅう騎士団』の団長を務めるセルジュの叔父の息子だけだ。神帝候補であるリュカは、他の人と契りを結んで子を成すことができない。次の世代に繋ぐために、リュカやセルジュと同世代の王族を増やさなければ。さもないと、早晩、北向王家は滅びてしまう。……夏炉かろの王家と同じように。だからヒルベルトは、配偶者であるセレスタンと再び契りを結ぶために、北辺へと旅立った。配偶者を亡くしている北向の王太子アナトールも、他の王家から配偶者を迎えようとしていると聞く。皆、頑張っている。自分も、……サシャのために頑張らないと。カジミールの言葉に頷いたサシャの、少しだけ赤くなった頬を確かめ、トールはぐっと腹に力を込めた。

「あ、あれは」

 顔を上げたサシャが、小さく声を出す。

 サシャの視線の先にいた、小さな影に、トールは唇を横に引いた。あの小さな影は、怪我をしたサシャの代わりに図書館の掃除をしてくれていた、事務長ヘラルドが雇った少年。確か、北都ほくとの城壁内にある、人々の日々に寄り添う修道院の修練士だと、ヘラルドは言っていた。名前は、確か、ヤン。

「あ、ヤン」

「サシャ」

 隣に席があることを教えるために上がりかけたサシャの右腕を、カジミールが強く引く。

「え?」

 突然のことにサシャがぽかんと口を開ける前に、裾の長いガウンをまとった学長が、学生でごった返す教室に入ってきた。

 戸惑ったまま、それでもカジミールには何も言わず、教授の方に顔を向けたサシャに、息を吐く。サシャが座ったままでは、あの小柄な影がどこに席を見つけたのか、知る術はない。この混雑した教室に、空いた場所があれば良いのだが。小さく揺れるサシャの鼓動に、トールは小さく首を横に振った。

 サシャに友達が増えることは、原則として良いこと。そう、トールは思っている。だからこそ、カジミールの行動が、不可解でならない。サシャの隣で教授の演説を聴く、カジミールの色素の薄い頬を見上げ、トールは誰にも分からないレベルで唸った。
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