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第一章 北辺に出会う

1.21 アラン師匠の思考

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「足の構えに注意して、サシャ」

 修道院の建物群に囲まれた中庭で、背丈ほどの棒を持ったサシャとグイドが向かい合う。

「棒は俺の方に向けたまま、身体を右に捻って!」

「え? こう?」

「うん。最初はゆっくりで良い」

 グイドの指示通り身体を動かすサシャを、トールは、中庭のベンチの上に脱ぎ置かれたエプロンのポケットからのんびりと見ていた。

 サシャが週一で掃除している中庭には、枯れた芝生のような草以外何も植わっていない。おそらく春になれば、もう少しましになるのだろう。中庭に影を作る建物の石壁を、トールはそっと見上げた。

 トールの向こうには、修道院を取り巻く石の壁と、閉じられた大きめの正門と扉が半分しか見えない小さめの通用門が見える。トールの後ろは、サシャが勉強をする図書室と、アラン師匠が薬の調合をする部屋が入る建物がある。この建物の上の階には、星を観測するために訪れる『星読ほしよみ』達のような客人を泊める小さな部屋が並んでいるらしい。サシャの言葉を思い出しながら、トールは再び視線を中庭に戻した。中庭の右手には、先程までサシャが掃除をしていた聖堂が見える。そして左手にある建物には、半地下に台所と食堂、地上に修道院長の部屋が入っている。左側の建物の更に向こうに見えるのは、今は何も植わっていないように見える畑と、今にも崩れそうな倉庫小屋。汚れた木壁をみせる倉庫小屋の中には、畑仕事用の道具の他に、薬部屋に入りきらないアラン師匠の薬草が入っているらしい。屋根に雪が積もったら、あの倉庫小屋は雪の重さで潰れてしまうのではないだろうか? しなくても良い心配に、トールは思わず笑った。

 再び、グイドとサシャの方へ視線を戻す。武官の修道士を目指しているというグイドの動きは、サッカーのフォワードを任せても良いくらい素早い。一方、サシャの方は、棒が重いのだろう、伸びた腕が既に震えを帯びている。

[頑張れ、サシャ!]

 それでも何とか棒を構え直したサシャに、トールは聞こえない声援を送った。

 この世界に住む『人』の身体の形は皆同じだと、サシャは言っていた。トールが読んだ本の中にも、男女に関する記述は今のところ見当たらない。しかし、グイドとサシャを比べると、華奢なサシャは女の子に、身体ができているグイドは少年に見える。この修道院で見掛ける人々も、どちらかと言えば男性に見える者ばかり。サシャは『大丈夫』なのだろうか? 心に浮かんだ不安に、トールは我知らず、身震いを覚えた。

「お、やってるな」

 不意の声に、はっと振り向く。

 恰幅の良い影が、棒術の訓練をするグイドとサシャの方を向いて微笑んでいた。アラン師匠だ。

「もう少し、サシャには体力が要るな」

 サシャの血の気の無い唇が吐く荒い息を確かめ、アランが独り言のように呟く。

 アラン師匠は、自分の代わりに冬の国へ伝道に行くことができる人を探しているらしい。サシャの叔父ユーグに喋るグイドの言葉を、トールは少しずつ思い出していた。アランは、八都はちとをまとめる神帝の直轄領『帝華ていか』の、官僚の家の出身。官僚制である帝華は、役人の方が羽振りが良いらしいと、これは図書室で読んだ地理の本に書いてあった。サシャの母も学んだ帝華の都にある大学で医学を学んでいたが、ある日突然、修道士として『冬の国ふゆのくに』へ赴くことを志願したという。だが、赴いた冬の国で病気になり、一年も経たずに八都へと戻ってきてしまった。そして、先の夏頃から、修道院長の病気を診るという名目でこの場所に居候しているという。意外と苦労人なんだな。薬の調合があるのだろう、自分の薬部屋に入っていったアランの広い背中に、トールは小さく頭を下げた。

「勉強を続けたいのなら、やはり、まずは北向の都に出ないとな」

 薬部屋の手伝いをするサシャに将来の希望を聞いたアランが返した言葉が、トールの脳裏に蘇る。

「医術を学んで医者になるのも、自由七科を学んで修道院の先生になるのも良いが、医者も先生も人間関係で苦労するからな」

 アラン師匠の言葉に母を思い出し、思わず頷く。大学の先生であるトールの母も、他人と話さないといけない場面では常に難しい顔をしていた。サシャも、人間が苦手である部分が、確かにあるような気が、する。

「まあ、将来どうするにせよ、帝華の大学で自由七科を学んでおけば、帝華の官僚でも医者でも先生でも星読みでも思いのまま、なんだけどな」

 しかし帝華の都にある大学で学ぶためには、先立つものが必要。アラン師匠の言葉に息を吐いたサシャの、泣きそうな色を帯びた瞳を思い出す。サシャも、叔父であるユーグも、貧しい暮らしをしている。ジルドにこき使われて勉学もままならない今のままでは、北向の都、北都ほくとで学ぶことすら、無理。それは、分かっている。でも、どうすれば良い? 中庭に尻餅をついてしまったサシャの、蒼白な頬に、トールは思わず唸った。だが。

[……何とか、なるかもしれない]

 サシャをこき使うジルド師匠はともかく、アラン師匠の方は、サシャのことを気に掛けてくれている。トールも、父や母、祖父母や伯父伯母、学校の先生やサッカー&フットサルクラブの監督、その他色々な大人に支えられて成長してきた。自分も大きくなったら、周りの大人達のように、周りの人々を支えることができるようになりたい。そう思って、……いた。

 落ちかけた涙を、首を振って誤魔化す。

 『本』の姿ではあるが、今は、サシャの支えになっている、はず。グイドが差し出したカップの中の液体を飲み干し、再び立ち上がったサシャの、細い影に、トールは何とか自分を納得させた。
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