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第8話 預かりの子
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「まじか~、未練ありの元カノ登場か~」
いつもの給湯室。莉子に陽菜乃さんの事を話すと、彼女はこめかみに手を当てて天を仰いだ。
「より戻してると思う?」
私が聞くと莉子は眉をしかめながら考え込む。
「まだだと思う。より戻してるなら元カレって言わないんじゃない?」
莉子の言葉に胸を撫でおろす。しかし、彼女は鬼のような形相で私を叱る。
「だからと言って安心してはいけないよ! 恋は早い者勝ち、胡坐をかいているとすぐ誰かに先を越されちゃうからね。奈々子、あんたはこの状況だからこそ、イケメンにアタックしないといけないんだから」
自惚れるなと莉子は言い加える。ううん、確かに莉子の言う通りだ。
私と陽菜乃さんなら、元恋人という肩書を持っている彼女の方が有利な立場だろう。一方、私はまだ仲良くなったばかりの女。まだよく知らない人より、気心も知れた元恋人の方に揺らぎやすいかもしれない。
「分かった、頑張ってみる」
決意とともに答えると莉子は頷いた。
「うん、その調子。あと、自分の気持ちに嘘はついちゃいけないからね」
「嘘?」
「そう。イケメンが元恋人と仲が良くても“好き”って気持ちを嘘にしちゃいけないから。あんたは恋に臆病だし変な優しさを見せるから、私より彼女の方がお似合いかもって勝手に思って身を引くなよってこと。選ぶのはあんたじゃなく、イケメンだからね」
莉子はそう言うと私の額に指を押し付けた。
選ぶのは私じゃなく、吟君。
莉子の言葉が脳裏に刻み込まれた気がする。
◆◆◆
運よく残業もなく定時で帰れた。家に入ると、嬉しそうな顔をした両親が出迎えてくれる。
「聞いてくれ、ミライが私達の目の前でご飯を食べたんだ」
父は頬を赤く染めながら興奮した様子で話す。
ミライというのは私が預かりをしているオスのトイプードル。彼に幸せな未来が訪れますようと願いを込めて名付けた。
隣に立つ母が私に、
「奈々子にお客さんが来ているの。居間にお通ししてるからね~」
と言った。この時間に私にお客さん? と怪訝に思ったが、居間に向かうと謎が解けた。
「吟君!」
自分でも思っている以上に嬉しそうな声が出てしまった。まさか会えると思っていなかったから。気持ちが跳ねる。
「ミライ君の様子を見に来ました」
吟君はケージに入っているミライに目を向ける。彼の背中には客人が大好きな雪之丞が乗っていた。父と同じく興奮した雪之丞は、吟君の頭の上でハッハッハッと短い呼吸をしている。
私は吟君から雪之丞を引き離すと、彼と同じようにミライのケージの前に座った。
「今日、人前でご飯食べたんだって」
「えぇ、先ほどお父様から聞きました。だいぶ慣れてきていますね」
「まだケージの外には出られないんだけどね。緊張しているみたいで。でも、人の事は嫌いじゃないみたいだから、近くにいるとこうやって尻尾を振ってくれるんだ」
ミライのケージには半分を覆い隠すように毛布がかけられている。これは、人の視線から避難できる空間を作ってあげてくださいという陽菜乃ちゃんからのアドバイスだ。預かりの子が来たばかりの時は、自分だけの空間を作ってあげてくださいと言っていた。
「吟君、晩御飯はもう食べた?」
私達の様子を見守っていた母が遠慮がちに彼に話し掛ける。いつの間に下の名前で呼ぶ関係になっていたんだと聞きたいところだが、ぐっとこらえた。
