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【エピローグ】だからきっと、この恋は誰も知らないままでいい。

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 数週間ぶりに支援室のフロアに戻ると、包帯と絆創膏だらけの一ノ瀬を見て、フロアの全員が小さく悲鳴を上げた。
 綿貫はそのまま、一ノ瀬に三日間の静養を言いつけた。
 藤沢が手早く仕事を巻き取り、あれよあれよという間にフロアから追い出される。


 休みをもらっても行くところがないのが独身男の悲しい性である。
 結局実家に帰ることにした。



 東京都。国立市。
 文教地区に指定されているその町は、都会の喧騒とは打って変わって穏やかな空気が流れている。
 閑静な住宅街の一角に、一ノ瀬が育った一軒家がある。
 玄関扉を開けると、母はぎょっとした顔で一ノ瀬を出迎えた。
「ボロボロじゃない。どうしたの?」
「……あー……」
 と一ノ瀬は苦笑する。
 仕事で怪我を作っただけならまだしも、拉致された挙句に強姦されかけたなどと聞けば心配するに決まっている。だからこそ、病院に運ばれたことも知られたくなかったのだが、今日まで母の耳に入っていないことに安堵しつつ、
「ちょっと……色々あって」
 とごまかした。

 ひとまず上がりなさいと言われて、リビングに向かう。
 その顔では沁みるかもしれないわねと言いながら、母はコーヒーと悩んで紅茶を用意した。
「……朱莉は?」
 目の前に差し出されたそれを、口に含みながら問いかける。
「佐竹さんって分かる?」
「ああ……」
 少し考えてから、思い至った。
 朱莉の中学のときの同級生だ。一ノ瀬でも名前を憶えているぐらい仲が良かった。
 まだ交流があったのか。
「なんかね。出かけてるの。ほら、最近流行りの……。なんだったかしら。あれを食べに行くんだって」
「へぇ……」
 『あれ』では全く分からないのだが、聞いたところで理解できる自信はないので聞き流すことにした。
「夜には帰ってくると思う」
 あの事件があってから、朱莉は良くなったり、悪くなったりを繰り返していた。
 けれど昨今は随分と落ち着いているみたいで、頻繁に出かけていくという話を聞いていた。
「お昼食べた?」
 と母が問いかける。
「ああ……いや、まだ」
「真紘が好きな蓮根と鶏肉の照り焼き、作ってあるけれど食べる?」
 一ノ瀬の母親は、昨年勤めていた病院を早期退職している。元々親族が経営している病院なので、親族は役員になることを勧めたのだが、母は望まなかった。その代わりに父が役員として選出されることになった。今は非常勤で父の補佐を務めながら、週三回付属医大で教鞭をとり、後任の育成に励んでいる。
 近頃帰省をすると、大抵はこういった風に食べ物が用意してあった。
「ああ……。うん、食べる」
 と答える。



 食事を終えると、一ノ瀬は二階の防音室に向かった。
 ひっそりと静まり返った部屋の中。
 グランドピアノは、まだその場所にあった。
 使用者がいないのに部屋には埃一つない。きっと母が頻繁に掃除をしているのだろう。

 突き上げ棒で屋根を固定して、目の前に腰をかける。
 鍵盤蓋を開き、鍵盤を弾いた。
 ポーンっと綺麗な音が、部屋の中に響きわたる。きちんと調律も済んでいるみたいだ。
 そのまま、指先を動かした。
 一ノ瀬の弾ける曲はそんなに多くはない。中でも初心者向けの練習曲を数曲、指が覚えている部分だけを奏でた。指先は鍵盤に突っかかり、時々歪んだ音色になる。


 どれくらい時間が経っただろうか。

「下手くそ」

 入口から声が飛んだ。
 
 妹の朱莉の姿だった。
 厚手のニット生地のワンピースを身にまとい、その服によく映える躑躅色のミニバックを持っていた。顔にはほんのりと化粧がのっている。
 元気そうな様子にほっとしつつ、一ノ瀬は苦笑した。
「当たり前だろ。何年ぶりだと思ってんだ」
「お兄ちゃんはすぐ辞めちゃったからね」
 朱莉はバッグを扉の横に投げ出して、一ノ瀬の隣へとやってきた。
「お手本を見せてあげよう」
 と笑う。意図を察して一ノ瀬は立ち上がって、妹に場所を譲った。
 細い指先が鍵盤を弾き始める。ドビュッシーの月の光。この曲で部門別最優秀賞をもらった。
 ただたどしい指先は、もう前みたいには動かない。時々止まり、壊れたオルゴールみたいにスローモーションになる。
 それでも一ノ瀬よりは格段に上手く、朱莉は楽しそうにしていた。

