エスケーブ

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エスケーブ #5

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 連休明けの月曜日、倦怠感が拭い切れないまま、ヒーヒー言いながら学生たちは授業を消化していく。やっとこさ放課後になると、彼らは羽を伸ばし、それぞれの部活動へと飛び立っていく。私もその一人、さあ部室の鍵を取りに行こう。
 教室を出る前に、泉さんと支倉姉弟から私用で帰ると言われたので、今日は幸坂さんと二人きりか、一人きりだろう。幸坂さんは未だ、いつものグループの中に居るので、私は待たずに職員室へ行く。
 柘植教諭と挨拶程度の会話をしてから部室へ行くと、幸坂さんが扉の前に佇んでいた。どうやら今日は二人きりらしい。待たせたことを詫びてから、私は部室を開放した。そして、それぞれ所定の位置に腰を降ろす。そういえば、上座に座ったのは、久しぶりだ。その後は、幸坂さんと勉強やクラスでの事などの他愛ない世間話を展開し、ゆったりとただ確実に時間が過ぎていった。
 そして、もうすぐ17時になろうとした頃、私は本題を切り出すことにした。
「そういえば昨日・・・幸坂さんの元友人を名乗る子と遭遇したんだ」
 単刀直入、この初手で幸坂さんの尾行少女への感触を窺う。
「元・・・友達ですか?」
 幸坂さんは戸惑っている。どうやら、ピンと来ていないようだ。
「あぁ・・・おそらく、アップロードしたという友人かと」
 そう言ってようやく、幸坂さんは察しがついたらしい。明らかに表情が強張り、視線が定まっていない。強い拒否感、尾行少女よ、駄目かもしれないぞ。
「な、何で・・・藤香が栗柄君と?」
 藤香、それが尾行少女の名前なのか。
「名前を聞きそびれたから、違う子かもしれないが、なんでも、幸坂さんと俺が歩くところを見たらしい。昨日書店で偶然鉢合わせた」
「そ、そうですか・・・それで、その子は何と?」
「幸坂さんと仲直りしたいから、仲介して欲しいと。俺が彼氏だと勘違いしたらしい」
「か、彼氏っ!?」
「大丈夫、強く否定しておいたから安心して!」
「強く・・・否定」
 私は親指を立てて、安心を促したが、彼女は暗い顔で小さく頷いた。ここまでのダメージを負わせるとは、尾行少女め、酷い事しやがる。
「・・・そ、それで栗柄君は引き受けたのですか?」
「いや、保留にしておいたよ。幸坂さんが嫌なら、手を貸さない。俺は絶対的に幸坂さんの味方だって、宣言しといたからさ」
「栗柄、君・・・私は・・・」
 幸坂さんは両腿に載せていた手で、制服のスカートをくしゃっと握った。身体も小刻みに震えている。よほど、苦しんできたのだろう、幸坂さんの背中は、見ていられないほど小さく思えた。
「幸坂さんが望むなら、もう関わらせないことも出来る・・・今の気持ちは、どうなのかな?」
「わかり、ません・・・まだ、すみません」
 これほどまでの傷を負わせているとはあの尾行少女、恐るべき無神経さである。さて、この傷を一生の教訓とすべきか、はたまた清算するのか。それが、幸坂さんの今後を左右するやもしれないのだから、なんとも根深い問題である。
「・・・分かった。その、出来たら今週中に答えを聞かせてほしい。今後どうしていきたいのか、よく考えて」
 私は、幸坂さんをあまり追い詰めないように、微笑みかけた。主な笑顔の成分は、ここだけ聴くと、まるで私が告白したみたいだな、という自嘲だが。
「さてと、時間だ。帰ろうか?」
「・・・はい」
 帰り道、幸坂さんの表情は暗かった。棄てたはずの過去、選んだ現在。仲直りをすれば、過去を清算し、現在を否定することになる。一方で、絶縁すれば、過去を背負いながらも、現在を肯定して生きていける。幸坂さんは、どちらの未来を選ぶのだろうか。駅までの道中、言葉を交わすことは無かった。
 しかし、改札前で別れる時に、幸坂さんが口を開いた。
「その・・・一緒に帰ってくれてありがとうございました」
「ん? いや、気を付けて・・・」
 なぜだろう、お礼を言われてしまった。幸坂さんの後ろ姿を見送りながら、その理由を考えたが、私には解らなかった。

      
 火曜日、今日は泉さん、支倉姉、そして幸坂さんも帰っていった。昨日の事が、影響しているのかもしれない。今日は、読書デーになりそうだ。部室にて、欠伸をかきながら、本を開く。今回は、心理学系の本をチョイスした。仲直りに役立つかも、と愚考したからである。
 しかし、眠い。麗らかな午後の日差しが、早くも私を惰眠へと誘い出す。駄目だ、前はこのパターンで、泉さんに強襲されたのだ。眠気に耐えながら、必死に読み進めていると、不意に部室の扉が開かれた。
 本当に泉さんが襲いに来たのか、身構えていると、扉の陰から巨大なシルエットが現れた。
「・・・邪魔をする」
 私はその正体が想定外過ぎて、正直度胆を抜かれてしまった。
「あれ・・・明良?」
 そう、シルエットは誰あろう支倉弟、つまり明良だった。
「どうしたんだ? 家の手伝いは?」
「・・・たまには顔を出してこいと、家族全員に言われてな。姉さんが代わりをしてくれるらしい」
「そうなのか・・・」
 まったく、粋な一家である。
「ちなみに、秘密にしておくようにと言い出したのは姉さんだ」
「ああ・・・」
 まったく、アホな姉である。
「・・・一人か?」
「まあ、基本的に居ることを定められているのは俺だけだからな」
「・・・そうか。とはいえ、好都合とも言えるな」