「いえ、まだです」
「良かったら食べていく? 奈々子もこれから食べるし」
「そうだ、ついでに泊まっていけ!」
父が横やりを入れてくる。少し黙っていて欲しい。
でも、一緒に食べたいなと思って彼の横顔を見る。
「ご迷惑でなければ……」
吟君はちらりと私を見て答えた。もしかして顔に出てたのかな。
母は彼の返答を嬉しそうに受け止める。
「奈々子、手伝って」
「分かった」
「俺も手伝います」
「吟君はお客さんだから座ってて」
そんなやり取りをしながら私は夕食の準備に取り掛かる。後ろでは吟君を大層気に入った父がお酒を勧めていた。吟君はお酒に強いらしく、父に飲まされてもけろりとしていた。父の方が先にダウンしてしまうほど強い。結構飲まされていたのにな。
料理が出来上がってテーブルに並べていく。父は撃沈していて爆睡していた。
もしかして私が酔ったら寝落ちするのってお父さんの遺伝では? なんて思いつつ、彼の隣に座って箸を手に取る。
「いただきます」
煮物を口に入れながら雪之丞からのお手攻撃をかわす。これは人間の食事であっていくらお手をしてもあげられないよ。
「こんなこと言うの失礼なんだけどね、吟君が良かったら奈々子を貰ってくれないかしら? そろそろ嫁にいって欲しくて~」
「ちょっとお母さん!?」
食事とお酒が進んだ頃に母からいきなり爆弾が投下された。一番の敵は父ではなく、母だったのか。私は慌てて母を止めようとする。
「三十路手前なのに雪之丞がいるからって実家に居てね」
母よ、とっとと実家を出て行けということか。
私はまさかの人物からの攻撃に涙目になる。
「まぁ、吟君みたいな素敵な人のお眼鏡にかなうかどうかだけど」
「実の娘にその言い方は酷くない!?」
私を産んだのはあなたですよ!
吟君はというと、私達親子のやり取りを見て楽しそうに笑っていた。
「俺も奈々子さんは素敵な人だと思いますよ。逆に俺なんかが釣り合うのかなって思うくらいです」
私は彼の言葉に呆気にとられた。吟君に素敵な人だと言われた。嬉しすぎて頬が緩むのを止める事が出来ない。
「あら、嬉しい~。じゃあ持ち帰って」
「私はモノですか!」
嬉しいのを隠すように私は明るく振る舞った。黙っていたらにやついてしまうから。
食事が終わって一休みしてから、私は吟君を家まで送っていく為に夜道を歩いていた。吟君は女性を夜歩かせるわけにはいきませんと断ったけど、私は雪之丞の散歩ついでだからと言って無理矢理ついていった。雪之丞の散歩もあるけど、本当は彼と少しでも一緒に過ごしたかったから。
他愛のない話をしながらゆっくりと2人と1頭で歩く。田舎だから夜になるとカエルと何かの虫がよく鳴く。自然の音を背景に私達は語り合う。
「吟君、あのね。私、吟君に会えて本当に良かったって思ってる。毎日がこんなに楽しくなるなんて考えてなかったから」
保護犬の活動を手伝うようになってから知らない世界を見た。厳しい現実を見て辛くなる事もあるけど、見違えるように幸せそうな表情になる犬を見ていると嬉しくなる。団体のみんなと犬達に触れ合うのがとても楽しい。
何より吟君の傍にいられるのが楽しい。
「あの時、話しかけてくれてありがとう」
初めて出会った時の事を思い出す。彼が話しかけてこなければ繋がらなかった縁。
「私、吟君の事が――」
「あれ、吟に奈々子さん?」
私の言葉が続く前に聞きなれた声が割って入ってきた。まさかと思って声の方を見ると、陽菜乃さんと椿さんが立っている。なんというタイミング!
