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甘い香りの中で

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 話し終え、しばらく二人は黙り込んでいた。
 助手席の窓から見える景色は、前から後ろへ流れていく。空は青く、雲一つない。街道には街路樹や季節の花が植えられている様子もうかがえる。
 街は賑やかで、道行く人々の顔も穏やかだ。

 それを見ていると、落ち込んで尖っていた気持ちが少しずつ柔らかく丸くなっていく。
 花々が咲き誇る、色鮮やかな季節である。生命に満ち溢れ、ありとあらゆる草花の香りが空気の中を流れる。
 ヒオリが一番心浮き立つ季節だった。

 そして───故郷でニールと生命の香り溢れる植物園を駆けまわっていたのも、こんな季節だった。

 あの幸せな時間を過ごしていたときは、彼を忘れてしまうことも、再び出会ってこんな事件に巻き込まれることも想像していなかった。
 懐かしさを感じながら、視線を景色からハンドルを握る男に向ける。

 幼少期は少々頼りなくおどおどした様子だったというのに、ずいぶん立派な美青年になったものだ。
 いや、顔立ちはあの頃から美しかったか……。そんなことを考えながらくすりと少し微笑んで、ヒオリはニールに声をかけた。

「ねえ、ニール。少し寄り道しない?」
「おや、何処へ?」

 少し驚いたような顔をしたニールだが、拒否の言葉は出なかった。
 むしろ、すぐに嬉しそうに目を細めて行き先を尋ねてくる。
 彼の横顔を眺めてからヒオリは、自分たちが今通っている大通りの右手に視線を転じた。

「この先の植物園。すぐ近くなのよ。名前は……」

 ヒオリが植物園の名を伝えると、ニールは「了解です」と頷き次の交差点でハンドルを右に切った。
 どうやら彼もその場所を知っていたようで、詳しい住所を伝えずとも車は目的地へすんなりとたどり着く。

 太陽の光を浴びて銀色に輝くドーム型の温室の隣の駐車場に車を停め、二人は穏やかに談笑しながら入園した。

 ディアトン国の中央にあるとはいえ、植物園はごくごく小さいもので平日のこの時間は人がいないことが常である。
 ヒオリとニール以外に園内には人の気配はなく、二人は誰の目も気にせずに自由に歩いた。
 あたりには花の香りだけが漂っていて、幸福な気持ちが心の中に満ち溢れてくる。多幸感とともに香りを鼻孔いっぱいに吸い込んで、ヒオリは小さく呟く。

「いい香りね。天気もいいし」
「絶好の散歩日和ですね。……あの頃を思い出します」

 少しだけ懐かしそうな口調で呟く彼に、ヒオリは柔らかく微笑みながらその顔を見上げた。
 長いまつ毛に縁どられた目で、優しく植物園を眺めている。

 彼の言うあの頃……、確かにここはあの美しい思い出の植物園に雰囲気が似ていた。
 だからこそ、ヒオリはこの場所によく足を運んでいたのである。

(彼も同じように感じてくれたのだわ……)

 奇妙なことに嬉しさが溢れ出て、ヒオリの心臓がいつもよりも早い速度で脈打っている。
 美しいニールの表情に、締め付けられるように切なく甘い痺れが走ったのは気のせいだろうか?
 曖昧な感情を持て余しながら視線を花壇へと転じ、ふと優雅に咲き誇る赤い花々の姿を見つけて「あ」と声を出した。

 ヴォタニコスの植物園でも植えられていた品種の薔薇である。
 懐かしさに目を細め、ヒオリは花壇のそばへ足先を向けて歩き出した。

「見て、ニール。あの薔薇は……」

 そう言って振り返った瞬間、石畳の段差に気付かずにパンプスの先をぶつけてしまう。
 ふんばることが出来ず、勢いよく態勢が崩れた。ぐらりと傾く景色の端に、目を見開いたニールの顔が見える。

「ヒオリ殿……!」
「あ……」

 慌てて手を伸ばしたニールが、ヒオリの腕を掴んで引き寄せた。あっという間に、体はスーツ越しのその胸に抱きとめられる。
 彼の体温とそれに混じったマリンノートがヒオリを包み、早鐘のように高鳴っていた心臓が一際大きく跳ねた。

 ニールのトレードマークと言ってもいいその香りは、もうすっかり己の鼻孔に馴染んでしまっている。
 この香りとともにいつだって彼は自分を受け止めてくれていたことを思い出し、ヒオリの胸はことさら締め付けられた。

 感情の赴くままぎゅっとスーツの胸元を掴むと、ニールは「ヒオリ殿?」と心配そうな様子でこちらを覗き込んでくる。

「大丈夫ですか?どこかお怪我を……?」
「ねえ、ニール。貴方はもう帰るの?」

 言葉を遮り問いかけると、頭の上で彼が息を呑んだ気配を感じた。
 普段は穏やかな青年が、己の様子に戸惑っていることがわかる。その戸惑いの波が収まるまでヒオリは彼の胸に顔を埋め、返答を待った。

「ええ、魔法研究所での不正は全て暴かれましたから……。調査を終えれば、私は魔法協会へ帰ります」

 やがて返された言葉に、ヒオリは唇を噛み締める。
 予想はしていたが、こうはっきりと言われてしまうとなかなかにショックが大きい。

 どうしてそう感じたのかは、はっきりと理解していた。まったく小娘でもあるまいし、と内心で自分で自分を嘲笑う。
 ゆっくりと顔を持ち上げて、彼を見上げる己の表情は、きっと情けないものだっただろう。

「行かないで、と言うのは無理なんでしょうね」

 ニールが再び目を見開き、息を呑んで固まる。
 唇が小さく「それは」と言う形で動き、そしてほのかに彼の頬が朱に染まった。ヒオリの告げた言葉の全ての意味を、理解してくれたのだろう。

 くすりと微笑み、ヒオリは再び彼の胸に顔を埋めた。
 拒まれることは無い。代わりにニールの両腕が己の背中に回され、ぎゅっと優しく抱きしめられる。

「ねえ。私、また貴方を忘れるのは嫌だわ」
「もう……二度と貴女にそんなことはしませんよ。それに、私もまた忘れられてしまうのは堪えます」
「そう思ってくれるなら嬉しいわね」

 くすくすと微笑むと、ニールもまた困ったようにささやかな笑い声をあげる。
 大好きなマリンノートを吸い込むと、ヒオリは顔を上げて彼の深く綺麗な青い瞳を見上げて告げた。

「ねえ、今度一緒にヴォタニコスに帰りましょう。あの時話せなかったことがたくさんあるの。貴方に見せたいものもたくさんあるのよ」
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