首輪が嫌いな君にRewardを。

雪国培養まいたけ

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【第6話】言ったら全部、叶えてやる。

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最奥の部屋で、彼を見つけた。その部屋には天窓がついていて、柔い月明かりが彼の身体を照らしている。
 虚ろな瞳が、こちらを見据える。肩が大きく跳ねた。
「ひっ!」
 人の気配に反応して、怯えだす。
「ごめ、ごめんなさい」
 もう逃げない、もうやらない、だから許して。そう言って、腕を使って顔をかばう。
 色白の肌に映る、無数の牡丹のような痣に、国近は顔を歪めた。
 連れ戻されてから三日。この日を選んだのは国近だ。今後を考えた時、今日が一番安全だった。それでも、今この瞬間、目の前で苦しんでいる彼を目の当たりにすると、もっと早くに助けに来られたのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
 振り下ろした拳が、背後の襖を殴る寸で止まる。
 深く、息を吸い込んだ。
 そうだった。痕跡を残したらいけない。なによりも、これ以上ハルトを怖がらせたくない。
「ハルト」
 呼びかける。
「へ……?」
 腕が解かれて、不思議そうな瞳がこちらを見つめた。
 彼を刺激しないよう、ゆっくりと近づき、布団のそばで片膝をついた。
 頬を撫でる。
 汗ばんで頬に張り付いた、浅葱色の髪をどける。顔にはひと際大きな青あざが出来ていて、唇の端が切れてしまっていた。瞳は、泣きはらしたように腫れている。身体の状態も、近くでみると、いっそうひどいものだった。
 傷もそうだが、精液、血液、涙の残り、得体の知れない体液が固まって、彼に張りついている。
背中に見える傷は、きっと鞭だろう。臀部は不自然に赤く腫れていた。
 首元には重厚な首輪がついていて、無数の線状痕が前よりも酷くなっていた。また乱暴に、ひっかいてしまったのかもしれない。
 唯一救いなのは、どこも折れてなさそうなところぐらいだろうか。骨折はさすがに、国近だけじゃ対処ができない。病院には連れていけない。外部の機関を頼った時点で見つかる可能性は高い。
 腕を引っ張り、抱き起す。なるべく傷が少なそうなところを選んで触った。
 そのまま強く抱きしめると、張りつめていた彼の身体が弛緩した。
「……た」
 唇が、小さく動く。国近に向かって、何かを伝えようとしている様子だが、喉が掠れているのか上手く言葉を紡げないようだった。その場でじっと、彼の言葉を待ってやる。
「“かえりたい”」
 今にも掻き消えてしまいそうな呼吸の隙間で、彼が言った。
 国近は息をのんだ。その言葉は……。
「……覚えてたのか」
 彼が控えめに、国近の服の裾を掴んだ。それはまるで、もう離れないと言っているようだった。
 心から愛おしいと、そう思った。
「ああ。分かった。ちゃんと言えて、美斗はいい子だね」
 そう言って、国近は泣き出しそうな顔で笑う。
 優しく頭を撫でると、安心したのだろう。美斗は瞼を閉じて、上体を国近に預けた。
 そのまま、彼の意識は途絶えた。

 か細げな寝息を立てはじめた彼に、自らの上着を被せる。
 邪魔になるかとも思ったが、薄手のコートを羽織ってきたのは正解だった。
 目の前には美斗の服らしきものが散らかっていたけれど、この部屋を思い出させるようなものを、国近はなるべく持ち帰りたくなかった。
『セーフワードは、“かえりたい”』。
『やめてほしい時の合図だよ。俺は君が嫌がることをする気はないけれど、嫌なことは言ってくれなきゃ分からないだろ? どうしても無理だ、出来ないって思ったら今の言葉を口にして』
 あれは、国近が教えた言葉だ。
 自分たちのセーフワード。
 彼のSOSだった。

 出来ることなら一生、使わせたくなかった。



 半日後。モダン調なダブルベッドの上で、須藤美斗の意識は、ゆるやかに浮上した。
 視界の先に、見慣れない天井が広がっている。そのことに若干の違和感を覚えながらも、その理由を考えられるほど、回復はしていない。頭の奥は、靄がかかったみたいにはっきりしなかった。
 目の奥がチカチカとして、美斗は数回まばたきをした。
 視界が、ぐるぐると回る。胃の内側を乱暴に泡だて器か何かでかき混ぜられているような激しい吐き気がした。
 肉体は鉛のように重たく、とくに頭の左側から伝わってくる鈍痛はひどいものだ。
 肺は、押しつぶされてしまったかのように、正常に機能しない。
 生きているのが不思議なくらいだった。
 ぼんやりとした意識の端で、誰かの怒鳴り声が聞こえた。声の主は、美斗を殴り、蹴り、打ち、痛めつける。自分がコマンドを上手く聞けなくて、機嫌を損ねたからだ。
 訳もわからず涙が溢れてきて、頬を伝っていく。
 苦しかった。

 ふいに、部屋の扉が開いた。涙に歪んだ視界に、人影が写る。
 一人の男が入ってきた。
「ああ……目が覚めたのか」
 その途端、男の姿を認識した脳みそが、鋭く警鐘を鳴らした。
 ああ、Domだ。Domがいる。
「ひっ!」
 飛び起きて、毛布を使って身体をかばう。重たい肉体も、自己防衛のためならしっかりと動いてくれるのだから不思議だ。
 Domは嫌だ。きっとまた自分を傷つける。それに、また命令をきけなかったら、今度はどうしたらいいのだろう。もう死ぬしかないのではないか。死んで償うぐらいしか道がない。
 男は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
 カタカタと震えながら。美斗は後ろに後退りをした。

「ハルト!」

 突然、彼が叫んだ。そこで、ベッドシーツを踏んでいた手のひらの感触が、空気を蹴っていたことに気が付いた。
「あ…ぇ…?」
 バランスを崩した身体が、さかさまになって、ベッドサイドに落ちていく。
 痛みに備えて、美斗はぎゅっと目を閉じた。
 