悔しいやら悲しいやら複雑な気持ちで立っていると、吟君が彼女達に何故ここにいるのか聞いていた。
「リリカの散歩をしていたら陽菜ちゃんにばったり会って」
「一緒に夜の散歩をしているの」
と椿さんと陽菜乃さんは答えていた。
あぁ~せっかくのチャンスが……と思う飼い主をよそに、リリカちゃんに会えた嬉しさで尻尾が高速回転している雪之丞。もう全部が台無しだ。
「奈々子さん、話はまた今度でも大丈夫ですか?」
「あ、はい、ソウデスネ」
吟君とはここで別れることになった。
雪之丞の散歩を続ける私は、誰もいない田んぼに向かってちくしょー! と声を張り上げた。ゲコゲコという声が返って来るだけだった。
虚しさを胸に抱きながら私と雪之丞は帰路についた。
いつもの給湯室。莉子に陽菜乃さんの事を話すと、彼女はこめかみに手を当てて天を仰いだ。
「より戻してると思う?」
私が聞くと莉子は眉をしかめながら考え込む。
「まだだと思う。より戻してるなら元カレって言わないんじゃない?」
莉子の言葉に胸を撫でおろす。しかし、彼女は鬼のような形相で私を叱る。
「だからと言って安心してはいけないよ! 恋は早い者勝ち、胡坐をかいているとすぐ誰かに先を越されちゃうからね。奈々子、あんたはこの状況だからこそ、イケメンにアタックしないといけないんだから」
自惚れるなと莉子は言い加える。ううん、確かに莉子の言う通りだ。
私と陽菜乃さんなら、元恋人という肩書を持っている彼女の方が有利な立場だろう。一方、私はまだ仲良くなったばかりの女。まだよく知らない人より、気心も知れた元恋人の方に揺らぎやすいかもしれない。
「分かった、頑張ってみる」
決意とともに答えると莉子は頷いた。
「うん、その調子。あと、自分の気持ちに嘘はついちゃいけないからね」
「嘘?」
「そう。イケメンが元恋人と仲が良くても“好き”って気持ちを嘘にしちゃいけないから。あんたは恋に臆病だし変な優しさを見せるから、私より彼女の方がお似合いかもって勝手に思って身を引くなよってこと。選ぶのはあんたじゃなく、イケメンだからね」
莉子はそう言うと私の額に指を押し付けた。
選ぶのは私じゃなく、吟君。
莉子の言葉が脳裏に刻み込まれた気がする。
◆◆◆
運よく残業もなく定時で帰れた。家に入ると、嬉しそうな顔をした両親が出迎えてくれる。
「聞いてくれ、ミライが私達の目の前でご飯を食べたんだ」
父は頬を赤く染めながら興奮した様子で話す。
ミライというのは私が預かりをしているオスのトイプードル。彼に幸せな未来が訪れますようと願いを込めて名付けた。
隣に立つ母が私に、
「奈々子にお客さんが来ているの。居間にお通ししてるからね~」
と言った。この時間に私にお客さん? と怪訝に思ったが、居間に向かうと謎が解けた。
「吟君!」
自分でも思っている以上に嬉しそうな声が出てしまった。まさか会えると思っていなかったから。気持ちが跳ねる。
「ミライ君の様子を見に来ました」
吟君はケージに入っているミライに目を向ける。彼の背中には客人が大好きな雪之丞が乗っていた。父と同じく興奮した雪之丞は、吟君の頭の上でハッハッハッと短い呼吸をしている。
私は吟君から雪之丞を引き離すと、彼と同じようにミライのケージの前に座った。
「今日、人前でご飯食べたんだって」
「えぇ、先ほどお父様から聞きました。だいぶ慣れてきていますね」
「まだケージの外には出られないんだけどね。緊張しているみたいで。でも、人の事は嫌いじゃないみたいだから、近くにいるとこうやって尻尾を振ってくれるんだ」
ミライのケージには半分を覆い隠すように毛布がかけられている。これは、人の視線から避難できる空間を作ってあげてくださいという陽菜乃ちゃんからのアドバイスだ。預かりの子が来たばかりの時は、自分だけの空間を作ってあげてくださいと言っていた。
「吟君、晩御飯はもう食べた?」
私達の様子を見守っていた母が遠慮がちに彼に話し掛ける。いつの間に下の名前で呼ぶ関係になっていたんだと聞きたいところだが、ぐっとこらえた。
「いえ、まだです」
「良かったら食べていく? 奈々子もこれから食べるし」
「そうだ、ついでに泊まっていけ!」
