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引っ越し先にて
しおりを挟む「実は今月末で引越しすることになりまして…」
2024年6月19日。
石川光太郎(いしかわ・こうたろう)は、5年間住んだマンションの隣の部屋の老婦人角田澄子(かどた・すみこ)に転居の挨拶をするため、インターホンを押した。
光太郎はマッサージ師の道原麗子(どうはら・れいこ)と2019年に結婚し籍を入れたその日からこのマンションで暮らし始めた。
同じマンションの住人は互いにほとんど挨拶もしない中、澄子だけは気さくに声をかけ続けてくれた。せめてこの人にだけは最後に挨拶をしたいと思い、澄子が好きだと言っていた黒豆煎餅を手土産とした。
「いやあ、残念だわぁ」
玄関の戸を開けた瞬間、澄子の正直な心の声が漏れた。
「あなたたちだけなのよ、私みたいなおばあさんに毎回挨拶をしてくれるのは。どちらにお引っ越しなさるの?」
「西井戸町に中古の一軒家を買いまして」
西井戸町は、光太郎たちがすむ通葉市にある地域で、駅からは離れているため交通の便は悪いが治安が良く、小中学校の校区としては市内で最も人気である。
澄子は満面の笑みを浮かべた。新たなステージに進む若者を応援する、理想的な年長者の穏やかな笑顔である。
「あら、おめでとう!西井戸町とは素敵ね、安心して暮らせるわ。これからたくさんの想い出が待ってるわよ。楽しんでね。時が過ぎるのは早いから、1日1日を噛み締めてくださいね、赤ちゃんと共にね」
澄子は麗子のお腹をにっこりしながら見つめて言った。
「あ、やっぱり分かります?8月に産まれる予定なんです」
さすがは人生の大先輩である。今まで数多くの妊婦を見てきたのであろう。
◇
6月29日。
「オーライ、オーライ、はいオッケーでえす」
大きなトラックが、光太郎の住むマンションに停まった。
「いよいよ引っ越しかあ。麗子、ここにはたくさんの思い出が詰まってるよね」
光太郎の目には光るものがあった。
この5年間、幾多の人生のターニングポイントをこの部屋で迎え、人間として成長してきた光太郎。
次なるステージに進むとはいえ、さみしさがないといえば嘘になる。
「光ちゃん、今まで本当に頑張ってきたもんね。でも、西井戸町はもっと静かだから、あなたの心にはきっと平穏が訪れるはず」
麗子は光太郎の背中に手をやり、優しくさすった。
「ああ、西井戸町の素晴らしさは毎日感じているよ」
光太郎はこの5年間で何度も転職を繰り返し、2022年4月から西井戸町にある小さな塾で働いている。
その塾で働き始めてからそれまで悪かった体調が急激に良くなり、趣味に仕事に全力を注げるようになったのだ。
そんな西井戸町に惚れ込み、子どもができたらいつか住みたいと常々話してきた。
それがついに現実となるのだ。
1時間ほど経ち、かつて2人が生活していた部屋は、5年前に内見した姿に戻ってしまった。
「なーんにもなくなっちゃった…。俺たちって、本当にここに住んでたのかなぁ」
小さな声で呟きながら、光太郎はマンションの鍵を閉めた。
◇
2025年、1月1日。
(ガシャン)
光太郎と麗子の家のポストが音を立てた。
「年賀状か」
光太郎はポストから5枚ほどの年賀状を取り出した。
「最近は送ってくれる人もめっきり減って…。あ!」
「お元気な赤ちゃんとお過ごしのことと思います。今までありがとうございました。素敵な人生を歩まれることを願っております」
年賀状の主は、かつての隣人の澄子だった。宛先を見ると、前の住所の上から西井戸町の住所が上書きされていた。
「あ、転送設定してるの知ってたんだ」
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