 けれど衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。
 恐る恐る、瞼を開ける。
「大丈夫か!? けがは!?」
 心配そうな顔がこちらを覗き込んでいた。先ほどまで部屋の入口にいた男が、ベッドに乗り出していて、美斗の身体を抱えていた。
 じんわりとした体温が、身体に伝わっていく。
「あ……」
 ふいに向けられた優しさに訳が分からず、美斗は瞳を揺らす。
「ごめ、なさ」
 こんな自分に、庇ってもらったり心配してもらったりする価値などないのに。
 すると薄く、彼が笑った。
「……謝るのはこちらの方だ。急に大きな声を出してすまない」
 傷に障るから、あんまり動かない方がいい。そう言って、優しく美斗の頭を撫でる。
 それから、眉を下げた。
「俺が近くにいるのは怖いか? もしそうなら、俺は向こうの部屋にいるから何かあったら――」
 美斗から離れ、ベッドから降りようとする。
「あ……」
 彼の服の袖を、ぎゅっと美斗は掴んで、引き留めた。
 Domは嫌だ。きっとまた自分を傷つける。美斗にとって、Domという人種は恐怖の対象以外の何ものでもなかった。そして何よりも、また命令をきけなくなる自分のことが一番怖い。     
 けれど、確かに怖いけれど、一人にされるのはもっと怖くて辛かった。
 薄く息を吐いた彼が、再びベッドサイドに腰をかける。
 壊れものを扱うような丁寧な動作で、美斗をベッドに寝かせた。
 ひんやりとした手のひらが、頭の上に載せられる。
「ああ……ひどい熱だな」
 呟いた。

 額の冷たさが心地よくて、目を細める。
 歪む視界に、人の良さそうな顔が映った。
 どうして……。
 そう思った。
 どうして、国近がここにいるのだろう。

 けれど、そんな疑問は長くは続かなかった。
 美斗の意識は再び、深い眠りの中へと落ちていく。


 文庫本を片手に、国近肇はベッドに腰を掛けていた。
 長い脚をベッドの下部へと投げ出している。
 ふいに、ページを繰る手が止まった。
 目線の先が、横にいる美斗を捕らえる。彼は今、国近の隣で、小さく丸くなって寝息を立てていた。思えば、彼は眠るとき、決まっていつもこの体勢だった。まるで何かから自分を守るように、身体を丸める。国近の部屋のソファー上でも、彼はそうやっていた。
 彼の身体のところどころには、青あざや擦り傷が出来ていた。血が出ていた部分は消毒し、ひどい部分は包帯を巻いてやったが、依然、痛々しいことには変わりはない。

 うっすらと、美斗の瞳が開く。その瞳には涙が溜まっていた。およそ半日前に一度目覚めてから、ずっとこんな調子だ。数時間おきに目を覚まして、一筋か二筋の涙を流して、また眠りにつく。
 SubDrop。彼は今、その状態だ。
 おそらく、はじめて会った日よりもずっと重い。
 通常、Play中の主導権はSubが握っている。DomがSubとPlayをする時は、同意を確認し、セーフワードを設定するのが常だ。
 従う本能を利用され、同意もセーフワードもないまま無理やりコントロールを奪われれば、パニックになるのは当たり前だ。
 また、Play中のSubは一時的にトランス状態に入るのだが、Domのアフターケアによって徐々にトランス状態から戻っていく。アフターケアもないまま放置されれば、Subはトランス状態から急に戻され、虚無感や疲労感に苛まれる。

 文庫本を、開いたまま膝に乗せる。
 右手の腕時計が19時を指していた。
 そろそろ夕食の時間だが……。
 国近の脳内に、ほんの二、三時間前の記憶が蘇った。



「水、飲むか?」
 500mlのペットボトルを片手に、国近が呼びかける。
 虚ろな瞳がこちらを見つめた。拒否はされなかった。
 身体を抱き起し、ペットボトルのフタを開けた。飲み口を口元に近づける。
 ひどく乾燥した唇が、水を含んだ。頬が一瞬膨らむ。
 その時だった。
「ぅぐ、ぁ、げほっ」
 ベッドシーツに沁みが広がっていく。せっかく含んだ水を、彼は盛大に吐き出し、モダン調のダブルベッドに飲ませてしまった。
「あ……」
 呆然とする美斗の瞳に、再び怯えの色が浮かぶ。ごめんなさいと、もう何度も聞いた言葉を紡ぐ。
「謝らなくていい。急に飲ませたこちらが悪い」
 濡れたシャツを手早くティッシュで拭ってやりながら、国近が言う。
 シュンと美斗が眉を下げた。指先が小刻みに震えている。
 屋敷から連れ出して丸一日。いや、おそらく屋敷にいたときから、ろくに水分も食事もとっていないだろうことは明白だった。これ以上は生命に関わる。
「恨み言は、元気になったらいくらでも聞くから」
 ペットボトルを、今度は自分の唇に当てた。口内に水を含む。
 美斗の顎を優しく持ち上げて、顔を寄せる。
 ゆっくりと唇を重ねた。口内の水を美斗に渡す。
「ぅ! ふっぅ、ぐ」
 大きく目を見開いた彼が、国近の腕を掴んで、爪を立てた。国近の手首に擦り傷が刻まれる。混乱した彼が自傷をするかもしれない。あとで切っておこう。
 水は何度か逆流して国近の元に戻って来た。それを根気強く美斗に渡すと、やがて諦めたように彼の力が抜けたのが分かった。
 ゴクと美斗の喉が鳴ったのを確認して、唇を離す。
「ごめんな。水は飲んだ方がいい」



 国近の目線が隣の美斗に戻る。彼は再び、か細い呼吸を立てて眠っていた。
 水を少し飲むだけであれだ。まだ食事は難しいだろう。
 身体の傷は、いくらでも治すことが出来る。けれど、心の傷はどうだろうか。
 頬に伝う涙の跡を、指で拭ってやる。
 そっと、頭を撫でた。もう、聞こえていないだろう彼に、優しく声をかける。
「大丈夫だよ。ハルトはいい子だね」
 自分のケアが、どこまで効くかは分からない。それでも、少しだけでも、彼の救いになればいい。そう思った。