父が横やりを入れてくる。少し黙っていて欲しい。
でも、一緒に食べたいなと思って彼の横顔を見る。
「ご迷惑でなければ……」
吟君はちらりと私を見て答えた。もしかして顔に出てたのかな。
母は彼の返答を嬉しそうに受け止める。
「奈々子、手伝って」
「分かった」
「俺も手伝います」
「吟君はお客さんだから座ってて」
そんなやり取りをしながら私は夕食の準備に取り掛かる。後ろでは吟君を大層気に入った父がお酒を勧めていた。吟君はお酒に強いらしく、父に飲まされてもけろりとしていた。父の方が先にダウンしてしまうほど強い。結構飲まされていたのにな。
料理が出来上がってテーブルに並べていく。父は撃沈していて爆睡していた。
もしかして私が酔ったら寝落ちするのってお父さんの遺伝では? なんて思いつつ、彼の隣に座って箸を手に取る。
「いただきます」
煮物を口に入れながら雪之丞からのお手攻撃をかわす。これは人間の食事であっていくらお手をしてもあげられないよ。
「こんなこと言うの失礼なんだけどね、吟君が良かったら奈々子を貰ってくれないかしら? そろそろ嫁にいって欲しくて~」
「ちょっとお母さん!?」
食事とお酒が進んだ頃に母からいきなり爆弾が投下された。一番の敵は父ではなく、母だったのか。私は慌てて母を止めようとする。
「三十路手前なのに雪之丞がいるからって実家に居てね」
母よ、とっとと実家を出て行けということか。
私はまさかの人物からの攻撃に涙目になる。
「まぁ、吟君みたいな素敵な人のお眼鏡にかなうかどうかだけど」
「実の娘にその言い方は酷くない!?」
私を産んだのはあなたですよ!
吟君はというと、私達親子のやり取りを見て楽しそうに笑っていた。
「俺も奈々子さんは素敵な人だと思いますよ。逆に俺なんかが釣り合うのかなって思うくらいです」
私は彼の言葉に呆気にとられた。吟君に素敵な人だと言われた。嬉しすぎて頬が緩むのを止める事が出来ない。
「あら、嬉しい~。じゃあ持ち帰って」
「私はモノですか!」
嬉しいのを隠すように私は明るく振る舞った。黙っていたらにやついてしまうから。
食事が終わって一休みしてから、私は吟君を家まで送っていく為に夜道を歩いていた。吟君は女性を夜歩かせるわけにはいきませんと断ったけど、私は雪之丞の散歩ついでだからと言って無理矢理ついていった。雪之丞の散歩もあるけど、本当は彼と少しでも一緒に過ごしたかったから。
他愛のない話をしながらゆっくりと2人と1頭で歩く。田舎だから夜になるとカエルと何かの虫がよく鳴く。自然の音を背景に私達は語り合う。
「吟君、あのね。私、吟君に会えて本当に良かったって思ってる。毎日がこんなに楽しくなるなんて考えてなかったから」
保護犬の活動を手伝うようになってから知らない世界を見た。厳しい現実を見て辛くなる事もあるけど、見違えるように幸せそうな表情になる犬を見ていると嬉しくなる。団体のみんなと犬達に触れ合うのがとても楽しい。
何より吟君の傍にいられるのが楽しい。
「あの時、話しかけてくれてありがとう」
初めて出会った時の事を思い出す。彼が話しかけてこなければ繋がらなかった縁。
「私、吟君の事が――」
「あれ、吟に奈々子さん?」
私の言葉が続く前に聞きなれた声が割って入ってきた。まさかと思って声の方を見ると、陽菜乃さんと椿さんが立っている。なんというタイミング!
悔しいやら悲しいやら複雑な気持ちで立っていると、吟君が彼女達に何故ここにいるのか聞いていた。
「リリカの散歩をしていたら陽菜ちゃんにばったり会って」
「一緒に夜の散歩をしているの」
と椿さんと陽菜乃さんは答えていた。
あぁ~せっかくのチャンスが……と思う飼い主をよそに、リリカちゃんに会えた嬉しさで尻尾が高速回転している雪之丞。もう全部が台無しだ。
「奈々子さん、話はまた今度でも大丈夫ですか?」
「あ、はい、ソウデスネ」
吟君とはここで別れることになった。
雪之丞の散歩を続ける私は、誰もいない田んぼに向かってちくしょー! と声を張り上げた。ゲコゲコという声が返って来るだけだった。
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