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第二章 湖を臨む都
2.4 次に勉強することは?
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「……できた」
ほっとした笑みを浮かべ、筆記用具の入った箱の中に羊皮紙をそっと置いたサシャに、トールも微笑む。
「さて、次は」
大きく伸びをし、サシャの背より高いところにある開きっぱなしの窓を見上げたサシャに釣られるように、トールも窓の方を見上げた。もちろん、トールの位置からでは、窓の外を見ることは叶わない。しかし、窓の外に何があるのかは、既に知っている。
現在トールとサシャが居る、北向に一つしか無い『(トールの世界で言うところの)中等教育学校』と法学を専門とする『大学』の図書館と事務室を兼ねたこの大きめの建物は、北向の政の中心である『北都』の、頑丈な城壁で囲まれた部分の北西にある。北都は、サシャとトールが出会った場所である『北辺』から流れてくる『星の河』が『星の湖』と呼ばれる大きな湖と合流する位値にある、湖に向かって緩やかに傾斜している平地に建物が並ぶコンパクトな都市。図書館の北側は、教授や学生達の比率が高く、教授が授業を行う教室も散らばっている『学生街』、南側は、商人や職人が暮らす『下町』になっている。学生街の東側が、貴族や王族が暮らす『貴族街』、その北側に、北向の政の中心人物、年老いてなお壮健な『老王』とその息子の『若王』が政務を行っている王宮が、二重の城壁の中に建っている。貴族街と下町との間には広場と市場があり、その辺りは北都でも一番混雑しているが、図書館のある辺りは人通りも少なく、静かな場所となっている。貴族街と学生街は、伊藤と一緒に受けた大学の講義で提示されたスライドの中にあった、くすんだ色の石又は煉瓦の壁が立ち並ぶ古いヨーロッパの街並みに似ている。下町の方は、高校の世界史の資料集に出てきた二階建てあるいは三階建ての西洋中世の街並みの絵、そのまま。
不意の喧噪に、思考が中断する。
身を竦めたサシャを確かめずとも、声だけで、トールには外で誰が騒いでいるのかが分かった。先日、「羊皮紙も買えない貧乏学生」だと、図書館の玄関を掃除していたサシャを罵った、服だけは立派な不良学生の声。今日も誰かを虐めているのか、それともただ騒いでいるだけなのか。全身を耳にして確かめる。幸い、騒ぎながら通り過ぎただけのようだ。徐々に収まっていく騒ぎ声に、トールはほっと胸を撫で下ろした。不良学生は、図書館には入ってこないだろう。それでも、……あんな見下げた奴らに関わると、碌な目に遭わない。
同時に思い出したのは、サシャに絡む不良学生を窘めてくれた、すっきりとした服を身に着けた学生のこと。「セルジュ様」と、不良学生達はその学生のことを呼んでいたが、エルネストによると、老王の曾孫、現在の王太子の次男にあたる人物らしい。
〈どこの世界にも、良い奴も悪い奴も居るんだな〉
トールを殴った中学の先輩のことを頭の隅に押しやり、小野寺と伊藤のことを考える。二人は、……上手くやっているのだろうか? 心に隙間ができたような気がして、トールは小さく息を吐いた。
そのトールの背を、サシャが掴む。
定位置であるサシャのエプロンの胸ポケットにトールを入れると、サシャは本棚が並ぶ閲覧室の一角へと歩を進めた。
〈法律の本を探すのか?〉
サシャの背よりもずっと高い本棚の間をゆっくりと進むサシャに、小さく微笑む。二日ほど前、教授の部屋で行われた、北向の法に関する討論の場で、サシャは何も言えず立ち尽くしたままだった。おそらく、その日のことを気にしているのだろう。サシャの場合、引っ込み思案すぎるのもあるのだろう、北都に来てから二、三回、教授の勧めで討論会に参加してはいるのだが、発言したことは一回も無い。発言できるようにならなければ、自由七科の一つである『論理』の資格を取ることができない。自分の性格を、知識でカバーしようとしているのだろう。法律や、その隣にある歴史の本に手を伸ばすサシャの小さな手と、本棚の間で揺れる鎖を、トールはしっかりと見据えた。
その時。
「本を読むのも良いが」
書見台の前で本を読んでいたはずの助手エルネストの背の高い影が、サシャの横に現れる。
「詩作の課題もやらないと」
「あ、……はい、エルネスト先生」
幾何と算術、数学の助手なのに、なぜこの人は詩作に拘るのだろう? サシャのエプロンの胸ポケットの中で首を傾げる。だが、サシャの方は、エルネストのにこやかな頬に、こくんと首を縦に振った。
「事務長ヘラルドも戻ってきたことだし、筆記用具とレポートを預けて湖畔で詩のことを考えるにはうってつけの天気だ」
廊下の方に耳を澄ませたエルネストが、サシャの素直さに笑みを倍増させる。
「はい」