 須藤美斗の意識がはっきりと浮上したのは、それから数日後の深夜のことだった。
 横を見ると、隣で国近が穏やかに寝息を立てていた。そう言えば、彼の寝顔を見るのははじめてだった。国近の家では別々の場所で眠っていたし、美斗が目覚めるときには決まって国近はもう目が覚めて、出勤する準備を始めていた。
 美斗が彼に助けられたことに気が付いたのは、一昨日のことだ。おそらく、屋敷に忍び込み、自分を回収したのだろう。その屋敷をどうやって調べたのかとか、どうして自分のパートナーが兄であることに気が付いたのかとか、そもそもそんなことをして彼の立場は大丈夫だったのかとか、色々と疑問は尽きないが、全く、無茶をする男だった。
 隣の国近の顔を、眺める。端正な顔立ちは、温和さの中にある種の威厳があった。しっかりとした黒髪の隙間から、健康そうな少しだけ日焼けをした肌が見える。首筋は太く、身体には程よく筋肉がついていた。
 眠りは深い様子で、美斗が身じろぎをしても動く気配はなかった。

 身体を起こし、そっとベッドから抜け出す。モダン調のダブルベッドも、部屋も、見慣れないものばかりだった。ここはいったい誰の家なのだろう。
 視界が一回、180度回転した。ふらついて、美斗はベッドサイドに手をつく。
 もう何日もろくに食事をしていない。用を足す以外で歩くこともなかった身体は、案の定上手く動かなかった。
 それでも、国近が懸命にケアをしてくれたから、数日前よりかは格段にマシだった。体温も平熱に戻っている。暗闇の中で、何度も彼の声を聞いた。『大丈夫』『いい子』そんな根拠のない肯定が、自分を正常な場所に戻してくれた。
 部屋の壁を伝い、入り口まで歩く。
 廊下の先に、玄関を見つけた。

 ここが何処かは分からない。でも大通りを探してタクシーを拾えば、帰ることは出来るだろう。屋敷の住所なら覚えている。
 金銭の類は持ち合わせていないが、それぐらいだったらどうせ桐野が何とかするはすだ。

 扉に、手をかけた。
 きゅっと、美斗は唇を噛む。さよならだ。戻ってしまったらもう、二度と彼に会うことは叶わない。溢れ出そうな涙を懸命に堪える。
 ドアノブを回した。

 その時だった。

「どこ、行くの?」
 背後で、声がした。
 驚いて、びくっと、美斗の肩が跳ねる。
 気配は感じなかったはずなのに。
「……コンビニ」
 振り向かずに答える。咄嗟の嘘が、口から零れた。
 数秒の沈黙のあとで、優し気な声が返ってきた。
「何か必要なものでもあったか? まだ本調子じゃないだろう。俺が代わりに行ってくるよ」
 そう言って、国近は靴を履こうと一歩踏み出す。
「いい。一人でいける」
 冷たく突っぱねて、美斗はドアノブを、また回そうとした。
「……どこ、行くの?」
 背後の声が、もう一度同じ質問を紡いだ。
 はあ、と美斗は大げさにため息をつく。
「帰るんだよ」
 振り向かないまま、答えた。
「……あの家に?」
「お前さ、なんで勝手に助けてんの? もしかして、俺が可哀そうだとでも思ったのか? 残念だけど、全部俺が望んでやっていることだよ。前にパートナーになるかって聞いたな。無理だって言った理由を教えてやろうか? お前みたいな生ぬるいPlayじゃ俺は満足できないし、それに――」
「ハルト」
 必死に紡いだ早口の言い訳は、よく通る、低い声によって遮られた。
「こっちを見ろよ」
「いい加減しつこ……っ、ひっ!」
 振り返った先。鋭く尖ったGlareが、こちらを射止めていた。
「あ……っ」
 逃げ道を探して、二、三歩後ずさった背中が、玄関の扉にせき止められる。
 基本的に、国近はいつだって優しかった。コマンドを向けられたのも出会った日のあの一回、それも必要に迫られて向けただけで、それからは一切向けていない。美斗を落ち着かせるように、それらしい言葉をくれたことはあっても、無理やり美斗を従わせることはなかった。

 その国近が、怒っている。

 威圧に耐えられなくなった肉体が、カタカタと震えだす。足先はすぐに力が入らなくなった。ペタンと玄関先で膝を折る。
 頭上の国近を見上げる。目をそらしたくても、こちらを見ろと言われてしまったため、そらすことは出来ない。何よりも美斗の本能が、彼に従うことを望んでいる。
 緩慢な動作で、国近はしゃがみこみ、膝をついた。目線を美斗に合わせる。
「ゆっくりでいいから、ハルトの本当の望みを教えて。それが俺にとって不利益を被るものだとしても、俺は受け止めるから」
 本当に出ていきたい? そう、聞いた。
「ち、が」
 思わず、首を横に振っていた。
「じゃあ、どうして出ていこうとしたの?」
 わなわなと痙攣する唇を、大人しく開く。
「……飛ばされたって、聞いたんだ。お前が」
 誰かの人生一つ壊すぐらい平気でする。それが、両親を亡くしたばかりの可哀想な子どもだろうが関係ない。そのことにためらいもない。
 あの家はそういう家だ。
 虫けらみたいに、尊厳を踏みにじる。
「次はきっと、こんなもんじゃ済まない」
 美斗は右手で、片方の服の袖をぎゅっと握った。
 部屋にある、大量の警察小説。国近はそれを、父の形見だと言っていた。大切でないはずがない。この人から仕事を、尊厳を、奪いたくはない。
「ハルトのせいじゃない。俺が選んだだけだ。君を家に置くことを選んで、今回は、君を助けることを選んだ。それだけの話だ。だから気にしなくていい」
 国近が眉を下げた。声が続く。
「それで、ハルトの本当の望みは?」
「へ……?」
 ぐっと、拳を握る力を強くする。何を言っているのだろう。この人は。
「俺のことも、俺の仕事のことも抜きにして、ハルトはどうしたい?」
 大きく、目を見開いた。その言葉の意味を理解して、もう一度、美斗は首を横に振った。
「っ、駄目だ」
 唇を噛み、抵抗する。
 そんなこと、言えるわけがない。言ってはいけない。
 すると、国近の指が唇に触れた。
「言えよ」
 そっと、親指で形をなぞっていく。

