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三章 Renewal

六月 <課題> 3

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梅雨に入ってから雨の日が続いていた。
雨が降ると屋根のない「楽園」は利用できない。
俺達は放課後の時間を持て余していた。

そんなある土曜日の午後。
学校から帰宅して部屋でゴロゴロしていた俺に
母が水着を出すように言った。
今日の二時間目の体育の授業は
雨の中での水泳だった。
俺は気だるい体を起こして水着袋を探したが
見当たらなかった。
どうやら学校に忘れたようだ。
濡れたままの水着を月曜日まで放置しておいたら
どうなるかは火を見るよりも明らかだ。
俺は仕方なく傘をさして学校へ戻った。


ぬかるんだ校庭の水たまりを避けながら
俺は校舎へ入った。
廊下に子供達の姿はなかったが、
職員室にはまだ教師が残っているはずだ。
にもかかわらず校内は電気も消えて
静まり返っていた。
いつも見ている景色とは
随分とその雰囲気が違っていて
別世界に迷い込んだようだった。

六年二組の教室の前で俺は足を止めた。
そしてゆっくりとドアを開けた。
当然室内には誰もいない。
俺は葉山の席を探した。
しかし、
個性のない机の中から
彼女の席を見つけるのは困難だった。

俺は諦めてベランダに出た。
先ほどより雨が強くなっていた。
俺はそのままベランダから
六年三組の教室へ向かった。
その時、窓から三組の教室に人がいるのが見えた。
俺は咄嗟に身を伏せた。
隠れる必要はないのだが、
この時俺はなぜかそうした。
ほんの一瞬だったが、
教室にいる人間が誰なのかはわかった。

相馬沙織だった。

相馬の席は教室の真ん中辺りで、
彼女はその自分の席に座っていた。
俺は腰を低くしたままベランダを進んだ。
教室の後ろまで進んで
窓からそっと頭を出して中の様子を窺った。
相馬の背中が見えた。
相馬は机の上で組んだ腕に頭をのせていた。
そんな彼女の背中は
いつもとどこか雰囲気が違っていた。
眠っていないことは先ほどの一瞬でわかっている。
もしかして傘がなくて帰れないのだろうか。
しかし今日は朝からずっと雨で、
彼女が傘を持っていないとは考えられなかった。
それに彼女なら傘が無くても
平然と雨の中を歩いて帰るような気がした。
そういえば今日の水泳の授業を
相馬は見学していた。
具合でも悪いのか。
いや、それなら猶更早く帰るべきなのだ。

俺はしばらく悩んだ末、
しゃがんだままベランダを引き返した。
そして六年二組の教室を抜けて廊下へ戻った。
俺は六年三組の教室の前で
一度大きく深呼吸をしてからドアに手を掛けた。
大袈裟に音を立ててドアを開けると、
一瞬遅れて相馬がこちらに顔を向けた。
そして俺に気付くとすぐに体ごと背を向けた。

「・・あ、あれ、相馬。まだいたんだ?」
俺は咄嗟にそう口にしたものの、
内心はかなり動揺していた。
なぜなら一瞬見えた相馬の顔に
涙の跡が見えたからだ。

「お、俺は水着を忘れたから戻ってきたんだ」
聞かれてもいないのに俺は自分の状況を説明した。
「・・そう」
相馬はこちらに背を向けたまま答えた。

俺は彼女の席を大きく迂回して、
自分の席まで歩いた。

机の横に目当ての水着袋があった。
俺は小さく息を吐き出してから窓を開けた。
教室に雨音の調べが流れ込んできた。

「さっきより雨が強くなったな」
俺は窓の外を向いたまま言った。
「・・そう」
背後の気配と僅かな音で
相馬が動いたのがわかった。
涙を拭いたのだろうか。

「相馬、傘持ってるか?」
「・・ええ」
彼女の言葉は短く声のトーンも低かったが、
それでも一応、
会話のキャッチボールは成立していた。
「雨って嫌だな」
「そうでもないけど」
ようやく三文字以上の言葉が返ってきた。
「せっかくの土曜日なのに、何で残ってるんだ?」
「帰ってもすることがないから」
わかりやすい答えだった。
「残って何をしてたんだ?」
俺はもう一歩だけ踏み込んだ。
「・・別に。ぼうっとしてただけ」
嘘だ。
それならなぜ泣いてたんだ。

