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第一章 幼少期

みんなと同じ事が出来ない私

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 小学生になると私の絶望が始まる。

 重たいランドセルを背負って沢山の荷物を持って、片道40分の通学路。

 行って帰ってくるだけでも緊張と疲れの連続だ。

 トイレの使い方から給食の配膳や食べ方片付け方。体操服に上履き、ノートに鉛筆の管理

 思い出すだけで吐きそうになるくらいの支度の山。


 まず、お母さんは朝起きれない人だったから、一日置きにお姉ちゃんと布団畳む係と朝ごはん用意する係りを交互にした。

 学校の持ち物のチェックも支度もまともにできない私は、毎日のように忘れ物をして

毎日のようにお姉ちゃんの教室に助けを求めに行く始末。

 だからお姉ちゃんはクラスメイトに馬鹿にされていた。

「またバカな妹が来たぞっ!」て。

 そして私はその空気をまた鈍く察して誰かの物語のように感じるだけだった。

 先生の言葉も何一つ、頭に入ってこないから、絶えず周りの動きを見て何となく真似してみる。

 でも意味がわかっていないからそれでいいのかさえわからず、いつも不安でおどおどしていた。

 宿題も、次の日の支度もちっとも理解ができなくて、今思うと魂が半分抜け出していたように思う。

 半分しか魂の宿らない体、まだこの時は自分という認識がとても薄かった。


 毎週末、上履きを落として帰ってくる。

 片道40分の道のりでは探しきれず誰かのお下がりを貰って履いたりしていたけど、あまりにも無くすから

もう譲ってもらう上履きも無くなって来て、とうとうつま先が緑で年季の入ったブカブカを履くことになる。

 給食着を持って帰らないから洗濯出来ない事もザラだったし、傘も松葉杖のようにしてすぐ折れる。

 どうしてもやってみたくなる、この衝動を抑えられない。

 ひどい時は道草してるうちにランドセルを忘れて帰ってしまって

夕方激怒した父親に泣きながら探しに行かされた事もある。

 いつも叱られていた。

 どうしてお前はそうなんだ!!

 親戚が集まっている日は一同の真ん中に立たされて、コイツはこんな事も出来ないんだって

ゲンコツをされた。何度も。

 その時の私に今ほどはっきりした自我は無かったかもしれないけど、みんなの前で痛くて悲しくて

どうして出来ないのかわからなくて怖かった。

親戚の人は可哀想だからもうやめなよって言っていて、それで今そんな状況なんだって鈍くわかる。

 だけど、どうしてお母さんはそんな私を庇ってくれなかったんだろうって

自分が子供を産んでから思った。



 どうして出来ないんだって叱られても

 どうしてそうなんだって嘆かれても

 私もわからない。

 私は目の前の事にしか意識が向けられていなかったし、やりたいことしかどうしても出来なかったんだ。

 人の声もよく聞こえないし、人の言葉に興味が持てない。

 どうしてと言われても、未だにわからないし今でもそうだ。

 小学生時代を今やり直せと言われたら

 やらなきゃいけない事をする為に、言われたことを聞き逃さない為に

 落とし物をしないように

 細心の注意を払って、私は体も心も疲弊し切ってしまうだろう。


 
 そして実際私の耳は殆ど聴力を失いかけていることが判明した。

 何度呼んでも反応しないことで病院に連れて行かれた。

 浸質性中耳炎。あと少し遅かったら手遅れだったそうで、この日から地獄と恐怖の治療が始まった。

 2年間1日置きに夕方お母さんに連れられて、おっかない顔のお爺さんが、いかにも医者って格好して

私の耳や鼻に色々突っ込んくる。

 泣いても後ろに下がろうとも、ぴったりと背もたれがそれを許さない。

 拷問の台だ。

 こんな時はお母さんて優しく「よしよし」って慰めてくれるもんなんじゃないのかな‥‥

 流石に何もわからない私にもお母さんは優しい、みたいなイメージが植わり始めていた。

 毎回泣き喚く私にお母さんは、仕方ないねって顔をしていた。

 
 2年生になるとお姉ちゃんが通っていた算盤学校に一緒に通い始めた。

 左利きだったし私にそろばんなんてできなさそうと、ここまで読んで来た方は思うでしょう。

 ところが先生たちが優しくて、計算ができるようになるコツが私には合っていたみたい。

 数字は早くも好きだって思えた。案外暗記方式の掛け算九九なんかも覚えるのが早かった。

 そういえば保育園の時からお母さんは私と2人で過ごすような時

私にパズルや知恵の輪、解体してまた組み立てる小さなロボットやピストルのおもちゃを与えていた。

 私はそれが大好きで繰り返し何時間も飽きずに遊んでいたのを思い出した。

 立体的な物が好き、数字が好き。これが何となく私の知育を救ってくれたらしい。


 小学生に上がる頃引っ越してきたこの家は、お父さんの両親、つまりおじいちゃんとおばあちゃんの家だった。

 お父さんの弟夫婦が入っていたのに折り合いが悪く出ていってしまったから、私たち家族が代わりに入った。

 元々仮の家族のような感覚であった生活は一層心地の悪い暮らしになっていた。

 おばあちゃんは、ザ、田舎の肝っ玉ばあちゃん!みたいな人でズケズケなんでもいう人で

おじいちゃんはお父さんとは血の繋がりはなく、いかにも仲が良くなかった。

 鬱病で仕事もせずに一日中暗い部屋でテレビを見ている。しかも大きな音で。

 私とお姉ちゃんがふざけて少しドタバタすれば、すかさず「うるさい!」と怒鳴ってくる。

 唯一家族が集まる夕食も一切の会話はなかったけど、おじいちゃんは夕飯の時間が遅いとか、

おかずがどうのこうのといつも不満を言っていた。



 怖い耳鼻科に行くか、そろばん学校に行くか、お通夜みたいな夕飯か。

 長距離運転手のお父さんは食事の後さっさと寝てしまい、私はお姉ちゃんと2人で子供部屋に行く。

 自分たちの事は自分達で。当然お風呂や宿題、明日の支度の世話なんか焼かれない。

 
 私はこの小学生時代の事はあまり思い出したくない。

 楽しいと思える時間は確かにあった。

 時々お父さんは休みの前の日機嫌がいいと、夫婦の部屋に私達を呼んでゲームをしたり

クイズをしたり、夜食にラーメンを食べたり。

 楽しいと思える時間はあった。確かに。

 でも、激怒や罵りの言葉で私を遠ざけ、楽しかった時間を一瞬にして粉々にしてしまう事もある。

 私は鈍い感覚の中で、私が悪いって解り始めるんだ。

 4年生にもなる頃にはこのたまにやってくる楽しい時間が、お父さんの機嫌を取る為の正解探しの時間に変わっていった。

 これが人に媚びると言うことなら私が人に媚びた経験は、人生でお父さんだけだ。



 
 密かな楽しみは、お布団に入ってから掛け布団の中に潜り込むと、暗闇にパビリオンショーが始まる。

 紫色の光だったり黄色やピンクの光がイナズマみたいに、線香花火のバチバチ勢いのある火の柱のように

遠くから近くにやってきたと思えば、今度は色んな幾何学模様の光の連打が向こうからやってくる。

 暗闇はいつも楽しい。綺麗な光を私に沢山見せてくれる。

 私は1人、布団の中で作る暗闇に溶けていった。



  私9才
  
    お母さん33歳
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