「言ったら全部、叶えてやる」

 まっすぐな目だった。
 出会った日、Playのあとに自分と向き合った目。そのあと車で、自分に抑制剤と連絡先を渡した時と同じ目。
 この目に自分は、逆らうことが出来ない。
 上下する肩で呼吸をする。震える指先を、自らの首筋に当てる。それは、まだそこにあった。金属製の首輪だ。美斗のパートナーがつけたもの。自分を縛る、忌々しい呪い。
 本当はずっと――。
 ずっと、これを――。
「これ……」
 それを言うのは苦しい。だってDomの意志に逆らってしまう。でも、きちんと言えたら、
「取って、外して」
 もしも、これを外すことが出来たなら。きっと、
「お前がいい」
 きっと、
「国近がっ、国近の、ぐずっ、パートナーに、なりたい」
 気がついたら、美斗はポロポロと泣いていた。
 服の袖を使って、涙を拭う。
 ふう、と国近が小さく息を吐いた。
 そっと、後頭部に彼の手のひらが置かれた。そのまま彼の肩に抱き寄せられる。
「ありがとう。怖がらせてごめんな」
 温かな体温と、どこか懐かしい柔軟剤の香に、ほっとした。
 国近の背中に手を回す。
「う、ぁ、ぁあ、」
 零れ落ちた涙が、彼の肩口を湿らせていく。
「ちゃんと言えて、ハルトはいい子だね」
 ポンポンと骨ばった、大きな手が美斗の頭を撫でた。

 この手が、この感触が、この仕草が、この声が。
 好きだった。
 本当は、ずっと前から彼に縋りたかった。彼に縋って、愛されたかった。
    彼に命令されて、彼の前で膝を折って、彼のために頭を垂れて。彼にもっと、自分を褒めて欲しかった。認めて欲しかった。

 愛して、欲しかった。

「ハルト」
 彼が呼ぶ自分の名前が、心地よかった。
 国近が、ほんの少しだけ離れて、美斗の顔を見つめる。
 薄く、泣き出しそうな顔で笑った彼が言った。

「ベッドに、行こうか」



 モダン調のダブルベッドに、美斗の身体を下ろす。腰を掛けた彼の足の先が、シーツを握り、皺をつけた。
 どうせ、Dropが開けたら出ていこうとするだろうとは踏んでいたが、直前で止められたのは幸運だった。目が覚めた時、隣で眠っているはずの彼の姿がなかった時には本当に焦った。
 シュンと眉を下げた美斗は、叱られた子どもみたいに俯いている。
 下まつげの下には、涙の跡が残っていた。
「改めて聞くけど、何かして欲しくないことはある?」
 問いかける。
 不思議そうな瞳がこちらを見上げた。
 そうか。まずはここから説明しなければならないのか。
「ハルトは知らないかもしれないけど、Play中の主導権はSubが握るんだ。Domにコントロールを渡すか渡さないか、どこまでPlayをするのか、Subは選ぶことが出来る。そして俺は、ハルトがNGだと言った行為はしない」
 国近は優しく説明してやる。

 沈黙。

 しばらくして、
「……痛いのは、嫌だ」
という弱々しい声が返ってきた。
「そうか」
 彼がこちらを、チラチラと伺う。この先も言っていいのか迷っているようだった。
 じっと待ってやると、やがて詳細が続いた。
「……殴られたり、蹴られたり、叩かれたり、鞭もNGだ。首を絞められるような呼吸を止められる行為も好きじゃない」
「……。……分かった」
 予想はしていたけれど、彼が言っていることは、すべて兄や他のDomから実際にされた行為だろう。直接聞くのは胸に来るものがあった。それでも、この先を行うのなら、確認をしなければならない。同意なしに縛り付けるような真似はしたくない。
「あ、と」
 躊躇いがちに、視線が泳ぐ。きゅっと、一度だけ唇を噛んだ彼が言った。
「……本番は、してもいい」
 はっと国近は目を見開く。
「ハルト、それは……」
 彼に服を着せたとき。一瞬だけ、チラリとしか見ていないが彼の蕾には乱暴にされた痕が残っていた。
 あれから五日。おそらく、傷はまだ完治していない。
 今挿れたら、きっと痛い。
 きつく唇を結んだ美斗が、再び俯く。
 
 数秒、国近は悩んだ。
『本番は嫌だ』
 初めて彼に会った日、彼はそう言っていた。けれど今は、全く反対のことを言っている。
 『してもいい』と国近の方に選択権を預けてはいるが、言外に自分を求めている。
 無理はさせたくない。けれど、この強情が自ら強請るなんてよっぽどのことだ。相当今回のことが堪えたのだろう。
 安心、したいのかもしれない。
「……分かった」
 短く、国近は頷いた。
「なるべく、優しくする。痛かったらきちんと言ってほしい。無理だと判断したらすぐにやめる。それでいいね?」
 こくっと、美斗が頷いた。

 ベッドサイドから、彼の中心に目をやる。
 そこが主張しているのは、きっと、国近がGlareを向けたときからだ。
 気が付いていた。

 彼から少し離れたところに、腰を掛ける。
「おいで。“Kneel”」
 ほっと息を吐いた美斗は、従順に国近に近寄り、ベッドの上でぺたんと座り直した。
「ああ、いい子」
 ご褒美に頬を撫でてやる。気持ちよさげに目を細め、色白の顔を国近の手のひらにすり寄せた。
 無意識だろうか。
 くすり、と国近は口角を上げた。
 二回目のコマンドは、もう決めていた。きっと、褒める口実が出来るものがいい。