「好・・・都合?」
 おいおい明良、まさかお前もか。
「他が居ると、話せなくなるからな」
 安心したぜ、シャイボーイ。
「あはは、まあ座ってくれ。今日は自由なのか?」
「いや、少ししたら帰らないといけない。姉さんでは長く持たないだろうからな、常連さんらの相手は」
「へぇ・・・」
 常連さん、いったい何者なんだろう。支倉弟は意識したのか、最初に部室へ来た時の椅子に腰を下ろした。
「忙しいんだな・・・店と言えば、この前は突然押し掛けて悪かった」
「いや、気にする事は無いさ。毎日のように帰って来れる部活を、両親は少し怪しんでいたが、栗柄のおかげで太鼓判が押されたのだから」
「え、何かしたかな・・・?」
「母さんが気に入っていたからな。母さんは料理がアレだが、うちのピラミッドの頂点に君臨している。母さんが認めれば、父さんも認める」
「おお・・・」
 支倉家の不思議ヒエラルキーだな。
「また、いつでも来て欲しいと言付かっている」
「それなら、今度はお詫びを伺おうかな?」
「お詫びは気にしなくて良いが、うちに来る場合は母さんからの縁談に気を付けてくれ」
「あはは・・・あれ、本気だったのか!?」
「ああ、母さんは、姉さんを売りつける最高の機会だと考えているようだ」
 不良物件か、アイツは。
「明良としては、どうなんだ? 俺に薦められるのは?」
「むぅ・・・お前と義兄弟になるのは、存外悪くは無いが・・・生々しいものがあるな」
「生々しいとか止めろよ」
「それは冗談として、当人たちにその気が無ければ、口を出すことは無い」
「今のところ、無いっす」
「・・・配慮痛み入る」
「何の事かな? それはそうと、料理美味しかったよ。恥ずかしながら、言われるまで気付かなかった」
「ふっ・・・気付かれないようになるのが目標だからな。常連さんには、即座に見抜かれるが」
「恐ろしいな、常連さん」
「ああ、確かに。だが、ありがたい存在でもある。習ったものをより洗練してくれるからな」
「愛されながら、鍛えられてるわけか・・・粋が過ぎるぜ」
「そうかもな・・・それで、何か悩んでいるのか?」
「え? 何、エスパー?」
「客商売だからな、顔を見れば大体判る」
「つまり、バレバレってことか、気を付けよう・・・明良は、暁乃と喧嘩したりする?」
「ああ、割とするが・・・誰かと喧嘩でもしたのか? 意外だな」
「意外なの?」
「栗柄は感情の機微に敏感だからな、喧嘩が起きる前に鎮火してしまうのだろう?」
「あはは、確かに。御察しの通り、俺じゃない」
「それなら、あまり立ち入らないでおこう・・・姉さんとの喧嘩についてだったな? あの性格だ、些細なことで大炎上さ」
「こう言うのも何だけど、あんまり似てないよな?」
 根が真面目で、人見知りなところ以外は。
「大丈夫だ、自覚している。性格は真逆で、時に恐ろしいほど意見が合い、時にまったく反りが合わなくなる」
「どうして?」
「性別が違うのがまだ救いだが、自分と殆ど条件が同じ存在っていうのは、頼もしい反面、ふとした拍子に鬱陶しくなるものなのだからな。どちらかに幸福が舞い込めば妬むし、不幸があれば自分の事のように思えてくる。まったく、難儀なものだった」
「だった?」
「最近は、あまり喧嘩することは無くなった。お互いに明確な差が出来てきたからだ。同じ生き方では居られなくなってきたと言うべきか。違いが大きくなるにつれて、考えていることが判り辛くなってきて、別個体なのだと、今更ながら思い知らされている」
「・・・今、絶縁するほどの喧嘩をしたら、どうする?」
「そうだな・・・おそらく、暫くはそのままにしておくだろうな」
「え、放置?」
「ああ・・・暫くは別の事に目を向けて、頭を冷やすんだ。クールダウンが終われば、元通り」
「なるほどなぁ・・・クールダウンか」
「参考になったなら、良いが・・・」
「もちろん、参考になったさ。ありがとう」
「なら良かった・・・さて、そろそろ帰る時間だな」
 時計の針は、16時半を指している。
「そうか、話せて良かったよ」
「ああ、二人きりじゃないと話せないこともある」
 立ち上がって、明良を見送る。去り際にがっちりと握手を交わして。
「じゃあ、ご両親に宜しく。それと、暁乃には肩揉みを」
「ふっ・・・ああ、伝えておく」
 一時の邂逅だったが、悪くない時間だった。クールダウンで元通り、か。確かにそれ真理だが、あの二人にはそれだけでは足らなかった。
 幸坂さんの緊張状態は、どうすれば解けるのだろうか。

      
 水曜日、今日は泉さんが居る。パソコンを立ち上げて、何やらカタカタやっている。
 私は、彼女から3席ほど距離を置いた椅子に腰を降ろした。すると、泉さんがタイピングを止めて、こちらに視線を向けてきた。
「少し、警戒が過ぎるように思えるのだけど?」
「いやほら、間合いには入らない方が良いかなって・・・」
「あら、私は貴方との約定で宣言してからじゃないと襲えないはずなのだけど?」
「それはそうだが・・・例えば、俺が本を読んでいたとする。そしたら不意に、泉さんが声を掛けてくるんだ。今から、貴方を殺すってな。俺がポカーンとしているうち、ナイフが首筋に吸い込まれていく。なんて、それなら奇襲も出来ちゃうなぁ~って思っただけさ」
「チッ・・・そんな姑息な事をするつもりは無いわ」
「今、舌打ちしませんでした!?」
「してないわ」
「えぇ・・・まあ、良いですけどね・・・いや、良くないか?」
「それよりも、手の内が判っているなら、近くへ来たらどうなの?」
