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 看護婦や医師に無理を言い、リザリーはその日のうちに退院した。
 先ほどから妙に興奮して、頭が冴えている。手のひらについた傷の痛みも気にならないほどであった。

 近くの雑貨屋で新聞を購入して日時を確認したが、どうやら己が眠っていたのは3日ほどだったらしい。
 意外にも時間が過ぎている。
 しても仕方ない後悔を胸に宿しながら、リザリーは無言で新聞社に向かう道を歩んでいった。

 (自分たちを背景と自称する連中……多分、私とミモザさんを誘拐したやつらと同じだ)

 道すがら、中庭で聞いた男からの話を頭の中で整理する。

(私たちと彼らを繋ぐ糸がわからない。でもあいつらは多分……自分たちの思い通りに私たちを動かそうとしている)

 『新しい物語』、『皆が満足する物語』、『身勝手でない、素晴らしい、納得のできる物語』。
 天井裏で聞いた単語が、頭の中でぐるぐると回っている。

 彼らの言う『物語』が何なのか、いまだわからない。
 だがそれは、恐らくリザリーたちが普通に生活しているだけでは得られないものなのだろう。

 少なくとも彼らにとっては、リザリーだけでなくエルンストやカトレア、ミモザの人生に不満があるようだ。

(あいつらはミモザさんをその物語の『主役』と呼んでいた。でもその主役はもう……死んでしまっている)

 そうなると彼らの理想とする『物語』はどうなるのだろう?
 何もかもが台無しになったことにショックを受けて、雲隠れする?
 それとも別の『物語の主役』を探し始める?

 いや、送られてきた手紙(ファンレター)に書かれている一種の執念深さを見るに、これでリザリーたちの前から姿を消すとは到底思えなかった。
 もしかしたら今もなお、自分たちを狙って虎視眈々と準備を進めているのかもしれない。

(ミモザさんがいない今、彼らが私たちに何を望むのかわからない。せめて、手掛かりをつかんで対策を取らないと)

 目を閉じればいまだくっきりと浮かぶ、血にまみれたドレスで倒れる女性。
 もう二度とこんな思いはしたくない……唇を噛み締めながら、リザリーはたどり着いたビルを見上げる。

 慣れ親しんだ新聞社が、無機質な表情で己を見つめていた。
 ぐっと拳を強く握りしめ、オフィスへと続く階段を登り扉を潜る。

 いつも通り慌ただしい様子の新聞社には、仕事に勤しむ記者たちが右往左往していた。
 その中の一人、己とよく行動をともにする先輩が扉に佇む己に気が付き、朗らかな顔で声をかけてくる。

「あれ?リザリー?病院に運ばれたって聞いたけど」
「ええ、ご心配おかけしました。もう大丈夫です。あの、編集長はいますか?」
「編集長?あの人なら数日前から資料室にこもっているけど……」

 同僚は頭をかきつつ、「何か調べたいことがあるみたいだよ」とリザリーに告げた。

「社員が入ることも禁じているし、何か妙に切羽詰まった様子だったなあ。次の記事の調査かね?」

 呼んでこようか?と問われるが、これには礼を言って断った。
 出来るならあまり人目のない場所で彼に会いたい。

 いまだ体調を心配してくれるそぶりを見せる同僚に礼を言い、リザリーは資料室へと急いだ。
 バートン新聞社の資料室は、オフィスがある廊下の突き当りに存在している。

 平素からあまり人の出入りのない埃っぽい場所だが、今日はとくに何の気配も感じなかった。
 編集長が人払いをしているせいかもしれない。

 ごくりとつばを飲み込み、リザリーは扉をノックする。
 が、返事は返らない。今一度、今度はもっと強く叩いたが、やはり返答は無かった。

 恐る恐るドアノブに手をかけるが、驚くほどあっさりと回る。
 どうやら鍵はかかっていないようで、リザリーは開いた扉からそっと顔を覗かせた。

 本棚が所狭しと並ぶ室内は暗いが、明かりがまったく点いていないわけではなかった。
 部屋の隅に置かれた机の上に取り付けられた電灯のみが、煌々と光っている。

 恐らく編集長はデスクまわりで資料を広げていたのだろう。

「編集長?いらっしゃいますか?」

 一応声はかける、が、室内に人がいる気配は無かった。
 出かけているのだろうか?少しだけ落胆して、リザリーは資料室へと入室する。

(編集長は何を調べていたんだろう?……やっぱり、今までの事件のことかな?)