「服、自分で脱いでごらん。“strip“」



 ――支配されることが、幸福だなんてあるはずがない。
 ずっと、そう思っていた。

 そっと、シャツのボタンに手をかける。指先は力が入らない。何度も失敗して、時間をかけて、ようやく一つ目を外すことが出来た。同じぐらい時間をかけて、二つ目、三つ目とボタンを外していく。
 頭一つ分、高い位置にある、国近の顔を見上げる。“strip”のコマンドを向けてから、じっと、美斗を見つめている。
その、真っすぐで強い目で。
 身体の奥が熱かった。熱はもうとっくに下がっているはずなのに、ドクドクと脈打つ胸の鼓動が収まらない。
 全てのボタンを外し終える。ゆっくりとシャツを、袖から抜いた。
 真っ白で清潔なシーツの上に、シャツを落とす。
 ふわりと、国近が笑った。
「うん。“good”」
 ああ、まただ。もう高ぶることはないと思っていた体温が、また高くなる。
 コマンドを聞いて、それが出来たら褒められる。それが、こんなにも心地がいいなんて知らなかった。ずっと、支配されることはおそろしいことで、辛いだけだと思っていた。幸せだなんてあるはずがないと思っていた。
 けれど今、美斗はとても満たされているような気がした。
「し、たも?」
 問いかける。
「ああ」
 短い肯定が返ってきた。
 数秒の逡巡のあと、美斗はズボンに手をかける。それをゆっくりと、足首の位置まで下ろす。
「あ、の」
 再び、チラリと国近を伺う。下着もとった方がいいのだろうか。けれど、美斗のものはもう主張をはじめていて、ボクサーパンツにしみを作っていた。さすがにこれ以上は恥ずかしい。いや、今だって相当恥ずかしいことをしているわけだけれど。
 内腿を、もじもじと擦り寄せる。
 薄く、国近が笑った。
 そっと、国近の手が頬に触れる。それは肌をなぞり、首元に移動していく。

 首輪に、触れた。
 
 金属製の重厚な首輪。鍵は置いてきたから付けられてはいないけれど、それでも外すことは出来なかった。
 自分を縛る、忌々しい呪い。これがずっと嫌いだった。
 中留を、国近がつまむ。
「あ……」
 これを外そうとしてくれているのかと、美斗は気が付く。
 早く、解放してほしい。こんなもの、自分には必要ない。
 けれど、心とは裏腹に、肉体から出たのは拒否反応だった。
「やっ!」
 ぎゅっと、強く目を瞑った。唇に歯を立て、血が出そうなくらいに噛む。
 
 すると、すぐに国近の手は離れた。
「……今すぐに外してもいいけど」
 恐る恐る、薄目を開ける。
「その前に、嘘を吐いたハルトにはお仕置きをしないとな」
 細めた瞳の裏に、どす黒く光る欲を見つけて、胸の奥がざわつく。ああ、この人は紛れもないDomなのだと、ぼんやりと美斗は思った。
 不思議と、嫌な感じはしなかった。先ほどNG行為は全て洗いざらい伝えている。彼がしないというのだ。美斗が言った行為はしないだろう。
 恐怖の代わりに胸の奥にうずいたのは、淡い期待だった。
「あ、」
 ボクサーパンツに手がかかる。ぐいっと、彼の手でそれを下にどけられると、先走りで艶めいた美斗のものが露になった。
 かあ、と美斗は顔を赤く染めた。国近から目線を背け、腕を使ってそれを隠す。
 けれど、そんないじらしい行為を、国近は許してくれなかった。
「腕、どけて。俺に見せて。“present”」
 新たなコマンドに硬直する。命令しているくせに、口調はひどく優しいのは、出会った日から変わっていなかった。
 従順になることを覚えた身体が、それを脳みそが処理するよりずっと早く動いて、内腿の先にあるものを晒す。
「ここ、握って」
 国近に手を掴まれて、それを根本の部分に当てられた。
「ぁ……?」
 戸惑いながらも大人しく握り込む。
「俺がいいって言うまで、イっちゃだめだよ」
 イっちゃだめ。痛み以外のお仕置きははじめてだ。
「あ、あの」
 頭上の国近を見上げる。
 少し乾燥した指先が、腰に触れて、肌をなぞる。それは、そのままゆっくりと上の方へと移動して胸の突起を掠めた。
「ひぁ」
 思わず、小さな嬌声が零れた。自分から漏れた艶やかな声が信じられなくて、唇を嚙んだ。指先はそこにとどまり、飾りを弾いていく。
 そうされると、もう息が出来なかった。
「ん、ぅん」

 みるみるうちにそこは赤く染まり、ピンと主張をはじめていた。


「……ハルト」
 うなじに向かって、国近は呼びかける。
「それじゃ、触れない」
 胸を弄りはじめてから四半時。決定的なところへの刺激は避けてそこだけを責めていた。どうやら彼はそれに限界を感じたようで、国近の膝元でうずくまってしまっていた。
「う、うぅ、やぁ」
 俯いたまま、美斗はフルフルと首を振る。
 それでも、国近に言われた通り、根本を握った手は離さないのだから大したものだ。
 浅葱色の髪の隙間から、重厚な金属製の首輪が見えた。
 先ほど、国近が外そうとした時には酷く怯えていた。いきなり外せばまたDropするだろうから、『お仕置き』で少しでも気が紛れればと思ったが、こうもいじらしい姿を見せられると、もう少しいじめてみたくなる。
「ほら、ハルト」
 頑なに動こうとしない美斗を宥めるように、国近は指先で彼の背骨をなぞった。
「ひ!? あぁ、や、ああ」
 びくびくっと身体を跳ねさせる。まるでまな板の上の魚みたいだ。
 はあ、はあと荒い呼吸をして、快楽を逃がす。