「いや・・・このままでお願いします」
 何か、そこはかとなく怖いので。
「そう、分かったわ」
 案外すんなりと引き下がった泉さん。何だか、今日は今までに無くテンションが高いように思える。いったい何事だろうか。
 私が首を傾げ、本を手に取った時、また泉さんのタイピングが止まった。
「・・・栗柄君、何か悩み事?」
「どうした、いきなり?」
「貴方の顔に、俺様は高尚な考え事してんだから絡んでくんなや、と書いてあるから」
「長文だな!? というか、書いてないし。書いてあるとしたら・・・」
 たぶん、泉さんの異常なテンションについてだよ。
「根拠ならあるわ、まず今日の栗柄君は私との会話を早めに切り上げようとしている」
「それは・・・」
 貴女が何か怖いからだよ。
「次に、言葉使いが丁寧かつ素っ気なくなっている」
「そうかな・・・」
 盛大にツッコミを叫んだ気がするのだが。
「極めつけは、言葉を交わす姿勢、かしら。いつもは正面向いて相対してくるというのに、今日はずっと斜に構えている」
「・・・そうか?」
 それは、自覚ゼロだ。
「一人で悩まないで、人に話せば、楽になるって聴くもの」
「己は最大級の秘密を抱えているくせに・・・分かった、言うよ。泉さんって、中学とかで友達はいた?」
「居ないわ」
 えぇ、速答ですか。
「ツールとしての友達も?」
「ええ、一人も。私、中学校では嫌がらせを受けていたの」
「え、意外・・・」
 そういうの、絶対生かして置かなそうなのに。
「そこは、大学まで続く一貫女子校だったのだけれど・・・少し悪質な迫害にあっていたの」
「嫌がらせじゃなくて、迫害レベル!?」
「そこはイコールでは無いわ。まず嫌がらせを受けて、私がそれに報復、その行ないが一人歩きしていき、最終的に全校生徒から恐れられるという迫害を受けたの」
「規模の違いか・・・いや待て、全校生徒震え上がらせるほどの報復って何?」
「相手はグループだったから、一人ずつおびき出して、罪に対応した罰を与えていったの。例えば、ノートを切り刻んでくれた子は、椅子に縛り付けて、オカッパ頭に切り揃えてあげたわ。それから・・・」
 泉さんは、まるで詩でも諳じるかのように、報復の内容を語っていった。机に毛虫を仕込んだ生徒は、毛虫の蔓延る桜の下に、肩まで埋めたとか。トイレで水を被せてきた生徒は、便器の水の味を教えてあげたとか。一人また一人と消され、最終的に残った生徒は、クラスの中心で贖罪を叫ぶという、カノッサ的な屈辱を再現する羽目になるという顛末で、過去話は締め括られた。
「・・・よくもまあ、問題にならなかったな」
「なったわよ、外部には漏れなかったけど。私のやった事も問題だけど、いじめがあった事もまた問題。ブランド意識の高いところだから、当然のように揉み消されたの」
「とはいえ、生徒の口にまで戸は立てられないだろう?」
「ええ、だから、私はとある噂を流したの。この事を口外すれば、泉が報復に行くとね」
「・・・いや、でも、報復された生徒も黙って無いはず」
「ええ、それも危惧して、報復している時に刷り込んでおいたの。次はこんなものではないと・・・彼女たち、泣いて親に懇願したそうよ、口外しないで、口外しないでって・・・ふふっ」
 私はいつの間に、怪談話を聴かされていたのだろうか。
「えげつないな、本当に中学生のエピソードか?」
「ええ、完全なるノンフィクション。おかげで一貫校を出て、外部の高校を受ける事になったの」
「それが、泉さんがここに来た理由・・・」
「そうね・・・まさか、こんなところで好敵手が見つかるなんて・・・彼女たちには、感謝すべきかしら?」
「・・・必要無いだろう、所詮は結果論だ」
「ふふ、流石は好敵手ね。この話を聴いても、どこ吹く風といったところかしら?」
「報復にはドン引きだが、同情の余地は無い。そういう奴に手を出したのが悪いってだけの話だからな」
「言い得て妙ね、確かにそれだけの話・・・それで結局、栗柄君は私という好敵手を放っておいて、何に悩んでいるのかしら?」
「そういえば、ずいぶん脱線してたな・・・えっと、時間が解決してくれなかった喧嘩相手とは、どうすれば仲直り出来るかな、と」
「・・・・・・思ったよりも、くだらなかったわね」
「放っとけ!」
「それなら、報復すべきね」
「相手は一応、元は友達なんだが?」
「関係ないわ、やられたなら、やり返さないと余計に禍根が残るものよ。やり返した時に初めて、対等に戻ることが出来るのだから」
「つまり・・・対等に戻れてやっと仲直り、ってことか?」
「私に聞かないで、それは貴方が私にしたことなのだから」
「・・・ん?」
「要するに、憎み通せないなら、仲直りは案外簡単ということよ」
 泉さんが言いたいのは、やられたらやり返して対等に戻り、その時点で嫌いにならないなら仲直りは必然、ということだろうか。憎めないのが重要、確かにその通りであった。
「さて、もう17時を回ったわ。帰りましょうか?」
「まさか、一緒に帰ろうとか言い出すんじゃ?」
「自然な流れでしょう?」
「自然な流れで家を突き止めようとするな」
「あら、バレていたのね」
「なにを白々しい・・・」
 その後、駅までは一緒に帰りました。

      
 木曜日、今日は支倉姉だけが現れた。そして向かいの椅子にドカッと腰掛けるなり、開口一番、こう言い放ったのです。
「おう、肩揉めや」
「・・・あん?」
 何だ、この野郎。
「いや、明良から聞いたぞ? お前が肩揉みしてくれるって」
「ん? 明良が・・・」