 リザリーはロジャー・バートン編集長が、今回の事件に関わりがあるのかどうかを知りたかった。
 もちろん左頬に怪我を負っていたのは偶然の可能性もあるし、関りがあるなら誤魔化されるかもしれない。

 それでもこの状況を知るための何か手掛かりになるものがあれば……と、彼の様子を伺いに来たのだ。

 あたりを見回しながらデスクに近づくと、乱雑に広げられた資料や手書きのメモなどがライトの光に照らされるのが見えた。
 くせ字で特徴的な筆跡が、全てバートンの手書きであると教えてくれる。

 一体何を書いていたのだろうかと覗き込めば、それは簡単な日時と起きた事件の名称、それに伴う走り書きであった。

(えっと、『花おしろい事件』?……これは前にエルンストが受け持った事件だ)

 世間一般的に『花おしろい事件』と呼ばれるそれは、一年ほど前に首都クルツを震撼させた連続殺人事件である。
 またエルンストとカトレアの名前を一躍有名にした事件であり、バートン編集長も張り切って記事にしていたはずだ。

 今更何を調べることがあるのだろうかとメモを読み込んでいくと……ふとその内容の違和感に気が付く。

 『〇月×日、エルンストとカトレア、初めて事件に触れる。ここで事件の証拠となる『おしろい』の登場。しかしこの中に毒性のものは入れられておらず、被害者がどうやって死んだのかはわからない』

 『〇月△日、首都クルツでの第二の事件。被害者の部屋の中にはやはり毒性のあるものは発見されず。エルンストとカトレア、関係者に聞き込みを開始。犯人である。ナタリー・は花屋を営んでいることを聞く』

(……なに、これ?)

 新聞記者のメモというよりも、まるで舞台か小説の筋書きだ。
 しかもいつエルンストたちが証拠の品を手に入れたかなど、騎士団からの発表でも語られなかったことである。

 彼らと旧知のリザリーでさえ知らないことを、何故編集長は見てきたように書けるのか?

 騎士団の誰かがもらしたのか?
 しかしそれにしてはメモの数が多く、それにも一般記者では知りえないことが多々書いてある。
 これほどまで捜査の裏側を、何も関係のない人間に話してしまう騎士がいるとはとても思えない。

(こっちは数か月前の『十字架事件』?それにこっちも……。全部その場にいないとわからないことが書いてある……?)

 一体どういうことだろう。
 リザリーは愕然としながら、バートン編集長が書いたと思われるメモに集中していた。

 ───そのせいだろうか?
 近寄ってくる気配に気が付いたのは、その靴音が背後で大きく響いたときだった。
 まずいと思ったが、時すでに遅し。

「クラントンくん?そこでいったい何をしているんだい?」

 知っているよりも低い声が背中にかかり、リザリーはぎくりと振り返る。
 ぼんやりとした明かりに、痩身の男の姿が照らされている。己の心境のせいか、真っ直ぐに立つ姿が不気味であった。

 背後に立っていたのは、予想通り、ロジャー・バートン編集長である。
 眼鏡越しに彼は、妙に冷たい目で凍ったように硬直する己をじっと見つめている。

「それを見たのかい?クラントンくん。ここには誰も入るなと言っていたはずだが……」
「いえ、あの……。先ほど病院から帰りましたので、そのご報告にと」

 念のため用意していた言い訳を口にすると、バートンはふうんと頷いてデスクに近づいた。
 広げてあったメモや資料を片付けながら、編集長は普段と違う感情のない声で呟く。

「てっきり僕は事件のことを知りたいのだと思ったよ」
「どうして、そう考えたのですか?何かお心当たりが?」

 ぴりりと空気がひりついたのを感じながら、それでもリザリーは問い返す。

「お心当たり、は僕の台詞だ。クラントンくん」
「どういう、意味です?」
「君は随分今回の事件に関わっているね?どうしてだい?もしかして君は奴と関わりがあるのか?」

 言われた言葉の意味がわからず、リザリーは眉間にしわを寄せながら首を傾げる。
 だがバートンは答えずにくるりと己を振り返り、聞いたことも無い静かな声で続けた。

「君は物語のいわゆるモブだからね。僕らに隠れて行動するにしても目立たないと思ったんだ」
「……っ!」

 その言葉を聞いて、リザリーは流れる血液全てがざっと足の方へと降りて行ったように錯覚した。
 真っ青になっただろう己の顔を見て、バートンは口元を歪める。

「おや?モブ、という言葉に何か感じることがあるのかな?」
「や、やっぱり、編集長は、その……」

 静かな目をしたままバートンが、リザリーに向けて一歩を踏み出す。
 弾かれたように彼から距離を取り、呆然と男の顔を見据えた。

 無言でバートンがリザリーを見つめ返す。
 その目が見たことのない冷たい色になっていることに気が付き、リザリーは再び血の気が引いた。
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