「まだ帰らないのか?」
「・・・」
無言。
しばらく待ったが答えは返ってこなかった。

「待ってても雨は止まないぞ」
「・・わかってる」

俺は思い切って振り返った。
相馬は俺の方を見ていた。
目が合った。
先にそらしたのは彼女の方だった。
俺は彼女が一瞬、隙を見せたような気がした。

「帰ろうぜ。送っていくからさ」
「一人で帰れるわよ」
「いいから、行こうぜ」
彼女はそれ以上反論しなかった。

相馬は黙って俺の後ろをついてきた。
教室を出てから俺達はどちらも口を開かなかった。
静かな廊下に二人の足音だけが響いた。

校舎を出ると少しだけ雨脚が弱くなっていた。
俺が傘をさすと、
隣で相馬が赤いボロボロの傘を広げた。

俺が歩き出すと
先ほどと同じように彼女は後ろをついてきた。
お互いの傘がぶつからないように歩くと、
自然と傘の分だけ距離が空く。
そのおかげで背後の彼女の存在を
必要以上に意識しなくて済んだ。
今の俺にはこの距離が丁度良かった。
これ以上近づくと
この無言の時間に耐えられないような気がした。

俺達はただ黙って歩き続けた。

「そっちじゃない」
不意に背後から声がした。
振り向くと
相馬が左の小道に入っていくところだった。
俺は急いで追いかけた。

先程とは入れ替わって
今度は俺が彼女の後ろを歩いた。
そう言えば俺は相馬の家を知らなかった。
クラス名簿に書かれた住所は
たしか新川二丁目だったが、
新川町自体が広く
二丁目がどこなのか俺にはわからなかった。

車が通ることのできない狭い路地を
しばらく進むと、
突然道幅が広くなって
綺麗に区画整理された住宅街に出た。
俺達は静かな住宅街を並んで歩いた。

「・・ここでいいから」
不意に相馬が立ち止まった。
気付くと俺達は住宅街の外れまで来ていた。
「あとは一人で大丈夫だから」
「そ、そうか・・」
しかし俺はこのまま引き返すことを躊躇っていた。
なぜなら俺はまだ彼女の涙の理由を聞いてない。

奥川暁子、葉山実果、そして相馬沙織。
それぞれ理由は違えど流す涙には必ず理由がある。

「あそこに市営住宅が見えるでしょ?」
その時、相馬が口を開いた。
彼女の指さす先には同じ形のビルが二棟、
ポツンと建っていた。
五階建てのビルの壁面に大きく
「A棟」「B棟」と書かれていた。
築五十年は経過しているだろうか。
随分と古い建物だった。
建物の周りは空き地が広がっていて、
ここへ来るまで通ってきた住宅街と
同じ新川町であるはずなのに、
道幅以外は何もかもが違っていた。

「B棟の一〇二号室が私の家だから」
それだけ言うと
相馬はくるりと身を翻して歩き出した。
「あ、ああ。わかった。じゃあまた学校でな」
仕方なく俺は踵を返した。

「ありがと」
その声に俺は振り返った。
赤いボロボロの傘が見えた。
今の言葉は空耳か。
俺は彼女に声をかけるべきか迷った。
そして結局、
俺は小さくなっていく赤い傘を黙って見送った。
汚れてくすんだ赤色の傘が、
少女の小さな体を精一杯雨から守っていた。


その夜
俺はベッドの中で相馬沙織のことを考えた。
相馬はなぜ卒業前に突然学校から姿を消したのか。
俺はその理由が
今日見た彼女の涙にあるのではないか
と漠然と思った。
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