 そこで私は、一昨日の支倉弟とのやり取りを思い返してみた。確かに、別れ際にそんな事を言った気がする。
「いや、でもあれは・・・比喩的な表現というか」
「そうか・・・じゃあ、よろしく」
「話を聞いて無い!? ・・・いや、いつもの事か」
「早くしてくれよ~。さもないと、あたしは明良を嘘つきと糾弾する事になるぞ~」
「なんだと・・・はぁ、仕方ねぇな。明良の名誉の為に」
「最初から素直にそうしとけ~」
 私は渋々、読んでいた本を閉じ、支倉姉の背後に回った。
「このポジショニング・・・首をへし折りたくなるな」
「物騒だな!? 肩揉みだからな」
「へいへい・・・」
 私は渋々、支倉姉の肩に手を置いた。
「・・・意外と肩幅無いんだな」
「何だ、セクハラか?」
「セクハラについて言及するなら、俺に肩揉みなんぞさせるなよ」
「冗談だ、冗談。JKジョークだ、笑って良いぞ?」
「いや、笑えないから。世の中にどれほどJKジョークで冤罪が生まれていると思っているんだ?」
「知らねぇ。さあ、始めてくれ」
「この野郎・・・喰らえ」
 私は、肩甲骨と背骨の間を縦に走る筋肉を、両手の親指で強く押した。
「ぐはぁっ!?」
 支倉姉は、悲痛な叫びを上げ、机に倒れ伏した。
「て、てめぇ・・・何をした?」
「ん? ツボを押したが、効いたか?」
「効き過ぎだ、バカ野郎!? 痛すぎて一気に目が冴えたわ!!」
 支倉姉は怒りに任せ、私の胸ぐらを絞め上げてきた。
「あはは、それは上々。それで、肩の調子は?」
「あん? 肩の調子だって?」
 訝しげに、支倉姉は両肩を回した。
「・・・ちょっと軽くなったような?」
「つまりは、そういう事だ。まだ、続けるか?」
「え、ああ・・・頼むわ」
 怒りを鎮めた支倉姉は、狐に摘ままれたような顔をして、再び着席した。
「もう、胸ぐらを掴むなよ。シワになる」
 私は次に、首筋から肩の先までの中心に、親指を押し込んだ。
「痛っぁ~!?」
「これもツボだ。人の身体には300以上のツボがあるそうだぞ?」
「いや、あたしが求めているのは、母さんとかにしてあげるようなやつで・・・」
「そう遠慮するな。筋肉に触れた感じ、疲れているのは本当のようだな・・・どれ、俺の知っている限りのツボを押してやろう」
「待って、あたしが悪かった! だから、これ以上は!?」
「あはは・・・問答無用」
「ぐぅ、ぎゃあー!?」
 知りうる限りの、肩の経穴を押すこと数分、結果として支倉姉は小さく震えながら、机にだらりと伸びている。
「ふぅ、肩は楽になったか?」
「あぁ・・・おか、げさま、で・・・」
「しばらくそうして居れば、痛みは引いてゆくだろう」
 ざまあみろ、そう心で毒づきながら、私は自席へ戻り、読書を再開した。
「さてと、大人しくなったところで、聞きたいんだけどさ」
「・・・何さ」
「暁乃って、友達居た?」
「友達? あぁ・・・昔は居たな」
「そっか・・・えっ、居たの?」
「悪いかよ・・・中学の時、気概のある奴が居たんだ」
 支倉姉はのっそりと起き上がり、憮然と胸の前で腕を組んだ。
「気概って、どうやって判るんだ?」
「タイマンして」
「ああ、なるほど・・・え、タイマン?」
「一対一でぶつかるんだよ。そうすりゃ、どんな奴か判る」
「そりゃ判るだろうけど・・・まだやる奴がいるとはな」
「まあな、大抵はビビっちまうだけだが・・・そいつには軽くいなされちまった」
「どんな屈強な奴に喧嘩売ったんだ?」
「あん? 華奢な女だよ、なのに気が強くて、目がギラギラしてた・・・そん時は言い負かされちまった」
「ああ・・・殴り合ってたわけじゃないのね」
「そりゃ当たり前だろ・・・まあ、何回かやり合って、そのうち浮いてる者同士、つるむようになったんだ」
「へぇ・・・ちなみに、その頃の明良は?」
「あいつは中1から修行の身だよ・・・あたしは家を継げないってことが判ってから、中3の終わりまで家の手伝いしてなかった」
「その間、よくつるんでたわけか?」
「ああ、屋上の錆びたベンチがたまり場だったな・・・あいつがサックスを吹いて、あたしはそれを聞きながら、ぼぉーっとしてた」
「サックス吹き鳴らす中学生ってどんな奴だよ・・・吹奏楽部か何かか?」
「どんなって・・・サックスは趣味だって言ってたな。なんか、向上心の塊って言うか・・・とにかく、よく分かんない奴だったな」
「よく分かんないのに、一緒に居たのか?」
「それな・・・何でだろ? 少し憧れてたのかもしれないな」
「憧れ?」
「・・・すげぇ我が強くて、衝突しても全然折れなくてさ、結局はあたしが折れることになるんだよ。どんだけ自信があれば、あそこまで強くなれるのか、あたしはそこに憧れて、知りたくて近くに居たのかもな」
「ふ~ん・・・その人とは今でも親交が?」
「いや、中学出たら、渡米するって言ってて、ジョークかと思ってたら本当に行きやがった。それから音信不通だし、特にあたしから連絡しようとも思わない」
「何でいきなりの渡米? サックスか?」
「さあ? 理由は言ってなかったし、聞いてない。でも、消えてくれて良かったかもな。あのまま、あいつとつるんでたら、あたしはあいつの腰巾着程度の女になってただろうな・・・間違いない」
「また何とも、酔狂な交友関係だな・・・」
「ははっ、酔狂か・・・仕方ないだろ? 自分に酔って、若さに狂ってんのが中学生ってもんなんだからさ」
 おもむろに立ち上がった支倉姉は、過去の出来事をふき飛ばすように、大きく身体を伸ばした。
「痛ぁ・・・おかげで肩が軽くなったわ。これで今日こそはあの常連も捌けるような気がするぜ」