「あ、ぅぁ、ひ」
 美斗の腰が、揺れる。国近が何もしてくれないのを悟ったのだろうか。甘い声を上げながら、シーツに自身をこすりつけ始めた。
 目を細める。
 普段の強気の態度はどこへやら、という感じだ。このまま、そのギャップを眺めているのも悪くはないけれど……。
――今日の目的はそれじゃない。
「ああ。こら」
 数回、それを見逃してやって、気持ちよさそうにとろけた彼の顔を堪能してから、腰を持ち上げた。
「ひっぃ? や」
 糸を引いて、シーツから彼の自身が離れる。
 刺激が止まり、戸惑った彼が、国近を見つめた。
「勝手にしていいなんて言ってないだろう? お仕置きなんだから、もう少し耐えなきゃだめだよ」
 潤んだ瞳に、極めつけのコマンドを下す。

「そのまま、“Stay”」


 溶かされていく。心も、身体も。
 
 国近の膝元で頭を垂れて、美斗は淡い呼吸を繰り返していた。腰だけ不自然に上がっているのは“Stay”のコマンドがあったからだ。
 その上がった腰を、上下にくゆらす。もう随分長い間、決定的なところに触れてくれない。
 どうやら国近の『お仕置き』は、徹底的にその焦らしに耐えろということらしかった。
 色の白い細い右手は、根本を握っている。結構前から力が入らなくなっているけれど、命令だから、離すことは出来なかった。離そうとしても、美斗の本能が従順に、それを叶えようとする。
 その手のひらは、尿道口から流れる液でぐちゃぐちゃになって、もう境目がどこかも分からない。

 ふいに国近の指が肩をなぞった。その指はぴと、と首輪に触れて、止まる。
(あ……)
 金属製の首輪。自分を縛る、忌々しい呪い。
 これを付けられたのは、いったいどれぐらい前だっただろう。

――お前は、僕のものだよ。

 頭の奥で、支配者の声が聞こえた。それは次第に大きくなり、美斗に警告を鳴らす。
 ダメだ。
「ごめ、ごめんなさ、兄ちゃ、」
 逃れようと、身体をよじった。
 外してはいけない。それを外したら、兄の意志に逆らうことになってしまう。
 Domの命令なのに。自分はSubなのに、叶えることが出来ない。

「ハルト」
 
 すると、国近の反対側の手が、美斗の顎を掴んだ。
 乱暴に持ち上げられ、目線が合わさる。
「今、ハルトとしているのは誰?」
 柔らかに、問いかけられた。
 見上げた先に人の良さそうな顔が見える。
 顎を動かさないまま、美斗は目線を下の方へと向けた。
 内腿の先、それを握っているのは、彼に言われたからだ。

 ああ、そうか。今、自分がPlayしているのは――。
 自分の支配者は――。
「…っ…ちか、くに、ちかぁ」
 途切れそうになる呼吸の隙間、名前を呼んだ。
 ふっと、国近が笑う。美斗が大好きな手で、頭を撫でた。
 その手は下に移動して、自身を握り込んだままの美斗の右手に触れる。
「ここ。もう限界だろう? 外して、自分で触っていいよ。誰のためにそうしてるのか想像しながら」
「へ……?」
「まだ出しちゃだめだよ」
 支配、されている。優しくてひどい、この男に。
 美斗は言われた通り、手のひらを開いた。
 軽く握り直し、上下に擦る。
「あ、ぅ、ああ」
 散々焦らされてから与えられた刺激は、極上のものだ。
 ほんの数往復で出してしまいそうになる。
 蕩けた視界の先に、一瞬だけ見えたのは、普段通りの生真面目に戻った顔つきで。
「これが外れたら、ハルトは俺のSubだ。誰にも手出しはさせないし、また今回みたいなことになっても、何度だって助けに行く」

 中留を、再び国近が摘まむ。
 熱い目線が美斗のことを射止めた。

「そのまま、俺のことだけ考えていればいいよ」

 パチンと軽快な音がして。
 緩やかに、美斗の呪いは外された。


 ベッドサイドに、国近が首輪を投げる。下の手を絶え間なく動かしながら、それを追った。枕の横に落ちたそれは、ベッドのスプリングに一回だけ沈んで、動かなくなった。
 首元の軽さに気が付く。
 もう、怯えなくてもいいのか。あの首輪に。あの首輪をつけた人物に。
 お仕置きと称して自分で自分の首を絞めるような真似を、もうしなくてもいいのか。
 ほっ、と美斗は息を吐いた。
「よく頑張ったな」
 頭上で、国近が言った。新しい、自分の支配者。
 彼の顔が心配そうに歪んでいるのは、気のせいだろうか。
 美斗は首輪から、視線を外す。
 
 そんなことよりも、今はもう……。
「くに、ちかぁ、もう」
 もう無理だ。散々焦らされたあとで、自分でいじるように言われた手の中のそれは、はち切れそうなぐらいに張りつめ、少し気を抜いたら弾けてしまいそうだった。
 そっと、国近が美斗の頬を撫でる。
「『はじめ』」
「へ?」
 言葉の意味が分からなくて、キョトと首を傾げた。
「名前で呼んでほしい。嫌か?」
「あ、ぇ……?」
 嫌、じゃない。
でもいいのだろうか。そんなまるで恋人みたいな呼び方をしても。気に障ったりしないだろうか。
 何も言わない美斗を見て、くす、と国近が口角を上げた。
「そうだな……」
 彼の指が、身体をなぞる。
 内腿に移動したそれが、裏筋を滑った。
「あ、ひ、あぁ」
 限界までせき止められた熱は、たったそれだけの刺激も敏感に感じ取ってしまう。
「ちゃんと呼べたら、イかしてあげる」
 恍惚とした美斗の瞳が、彼の姿をとらえる。
 ずるい。そんなことを言われたら、逆らえない。
 それに、ちゃんと名前を呼べたら、きっとまた国近は自分を褒めてくれる。
「……じめ」
 小刻みに震える唇を、小さく開く。
「は、じめ」
 名前を呼んだ。
「ああ」
 ふわりと、また彼が笑う。
 胸の奥が、なんだか締め付けられるような心地がした。
「“good boy”」
 もう何度目かの褒め言葉だ。ぐしゃっと頭を撫でられて、美斗の顔が嬉しそうに溶けていく。