そのエルネストにも素直に頷いたサシャの、戸惑ったような青白い頬に、トールは小さく肩を竦めた。
ほっとした笑みを浮かべ、筆記用具の入った箱の中に羊皮紙をそっと置いたサシャに、トールも微笑む。
「さて、次は」
大きく伸びをし、サシャの背より高いところにある開きっぱなしの窓を見上げたサシャに釣られるように、トールも窓の方を見上げた。もちろん、トールの位置からでは、窓の外を見ることは叶わない。しかし、窓の外に何があるのかは、既に知っている。
現在トールとサシャが居る、北向に一つしか無い『(トールの世界で言うところの)中等教育学校』と法学を専門とする『大学』の図書館と事務室を兼ねたこの大きめの建物は、北向の政の中心である『北都』の、頑丈な城壁で囲まれた部分の北西にある。北都は、サシャとトールが出会った場所である『北辺』から流れてくる『星の河』が『星の湖』と呼ばれる大きな湖と合流する位値にある、湖に向かって緩やかに傾斜している平地に建物が並ぶコンパクトな都市。図書館の北側は、教授や学生達の比率が高く、教授が授業を行う教室も散らばっている『学生街』、南側は、商人や職人が暮らす『下町』になっている。学生街の東側が、貴族や王族が暮らす『貴族街』、その北側に、北向の政の中心人物、年老いてなお壮健な『老王』とその息子の『若王』が政務を行っている王宮が、二重の城壁の中に建っている。貴族街と下町との間には広場と市場があり、その辺りは北都でも一番混雑しているが、図書館のある辺りは人通りも少なく、静かな場所となっている。貴族街と学生街は、伊藤と一緒に受けた大学の講義で提示されたスライドの中にあった、くすんだ色の石又は煉瓦の壁が立ち並ぶ古いヨーロッパの街並みに似ている。下町の方は、高校の世界史の資料集に出てきた二階建てあるいは三階建ての西洋中世の街並みの絵、そのまま。
不意の喧噪に、思考が中断する。
身を竦めたサシャを確かめずとも、声だけで、トールには外で誰が騒いでいるのかが分かった。先日、「羊皮紙も買えない貧乏学生」だと、図書館の玄関を掃除していたサシャを罵った、服だけは立派な不良学生の声。今日も誰かを虐めているのか、それともただ騒いでいるだけなのか。全身を耳にして確かめる。幸い、騒ぎながら通り過ぎただけのようだ。徐々に収まっていく騒ぎ声に、トールはほっと胸を撫で下ろした。不良学生は、図書館には入ってこないだろう。それでも、……あんな見下げた奴らに関わると、碌な目に遭わない。
同時に思い出したのは、サシャに絡む不良学生を窘めてくれた、すっきりとした服を身に着けた学生のこと。「セルジュ様」と、不良学生達はその学生のことを呼んでいたが、エルネストによると、老王の曾孫、現在の王太子の次男にあたる人物らしい。
〈どこの世界にも、良い奴も悪い奴も居るんだな〉
トールを殴った中学の先輩のことを頭の隅に押しやり、小野寺と伊藤のことを考える。二人は、……上手くやっているのだろうか? 心に隙間ができたような気がして、トールは小さく息を吐いた。
そのトールの背を、サシャが掴む。
定位置であるサシャのエプロンの胸ポケットにトールを入れると、サシャは本棚が並ぶ閲覧室の一角へと歩を進めた。
〈法律の本を探すのか?〉
サシャの背よりもずっと高い本棚の間をゆっくりと進むサシャに、小さく微笑む。二日ほど前、教授の部屋で行われた、北向の法に関する討論の場で、サシャは何も言えず立ち尽くしたままだった。おそらく、その日のことを気にしているのだろう。サシャの場合、引っ込み思案すぎるのもあるのだろう、北都に来てから二、三回、教授の勧めで討論会に参加してはいるのだが、発言したことは一回も無い。発言できるようにならなければ、自由七科の一つである『論理』の資格を取ることができない。自分の性格を、知識でカバーしようとしているのだろう。法律や、その隣にある歴史の本に手を伸ばすサシャの小さな手と、本棚の間で揺れる鎖を、トールはしっかりと見据えた。
その時。
「本を読むのも良いが」
書見台の前で本を読んでいたはずの助手エルネストの背の高い影が、サシャの横に現れる。
「詩作の課題もやらないと」
「あ、……はい、エルネスト先生」
幾何と算術、数学の助手なのに、なぜこの人は詩作に拘るのだろう? サシャのエプロンの胸ポケットの中で首を傾げる。だが、サシャの方は、エルネストのにこやかな頬に、こくんと首を縦に振った。
「事務長ヘラルドも戻ってきたことだし、筆記用具とレポートを預けて湖畔で詩のことを考えるにはうってつけの天気だ」
廊下の方に耳を澄ませたエルネストが、サシャの素直さに笑みを倍増させる。
「はい」
そのエルネストにも素直に頷いたサシャの、戸惑ったような青白い頬に、トールは小さく肩を竦めた。
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