 不敵な笑みを浮かべる支倉姉。あの常連とは、あの常連のことだろうか。
「もう時間だな、帰るわ」
「ああ、お疲れ・・・気を付けてな」
「何だよ、心配してくれるのか?」
「それはそうさ、大切な部員様だからな」
「へっ、そう言う時はマブダチだから、だろ?」
 支倉姉は、憎たらしげにあかっかんべーをすると、扉へ歩み寄り、ドアノブを掴んだ。だがそこで、一旦動きが止まり、何故かこちらを振り向いた。
「・・・どうかしたか?」
「今思えば、あいつとお前って・・・」
 あいつとは、過去の友人の事だろうか。
「まったく似てないな」
 彼女はそれだけ言い残すと、勢い良く出ていった。
「何だ、そりゃ!!」
 一人なので、普段なら面映い、大声のツッコミをしてみました。
 それにしても、支倉姉の過去の友人とまったく似てないということは、真逆と捉えれば良いのだろうか。えっと、目がギラギラしていて、向上心の塊で、我が強いの真逆。つまりは、目が死んでいて、事無かれ主義で、自分が無いということか。あはは、それはまさに私じゃあないか。
「って、究極の没個性か!!」
 せっかくなので、もう一度ツッコミしておきました。部室に一人で本当に良かった。

      
 あっという間に金曜日、今日は幸坂さんに答えをもらわないといけないのだが、気が付くと既に、放課後の教室から姿を消していた。これは、仲直りをする意思は無いということだろうか。帰りの挨拶もしないほどに、彼女を追い詰めてしまったのだろうか。
 ぼんやりと佇んでいると、他の部員たちが今日は帰ると告げてきた。どうやら一人のようだから、今後の事は部室で考えることにしよう。
 そう考え、職員室へ向かった。扉を開けると、そこには年配の男性教諭にイビられる柘植教諭の姿があった。面倒そうなので、こっそり鍵を取ろうとしたが、あっさりと柘植教諭に見つかってしまった。
「あ、栗柄君! ちょうど良いところに・・・」
 突然、柘植教諭に肩を掴まれ、男性教諭の前に突き出されてしまった。
「教頭先生に、私の顧問としての活躍を教えてあげて!」
 なるほど、この男性教諭が荒廃した毛髪がQRコードになっていると噂の教頭か。そこそこ身長があるので、全貌が拝めないな。
「君が例の部活の部長かね? 君の部活動には校長を始め、多くの先生が興味を持っていてね。私としても、活動実態や柘植先生の働きについて興味があるのだが・・・」
 このなんとも高圧的で、嫌味ったらしい物言い、まさに教頭の見本のような人物である。これにイビられる柘植教諭は日々大変だろう。ここは一つ、助け船を出しておこうか。だから柘植教諭、私を盾にして隠れないでください。
「コホン・・・それはそれは、このような(得体の知れない)部活動にご期待頂き、光栄の至りであります。活動実態に関しては、前期の活動報告で御理解頂くとして、柘植教諭の顧問としての働きでしたか・・・そうですね、柘植教諭には常々、人生の先輩として教訓(つまり愚痴、主にあんたの)を御教授して頂き、まだ未熟な我々を日々指導してくださっておりますよ?」
「ほほぅ・・・柘植教諭が生徒に教訓を垂れる程の経験を積んでいるとは思えないのだが、それほど勉強になると?」
「確かに、柘植先生はまだお若い。教頭先生からすれば、まだまだひよっこ、学生に毛が生えた程度なのでしょう・・・ですが、自分の将来を近々までしか想像出来ない我々のような学生には、柘植先生くらいの方が、将来を想定し易いのです。我々が気にしている大学という場所や就職状況などの、鮮度の良い情報が得られるのですから」
「ふむ・・・・・・それは、一理あると言える。若いが良く物を考えているようだ、柘植先生もこのような生徒に恵まれているのだから、これからも一層精進するように」
「は、はい・・・」
「おっと、そろそろ部室へ行かないと・・・柘植先生の部員達が待っていますよ、それでは教頭先生、失礼致します」
 私は、教頭に一礼してから、柘植教諭の背中を押して、職員室を後にしようとした。
「・・・待ちたまえ」
 職員室を出る寸前、教頭から待ったを掛けられた。
「な、何でしょう?」
 まだ難癖をつけてくるつもりなのか。悪いが、疲れたぞ。
「・・・鍵を忘れているようだが?」
「鍵・・・ああ、これは失念していました。ありがとうございます」
 私は急いで鍵を取り、扉を出てから振り返った。
「それでは、失礼致します」
「うむ、活動報告を楽しみにさせてもらおう」
 笑みを浮かべながら、職員室の扉をしずしずと閉め、これでなんとか、教頭の攻撃から逃れることが出来た。振り向くと、真っ青な顔色の柘植教諭が、呆然としていた。
「ありがとうね、栗柄君・・・先生、助かったよ、あはは・・・」
「それは構いませんが・・・先生、あれはパワハラに該当すると思われますので、記録を残しておく必要があるかと」
「大丈夫、大丈夫・・・今の世の中どこも変わらないし、パワハラだって騒いだところで、職場の鼻つまみ者にされるだけだからね」
「・・・そうですか」
 世知辛ぇな、まったく。この先生は、三年間も耐えられるのだろうか。この薄氷を踏むかのような精神バランスと我らの部活は一蓮托生なのだから、放置も出来ない。いっそ、こちらで教頭の弱味でも握っておくか。
「それにしても、教頭を丸め込める人、しかも生徒がいるなんて驚きだよ・・・ホントに一年生?」
「あはは、ピチピチの高校一年生ですよ。ああいうタイプの方は、持ち上げながらこちらの意見を奏上するしか無いので、言ってることの大半が詭弁なんですけどね」
「・・・本当に十数年しか生きてないのかな?」