 国近が美斗の肩を掴む。
 いまだ鞭の痕が残っている美斗の背中がこれ以上傷まないように手を置いて、優しくベッドに押し倒す。
 ふと横を見ると、先ほど外されたばかりの首輪がそこにあった。
 美斗の気が、完全に首輪に逸れるギリギリのところで、国近の腕が動いて、首輪をベッドの下へと払い落とす。
「ひぃ、ぁああ」
 蕾を、そっと撫でた。
「もう少しだけ我慢できるね?」
 頭上から向けられた言葉に、コクコクと頷く。本当はもう限界だけど、彼が我慢できるというのだからきっと我慢できる。
 美斗の体液でたっぷりと濡らされた細長い指が、そのまま中に差し込まれる。
 圧迫感に、美斗は顔を歪めた。
「痛くない?」
 国近の指先は、優しかった。無理に動くこともなく、むやみに傷口をえぐるような真似もしない。最大限美斗に配慮してくれている。
 こんなに気遣われているのに、痛いわけがない。
 むしろ――。
「あ、ふ、ぁあ」
 熱い吐息を漏らす。
 気持ちいい。彼の指が、自分を触っている。
 こんなに満たされることはない。
「……大丈夫そうだな」
 と国近が呟く。
 指が中で曲がると、美斗の一番敏感な部分を掠った。
「ひぃ! あぁ、そこ、や」
 ひと際大きな嬌声が零れた。
 そこを、皺を伸ばされるように触られる。
 時折コツコツとノックをするようにされると、溜め込んだ熱がぐるぐると美斗の中で巡った。
 もう、限界だ。
 出したい。それしか考えられない。けれど、自分のDomはまだいいと言っていないから、もう少し耐えなければいけないだろう。言いつけに逆らって出そうとしても、どうせ何も出てこないことを、美斗は本能的に知っていた。
 美斗が出来ることは、ゆるゆると腰を揺らして、ほんの少しだけでも快感を逃すことぐらいだった。

 国近の指は、しばらく中を溶かして、三本ほど入るようになったころ、ようやく中から抜けた。
てかった指を、国近が舐める。チカチカと点滅する視界で、美斗はぼんやりと、その様子を眺めていた。
「は、じめ」
 肩で呼吸をしたまま、呼びかける。
 ぎゅっとシーツをにぎった。
「イ、かしてっ、はじめ」
 一瞬、国近の目が丸くなった。それはすぐに、柔らかく解かれて。いつもの笑みに変わった。
 蕾に、国近のものが当たる。
「……ああ。いいよ。よく頑張ったな」
 一気に、最奥を貫いた。
「ひぃぃ、あぁあ!」
 ピンと背筋を伸ばして、美斗は果てる。
 陰茎から飛び出した白濁は、中々止まらなくて、ベッドシーツを艶めしく、染め上げていた。



 国近の下で美斗はか細い呼吸を繰り返していた。
 虚ろな目が、天井を向いている。
 細い腰を、国近は撫でた。
(……また、痩せたな)
 元々華奢な体つきをしているとは思っていたけれど、ここ数日間で随分と体重が落ちたようだ。無理もない。Drop中は、水分すらまともに取れない状態だった。三日目からは申し訳程度に主成分の九割が水のお粥に、時々栄養剤を溶かして与えていたけれど、それだって完食できた試しはなかった。元来、彼は小食らしく、あまり量を食べることはなかったけれど、それにしてもここ数日の食事量は極端に少ない。
 今日はもう限界だろう。元より、無理をさせる気はなかった。
 ものを抜こうと国近は腰を引いた。
 その時だった。
「や」
 ぎゅっと、彼の脚が国近の腰に絡まり、それを拒んだ。
「ハルト?」
 驚いて、国近は目を丸くする。
 まだ意識があったのか。
「…ぃ…で」
 パクパクと唇が動く。
「まだ、やれる。まだ、出来る、だから」
 掠れた声が、何かを訴えていた。
 首を、傾げる。何を伝えようとしているのだろう。

「捨て、ないで」

 はっと、国近は息を飲んだ。
 首元に目をやる。線状痕の出来た首筋は、それがあったところだけ不自然に白くなっていた。
 Dropをする様子もなかったし、平気そうにしていたから、気が付かなかった。
 関係が破綻していたとはいえ、パートナーからもらった首輪を外したのだ。頭では分かっていても、身体はコントロール先を失ったと判断しているのかもしれない。
 不安定になってもおかしくない。
 美斗の瞳にみるみるうちに涙が溜まっていく。脚の力は強く、無理にほどこうとしてしまえば怪我をさせてしまいそうだった。
 ああ。そうか。この子はこういう方法でしか、誰かを繋ぎとめる術を知らないのか。
「ハルト」
 呼びかける。
 教えてやりたかった。正しいPlayも、優しい関係も、めいっぱいの愛情も。全部を全部、彼に教えてやりたかった。
「こういう時は『そばにいて』って言うんだよ」
 彼の頬を撫でて、国近が言った。
 努めて優しく、問いかける。
「言ったろ? 首輪が外れたら、ハルトは俺のSubだって。俺は、君が思っている以上に君のことが大切なんだ。大事にしたいと思ってる。捨てたりなんか絶対にしない。だから、離れてほしくないときは、『捨てないで』じゃなくて、『そばにいて』って言いなさい」
 瞳の涙は徐々に大粒に変わっていった。それは瞼ではじけて、頬へと落ち、国近の手のひらを湿らせていく。

「う、ぁ、うぅ」
 美斗はしゃくりあげて泣いていた。
 意外にも、彼は泣き虫なのかもしれない。
いや、耐えていただけか。今、彼が流している涙はいったい何年分の涙なのだろう。
 やがて、唇が小さく開き、また言葉を紡いだ。