 しばらくすると、朱莉は疲れたのか手を止めた。
「職場、どう?」
 頭上から一ノ瀬は問いかける。
 主治医の許可をもらって、先々月から働き始めたと聞いた。
 障がい者採用で短時間勤務からのスタートだが、着実に前進している。
「んー……。みんないい人だよ」
 と朱莉は言った。でも、と瞼が伏せる。
「私、たくさん嘘を吐いてる。病気になった理由とか、指のこととか」
「……そうか」
「自分で自分を傷つけたのに、特別扱いをされているみたい」
 朱莉は悲しそうに眉を下げた。
 ふぅと一ノ瀬は息を吐く。
「……いいじゃね? あんだけ苦労したんだし、少しぐらい特別扱いされても」
 不思議そうな瞳がこちらを見上げる。
「事故みたいなもんだろ、あんなん」
 月給16万。特別扱いされていると思うのと同じぐらい、誰かと自分を比べて辛くなることもあるだろう。
「ところでお兄ちゃん、ボロボロだねぇ」
「……それはほっといてくれ」
 ふふん、と妹は口角を上げた。
「お兄ちゃんの記事、読んだよ」
 言われて、一ノ瀬は首を傾げた。
 記事と言えば、先日の講演の記事のことだろうが……。
「……俺、話したっけ?」
「うん? ああ、夕方のニュースでやってた」
 ああ。そういえばそうだったと思い出す。
「びっくりしたんだよ? 知らせてくれてもよくない?」
「アラサーにもなって? わざわざ言うことでもないだろ」
「お母さんね、記事大事にとってあるの」
「うっげ、まじかよ」
 朱莉は面白そうにけらけらと笑った。
「お兄ちゃんはうそつきだねぇ。本当の理由言えばいいのに」
「……いいんだよ。あの場で求められてるのは、ああいう発言だし、ああ言っといた方が受けがいいんだ」
「お兄ちゃん」
「ん?」

「一緒に背負ってくれて、ありがとう」


「……ああ」



 休み明け、支援室には珍しい来客が訪れていた。
「息子が世話になった」
 柏木誠一警部はそう言って、一ノ瀬を廊下へと連れだした。
「体調はもう平気か? 無茶をさせてしまって申し訳ない」
「おかげさまで」
 身体の痣はまだ消えないが、徐々に痛みも引いてきている。
 仕事に支障はなく、この調子ならすぐに全快するだろうと説明した。

 柏木はほっとしたように頷いて、それから本題に入った。

「……新課に来ないか?」

 一ノ瀬は目を丸くする。自分みたいな人間に、そういった誘いが来るとは思いもしなかった。
 刑事部ダイナミクス犯罪対策課。
 それが、来期新しく出来る課の名前である。柏木が課長に、国近が補佐に任命される。
 ダイナミクス性に関連した犯罪を取り締まる専門機関。
 次期課長である柏木には、ある程度の人事権が与えられていると聞いたことがある。
「君みたいな人間が、きっと必要になる」
 と柏木は続けた。

 んー、と一ノ瀬は少し悩んで。

「お断りします」

 そう、はっきりと答えた。
「自分の限界は分かっているつもりです。今回みたいなのはそう何回も出来ません。任務が続けばきっと俺は潰れる」
 一ノ瀬は穏やかに口角を上げた。
 
「俺は刑事部にはいきません」

 いつか、刑事部に行く。それが一ノ瀬の目標であり志だった。
 望みが叶うまたとないチャンスだ。
 でも今は……。
 振り返り、支援室を見る。

「この場所で、俺にしか出来ないことをします」

 柏木は残念そうに眉を下げたものの、その答えをある程度予想していたようだった。
「そうか」と薄く笑う。


「でもまあ、応援でよければいつでも力になりますよ」

 柏木は最後に「ありがとう」と礼を言った。





 数日後。
 柏木大志は、閑静な住宅街に構えるカフェでとある人物と向かい合っていた。
「なあ。なんで今日外なんだ?」
 目の前に腰かけた青年――美斗が問いかける。
 週に一度、大志は美斗の家庭教師をしている。先日の件があってからは休んでいたのだが、今日は再開の記念すべき一回目だった。
「それは……」
 美斗の問いになんと答えたものかと大志は考える。
 先日の事件で国近に大志の第二性が知られてしまった。
 隠していたというよりは「言わなかった」と言った方が正しいのだが、見知った顔とは言え、密室でパートナーと過ごしているのはいい気はしないだろう。
 気を使ったつもりだったのだが、そもそも目の前の彼へのフォローを考えていなかった。
 自分がDomだと知れば、傷つくのはむしろ彼の方かもしれない。