「後から生まれてくる我々が、先人よりも有利なのは、先人の経験を先人が費やした時間よりも短い時間で追体験出来るところにあります。フィクション、ノンフィクションに関わらず、人が書き上げた物を読めば、その数に応じて、経験を積んだことになるので、若い時分から経験則を身に付けられます」
「読書か・・・して来なかったなぁ」
「まあどうあれ、あのイビられ方は、嫌ですよ。お困りの際は、部員一同で援護させて頂きます」
「あはは、嬉しいな。先生冥利に尽きるけど、それも詭弁だったりするのかな?」
「酷いです、生徒として出来る限りの誠意を示したのに・・・」
「ゴメンね、ちょっとした冗談のつもりが!?」
「・・・まあ、合っているのですが」
「ええっ!?」
「顧問あっての部ですので、先生に倒れられるのは、我々にとっても死活問題なのです。ゆえに、我々がサポートするのは自明の理かと」
「ははぁ・・・栗柄君は小難しい言い回しをするね」
「敬語モードでは、言葉が小難しくなるのが、俺の悪いところですので・・・」
 部室に辿り着くと、柘植教諭が思い出したように口を開いた。
「そういえば、栗柄君は肩揉みが上手だとか」
「は? そんなこと誰から・・・いや、一人しか居ないか」
 支倉暁乃、口を封じておかねば。
「支倉さんが、体育の時間に教えてくれたの。肩が軽くなり過ぎて、頭おかしくなりそうだって」
 おかしい、ハイになるような効能は無いはず。
「つまり・・・その話を振ってくるということは、御所望ですか?」
「お願いしようかと~」
「はぁ・・・体育の成績にオマケしてくれるなら、構いませんよ?」
「まさかの裏取引!? それは流石にちょっと・・・」
「ですよね。分かりました、今回は特別に無償で良いですよ」
「は~い」
 柘植教諭には椅子にお座り頂いて、肩に手を置いた。そして驚いた、弾力性を失った肩の硬さに。ちなみに駄洒落じゃないよ。人間の肩はここまで凝り固まるのか。これでは頼まれるのも無理はない。私は戦々恐々としながら、肩甲骨付近の経穴に親指を合わせ、押し込んだ。
 これは相当痛いはずだ、柘植教諭のオーバーリアクションに備えていたが、反応が無い。痛みに強い質なのだろうか、そう思った次の瞬間、柘植教諭の頭が前にガクンと倒れ、私は咄嗟に、肩を掴んでいた手で倒れ行く身体を支えた。危なかった、もう少しで机に顔面を強打するところだった。ゆっくりと柘植教諭の頭を机に降ろし、まずは脈を計った。脈拍はある、正常だ。次に呼吸を確かめるべく、口元に手を翳すと、掌に呼気を感じた。どうやら、柘植教諭は寝入ってしまったらしい、あの一瞬で。
 推察するに、柘植教諭は本人も気付かぬほど、極度に気を張った状況だったのだろう。週末のせいか、教頭のせいか、理由は定まらないが、私が経穴を押したせいで、緊張の糸が解れ、一瞬うちに意識を持っていかれてしまったのではないだろうか。仮にそれが真実だとすれば、高校教諭とは、なんと心身に負担を強いる職業なのだろうか。本来気に掛ける必要の無い立場にある私だが、同情を禁じ得ない。
 だが、それを言葉にするのは無粋というものだろう。私に出来るのは、教諭の肩の凝りを少しでも解消しておくことである。
 肩中の経穴を押すこと、15分、なんとか正常と言える硬さまで戻すことが出来た。おかげで、こちらの腕と肩がパンプアップされてしまった。まあ、木の幹を親指で延々押し続けたようなものなので、仕方ないだろう。
 柘植教諭に起きる気配は無い。相当深い眠りに落ちているのだろう。しばらくは放っておくことにした。上座に座り、本を開く。だが、内容は読み進めない。代わりに、尾行少女の今後について考える。
 幸坂さんが拒否している以上、彼女には仲直りの余地は無いと伝えるしかないだろう。相当のショックを受けることになるだろうが、どうフォローしたものだろうか。いや、そもそもフォローなどする必要があるのか。結論だけ告げて、去ってしまえば良い。私には面倒を見る義務など無いのだから。だが、彼女には、泉さんと似た何かをしでかしそうな危うさがある。放っておくのは、禍根を残すことになるやもしれぬ。やはりここは、諦めがつくまで、説得するのがベストなのだろうか。
 そんな事を延々と考えていると、不意に部室の扉がノックされ、ゆっくりと開かれた。
「あ、あの・・・」
 こっそりと顔を覗かせたのは、誰あろう幸坂さんであった。もしかして、結論を伝えに来たのだろうか。
 私は立てた人差し指を口元に寄せてから、机に伏している柘植教諭を指し示した。幸坂さんはこちらの意図を察し、静かに頷いてくれた。柘植教諭を見やると、まだ寝息を立てている。
 私は席を立ち、こっそりと部室の外へ出た。ゆっくりと扉を閉めてから、ようやく幸坂さんと相対した。
「幸坂さん、帰ったのかと・・・」
「実は、駅まで帰ってました・・・少し、お時間頂けますか?」
 幸坂さんの要請に、私は頷き返した。
「もちろん・・・屋上で話そうか」
 一応、部室の鍵を閉めてから、我々は部室棟の屋上へと向かった。
「あの・・・寝てたのって、柘植先生でしたか?」
「そうだよ、週一ペースで様子を見に来るんだけど・・・相当疲れてたみたいだから、寝ちゃったのかと」
「そうなんですか・・・栗柄君は、信用されてたんですね」
「え、信用?」
「そうですよ・・・そうじゃないと、女性が男性の前で居眠りなんて出来ませんよ」