「そばに、ぐすっ、ぁ、いて」
「ああ」
「ずっとずっと、俺のそばにいて」
「うん」
「はじめのSubになるからっ、だから」
「ああ」
「はじめも俺のDomでいて」

「ハルト」

 そっと、彼の顔を両手で持ち上げて、涙を拭ってやる。

「愛してる」

 我ながら随分と甘い言葉だ。けれど多分、自分たちには、とりわけ彼には必要な言葉だと思った。
 顔を寄せて、そっと唇を重ねる。

 それを優しく離したとき、彼の意識は途絶えていた。



 カーテンの隙間から、朝日が差し込む。
 顔を照らすオレンジ色の光に、一瞬だけ眉をひそめて、須藤美斗は瞼を開けた。
 ぼう、と天井を眺める。行為中の疲れはまだ残っていたけれど、頭の奥はやけにすっきりとしていた。裸の身体に触れる乾いたシーツの感触が心地いい。汗も、体液も随分と流していたはずだけれど、その名残はなかった。
 微かだがシャワーを浴びた記憶がある。自分で洗った記憶はないから、国近が綺麗にしてくれたのだろうか。身体の包帯は清潔なものに換えられていて、首元には真新しい絆創膏が数枚張ってあった。
 そっと、瞼に触れる。
 涙の跡だけが、そこに残っていた。
 自分は随分と泣いていたみたいだ。
 苦痛以外の理由で、こんなに心から号泣したのは、いつぶりだろう。両親が亡くなった時以来だろうか。いや、あの時は呆然とするばかりで。
 あの時、自分はちゃんと泣けたのだろうか。
 瞼の裏に、銀色の雪景色が映る。
 須藤家に引き取られてから、地元に帰ったことはない。美斗は両親の墓がどこにあるのかも、よく分からなかった。

「ハルト」

 頭上で、声がする。
 そこで、骨ばった大きな手が、ずっと自分を撫でていたことに気が付いた。
 心配そうにこちらをみつめる目と、視線がかち合う。
 瞼の裏に、ほんの数時間前の記憶が蘇った。
『そばにいて』
 だなんて。どさくさに紛れて随分と甘ったるいことを言ってしまった気がする。
 気恥ずかしくて、美斗は目線を背けた。
 それでも、彼の手から逃れようとしないのは、その手の温かみを、もう知ってしまったからだ。
 ふ、と国近の顔が綻ぶ。数秒、美斗の顔を伺い見て、それから言った。
「顔色、だいぶいいな。何か食べられそうか?」
「あー……腹は、減ってる。たぶん」
 ここ数日間、ほとんど食事をしていない。空腹の感覚が今感じている感覚で正しいのか、よくわからなくて、曖昧な回答になった。
 国近は別段それを気に留めなかったようだ。そうか。という短い返答が返ってきた。
「何か食べたいものはある? 何でも作ってあげる」
 時折、国近はこうやって、美斗にリクエストを聞くことがある。食事なんてカロリーが摂取できればいいし、第一世話になっている分際でリクエストなんておこがましいにもほどがあるので、大半は『なんでもいい』とか『まかせる』とか答えていたけれど。
 美斗は思考を巡らせる。
 今日は一つだけ、思いつくものがあった。
「……ホット、サンド」
 言えば作ってくれるだろうかと思っていた。
「ミートソースと、チーズが入っているやつ。前に、作ってくれた」
「ああ……」
 左上に目線を向けて、短く、国近が頷く。
「やっぱりあれ、気に入ってたのか。随分と嬉しそうに食べると思った」
 そう言って、くくっと、快活そうに笑った。
「っ……調子に乗るな」
 頭上に向かって、美斗は睨みをきかせる。どうして分かったのだろう。美味しいなんて言ったことはないはずなのに。
「いいよ。分かった」
 くしゃりと、美斗の頭を撫でて、国近が立ちあがる。
 部屋を出ていこうと背中を向けた。

 ふいに、美斗の頭の中に、ある光景が浮かんだ。どうして今それを思い出すのか、よく分からなかった。
 毛布に顔を埋めたまま、ぎゅっと、服の袖を掴んで引き留める。
「……ん?」
 不思議そうな瞳がこちらを向いた。
「く……」
「……く?」
 国近が首を傾げる。
 それは、随分前にレストラン街を通りかかった時に見た光景だ。昨今、都内のレストランは、ダイナミクス性を持つ人が入りやすいように様々な工夫がされている。その多くでは普通席の他にパートナー専用席を設け、パートナー同士がPlayの一環として利用できるような配慮がされたものだ。
 あの時は、気味が悪いとしか思えなかった。でも今は……。
「食わ、せろ。お、まえの手で」

 沈黙。

 毛布の隙間から伺い見ると、国近は目を丸くしていた。
「あ……」
 しまった。間違えた。
 自分は、何を言っているのだろう。かあ、と頬が熱くなる。
 慌てて、訂正をした。
「やっぱ、いい。今のなし」
 柄にもないことをした。
 それに、国近の求めるパートナーは、こういうことではないのかもしれない。
 
 けれど。

「いいよ」
 彼から返ってきたのは、短い許諾だった。
 薄く、彼は笑った。
「作って来るから待ってて」
 そう言って、再び部屋の出入り口の方へと踵を返す。

 むくり、と美斗は身体を起こした。
 程よく筋肉がついた広い背中が、ちょうどドアノブを握っている。
「なあ」
 呼びかける。
 ノブを握ったまま、彼は振り向いた。
「後悔、しないか?」
 自分を匿うこと。
 自分を選ぶこと。
 自分をパートナーにすることに、彼は本当に後悔しないのだろうか。
 ドアノブから、国近が手を離す。こちらにしっかりと向き合った。

「しないよ」

 即答だった。

 ついでに着替えも持ってくるね。そう言い残して、今度こそ部屋からいなくなる。
 パタンと閉じた扉の音と同時に、美斗は肩の力が抜けて、そのままベッドに倒れ込んだ。
 寝返りを打って、天井の方へ向き直る。
 ゆっくりと、目を閉じた。


 そうか。それなら、もういいよ。
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