 確かに、居眠りとはある程度の信用が無ければ出来ないことだ。電車での居眠りは、日本でしか成立していないように、誰かが自分を害することなど無いという信用が当たり前に無ければ、出来ないことである。女性なら尚更、居眠りする危険度が高いので、より高い信用が必要になるだろう。幸坂さんはそういう事を言いたいのだろうが、あの時、柘植教諭はいきなり気を失ったので、信用うんぬんは存在し無かったような。
「そうだった、俺も男の端くれだったね」
「あの・・・栗柄君は素敵な男の子だと思います、よ?」
「あはは、ありがとう。何だか、照れるな」
 まだ男の子と呼ばれるとは予想外で、なんとも気恥ずかしい。そうこう言っているうちに、我々は屋上へと辿り着いていた。
 ここは転落防止の柵が張り巡らされているものの、生徒の喫茶スペースとして開放されていて、東屋のような場所と自販機が設置されている。
「何か飲む?」
 尋ねると、幸坂さんは遠慮しながらも、ホットココアと返答した。確かに、今日はなんだか冷たい風が時折り吹く。私も同じものを買い、東屋のベンチに隣り合って腰掛けた。そしてしばし、二人して正面に見える、斜陽に染まった校舎を、ココアを口にしながら、ぼんやりと眺めていた。
「・・・私、逃げたんです」
 幸坂さんが不意に、そう呟いた。どうやら、始まったようだ。
「・・・何から?」
「・・・藤香から、答えを出すことから、そして栗柄君からさえ」
 消え入りそうな声で、幸坂さんは言葉を吐く。教会で告白でもするかのようにしめやかに。彼女の語り口は、罪悪感に満ちていた。
「私は、気付いてたんです・・・藤香に悪気が微塵も無かったこと、彼女が良かれと思ってやったことだってことを・・・」
「・・・例の、アップロードされたってやつ?」
「はい・・・私は、隠していた趣味を、彼女にしか明かさなかったことを曝されたのだと思い、絶望しました。そして怒りのままに、事態を理解出来ていなかった彼女と縁を切りました・・・それからはずっと、苦しんでいます。彼女の性格を鑑みれば、その様な意図があるとは思えない。ですが、私は彼女の行動を認めることが出来なかった。悪気が無ければ、善意があれば、何をしても良いと私は認めることが出来なかった・・・私は藤香から逃げたんです」
 幸坂さんの独白は、実に人間らしい矛盾を内包していた。自分が善き事、相手が喜ぶと考えた事が、相手にとっては意味を為さない、最悪苦痛を与えるだけの場合がある。例えば、振る舞われた料理がアレルゲンだったとか、親に買って来られた服が気に入らなかった等の凡例と本質は同じだ。押し付けられる善意と覆せないアイデンティティとの衝突。それは、自我が確立した者が相対した時、必然的に発生する。
 幸坂さんは、全てが善意から始まったのだと言う。しかし、善意と言えど、好みで無ければ受け入れられるものではないのだ。
「過去は追い掛けてくる、そんな言葉を、仲直りを持ち出された時に思い知りました。割り切る為、ここへ来たのに・・・別の道を選んだのに! 簡単に割り切れないじゃないですかッ!!」
 激しい感情の奔流、堰を切って吐露されるは、溜まりに溜まった心の垢か。斬り込むなら、今だろう。
「・・・幸坂さんは、赦したいから苦しんでいるの? それとも赦したくないから?」
「っ・・・私は・・・赦し、たい、です」
「そうか・・・」
 赦したいのに赦せないと絶対に赦せないとでは、雲泥の差がある。幸坂さんは、赦すことを許せなかったのだ。
「なら、俺は出来る限りのことをしよう。味方するって言ったからね」
「・・・ありがとうございます、正直、仲直りはどうすれば出来るのか分かりませんが、向き合ってみます」
「ああ、その意気だ。さて、仲直りの意志があることは伝えるとして・・・何時、どこで、どうやって仲直りとするかを考えないと。幸坂さん、希望とかある?」
「えっと・・・なら、来週の月曜日にしませんか? もう、時間もありませんので」
「ん? ・・・ああ分かった、日時は来週月曜日の部活の後だとして・・・どう仲直りさせるか」
 前提条件は、尾行少女から謝らせることだろう。それも、どのような事で、幸坂さんをどのように傷付けたかについて詳細に。あとは幸坂さんがそれを受け入れれば良いのだが、赦しを許せない幸坂さんをどのように納得させるのか。答えを求めると、泉さんの言葉が脳裏をかすめた。報復して初めて、両者は対等に戻れる。幸坂さんが報復を行なえば、きっと赦しても良いと考えられるはずだ。ならば、二人きりが望ましいだろう。つまり、支倉姉流のタイマンだ。言葉でもって、殴り合って頂こう。
 考えた内容を伝えると、幸坂さんは文言に驚きつつも、私の意図を理解し、了承してくれた。
「あとは、場所ですね・・・」
「そうだなぁ・・・どこか二人きりになれて、多少は怒鳴り合っても大丈夫な場所かぁ・・・」
「・・・ここは、どうでしょう?」
「ここって・・・ここ?」
 私は床を指差した。つまりは屋上、この喫茶スペースのことかと聞き返した。
「はい・・・この時間帯なら、人も来ないでしょうし、校舎とも離れているので、大きな声を出しても大丈夫かなって」
「確かに、ネックは他校生を学校の敷地に入れるところだけど・・・そこは柘植先生に相談すれば・・・そうだね、場所はここにしよう」
「は、はい・・・」
 幸坂さんは頷いた後、真っ直ぐな目で、こちらを見据えてきた。
「・・・どうしたの?」
「いえ、その・・・栗柄君は本当に優しいなとか、想ってしまって・・・」
「え、俺が?」
「はい・・・本来なら、手助けする義理なんて無いのに、こうやって、親身になってくれましたから」
「いやいや、幸坂さんに何かあって、部活に支障が出て欲しくないっていう打算的な行ないだからね?」
「それを言っちゃうのはどうかと思いますが・・・でも、栗柄君の優しさは、お母さんみたいですよ」
「あぁ・・・あれ待って、それどういう意・・・」
 幸坂さんに言葉の真意を問い正そうとしたその時、遠くからチャイムの音が響いてきた。17時を報せる夕刻のチャイム。鳴る場所が遠く、部室には聴こえてこないので、感慨深いものがある。
「・・・あ、そろそろ先生を起こさないとマズイか。幸坂さん、戻ろうか?」
「はい、行きましょう」
 私たちが部室へ戻ると、柘植教諭はまだ寝ていた。幸坂さんに頼んで揺り起こしてもらうと、柘植教諭は目を擦りながら、ゆったりと上体を起こした。
「あれ・・・幸坂さん? 私は・・・寝てたッ!?」
 柘植教諭は椅子を弾き飛ばすような勢いで立ち上がり、急な動きに驚いて固まる幸坂さんの両肩をがっしりと鷲掴んだ。
「今、何時!?」
 表情を強張らせ、鬼気迫る勢いで問い掛かる柘植教諭。幸坂さんは完全に震え上がっている。
「ひっ・・・あ、あの、17時を少し過ぎたくらい、です!」
 幸坂さんの答えを聞き、一拍、柘植教諭はホッと息をついた。
「・・・良かった、まだ誤魔化せる時間だ」
「先生、幸坂さんを離してあげたらどうです?」
「あ、ごめん・・・」
 解放された幸坂さんは、腰が抜けたのか、その場に座り込んでしまった。
「ごめんなさい、幸坂さん。大丈夫?」
「は、はぃ・・・」
 返事はするものの、幸坂さんの顔から表情は消え、小刻みに震えている。とても大丈夫そうには見えない。
「・・・そ、そうだ、先生。肩の具合はいかがですか?」
「え? 肩? どれどれ・・・うわぁ、軽い! 翼が生えたみたいだよ」
「翼が生えていたら重そうですけど・・・良かったです。肩揉みが効いたみたいですね」
「これは癖になりそうだね~。またお願いしちゃおうかな?」
「はい、お安くしときますよ?」
「お、お金取るの?」
「今回はサービスです。生徒に無償で肩揉みさせる顧問というのもあれでしょう? お金はいりませんが・・・成績に色をつけるとか、良い箇所を過大評価していただくとか?」
「相変わらず、平然と裏取引持ちかけてくるな、君は?」
「あはは、体育への意欲が無いので、お願いします」
「問題発言じゃないかな? まあ、休まず数値だけ出しておいてくれれば、悪いようにはしないと言っとこうかな?」
「ですよね~。それでは、私たちは帰るので、今日のところは鍵を戻しておいてもらえませんか?」
「了解、お安いご用だね」
 私は、座り込んでしまった幸坂さんを助け起こし、彼女を支えながら、部室を出た。それから、扉を施錠し、鍵を柘植教諭に託した。
「はい、確かに。二人とも、不純異性交遊は程々にね?」
「はぁ・・・女性に手を貸すのも不純異性交遊とは、まったく世知辛いご時世ですね」
「どこぞの英国紳士かな、君は・・・じゃあ、私は仕事があるから、二人とも気を付けて帰りなさいね」
 そう言い残し、走り去っていく柘植教諭。体育教師らしいが、廊下を走ってはいけませんよ。そういえば、学校に他校生を入れる件と、頬に痕がついていた事を伝えそびれてしまった。まあ、いっか。
「さてと、幸坂さん大丈夫?」
 私の左前腕に両手を置き、幸坂さんは、初めて立ち上がった幼児の如く、ぷるぷると足を震わせている。
「す、すみません・・・本当にびっくりしてしまって・・・腰が抜けるって、こういう感じなんですね」
「あはは、大変だったね・・・一人で歩けそう? それともおぶって行こうか?」
「だ、大丈夫です、歩きます。そうじゃないと、鼓動が収まりませんから・・・」
 幸坂さんは呼吸を調えると、なんとか一人立ちすることが出来た。
「よし、じゃあ帰ろうか?」
 こうして、幸坂さんを気遣いながら、私は下駄箱へと向かった。その道中、ある言葉が浮かび、何気なく呟いてしまった。
「・・・逃げても、良いんじゃないかな」
「・・・え?」
 それは、幸坂さんへのアンチテーゼ。今になって、励ましの言葉が出てきたらしい。それか、ただ単に、持論を展開したいだけかもしれないが。
「俺は、逃げたいなら逃げて構わないと思う。だってそれは、力の温存だからね。絶対に譲れないものがある、そんな時の為に温存しておくんだ」
「・・・絶対に、譲れない、もの・・・」
「譲れない時、人は自然と立ち向かうもの。何でもないようなところで燃え尽きてしまうなら、逃げられなくなるまで逃げちゃえば良いかと」
「・・・もしかして、励ましてくれてますか?」
「どうかな? 逃げる事が悪のように仰有るので、反論したくなったのかも。そもそも、古来より逃げ際を心得た将こそが勇将であり、無駄な犠牲を出さないことが後の決戦に勝機をもたらすのであって・・・どうやら、幸坂さんは間違ってなかったと言いたいみたいだ」
「・・・ふふ、ありがとうございます。少し解り難いところは、ご愛嬌ですね?」
「あはは、それは申し訳ないな・・・えっと、前にも言ったけど、貴女の逃げ場所エスケー部なわけだから、皆何かしらから逃げてきたわけで・・・」
「・・・同じ穴の貉?」
「それだ! 我らムジナーズだから」
「ふふ、可愛らしいです・・・栗柄君は、励ますのが苦手みたいですね?」
「そうみたいだ、貶すのは得意なんだけど」
「それは・・・笑えませんね」
 帰り道、幸坂さんは目を合わせてくれませんでした。別れ際、冗談だと笑ってくれたので良かったです。
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