 大志が何も言わないと、
「あー……」
 と美斗が声を出す。
「なんだ。今更気にしているのか?」
 テーブルに頬杖をついて、こちらを見つめた。
「は……?」
 首を傾げる。
 まさかとは思いながらも言葉を紡ごうとするが、美斗の方が早かった。

「お前がDomだってこと」
「え」
 大志は目を見開いた。
「いつから……」
 いつから気づいていたのだろう。
「んー」
 と美斗は少し悩んで、
「あの日かな。他の奴はどうか知んないけれど、俺は神経が昂ると分かるんだよ。あの時はひどく不安定だったから」
 そう何てことない風に軽い調子で答えた。
 あの日。須藤正臣が国近を刺した日。ただ一度、彼にコマンドを使った日。
 気づかれているとは思わなかった。
「じゃあ、どうして黙っていたんですか。今の今まで」
「……友達だから。言わないのは、きっとなんか事情があると思って。俺だってそうだし」
「……そういうのは良くないと思いますよ、国近さんだって――」

「はじめは」
 大志の苦言を、美斗は遮った。

「たぶん、とっくに気づいてたと思う。俺よりもずっと前から」
 言葉の意味が分からず、大志は首を傾げる。
「お前、おかしいと思わなかったのか? あいつは何度もお前に俺の警護を頼んでいただろう。あいつだって警察官なんだ。危険があるのを承知で民間人おまえに俺のことを任せたりしないよ」
 言いながら、美斗はテーブルに並んだカップを手に取った。
「それでもそうしたのは、何かあったときにお前が俺のことを制御できるからだ」
 ちゅーとその中身をストローで吸う。
 師走に突入するというのに、今日の気温は秋先と同じかそれ以上に暖かい。
 カップの中身はアイスのカフェラテで、主成分の半分が砂糖とミルクなのではないかと思うぐらいの淡いクリーム色をしていた。
「自分以外の人間に俺が従うのなんて嫌なくせに、お前だったらいいと思ってる」
「……」
「腹立たしいくらい、他人を優先するんだよ」
 そこで、美斗は言葉を区切った。
 今度は一転、むっと顔をしかめる。
「ついでに、一ノ瀬さんが嘘ついてるのも知ってる」

「あの人、Subだろう」
 どうせお前は知っていたのだろうというような口ぶりだった。
「爪が甘いよなぁ。あの雑誌は四葉出版から出てるんだ。俺が過去に連載を持ってる」
 今は休載してしまったけれど、都築は市場の流行を知るのも大切だと今でも見本誌を送ってくれていると語った。
「どいつもこいつも。俺は、そんなに信用できないのか」
「……違いますよ」
 大志は眉を下げる。
 みんな、貴方を守りたいんです。
 だから嘘を吐くし、隠し事をする。
 その言葉を飲み込んで、大志はそれだけを答えた。
 だが、美斗は大志のその返答で、かえって自分の予想が外れていなかったことにショックを受けてしまったようだった。
「ずるい、俺だって……」
 仲良くしたいのに、と呟く。
 美斗は随分と一ノ瀬に懐いているらしい。
 恩を感じているというのもあるし、一番弱っている場面を見られたということもあるだろう。もう取り繕いようがないから自然な姿でいられるのだ。
 でも、一ノ瀬にはそういう部分があると大志は思う。
 あの人は誰かの強張った心を、言葉一つで簡単に溶かしてしまう。

「あげませんよ」
 再び美斗がストローに口先をつけたとき、大志は言った。
「……ん?」
 ストローを唇に挟んだまま、美斗が首を傾げる。
「一ノ瀬さんはあげません」
 美斗は目を丸くした。
 いつから、とか、どこで、とか、どうして、とか。
 そんな疑問が彼の顔に浮かんでは消えていく。

 最終的にその全部をかみ砕くと、
「……あの人、手ごわそう」
 とだけ呟いた。
「んー……」

「俺は弁護士ですから」
 大志は口角を上げた。

「外堀からね、埋めていくんです」

 ぞっと、美斗が背筋を凍らせたのが分かった。
「ふふっ、冗談です」
 そこで、ようやく大志はテーブルに広がられた参考書に目をやった。
「さあ、美斗さん。続きをやりましょう。受験まで時間がないですよ」
「ううぅ、俺もう英語見たくない」
「何言ってるんですか。美斗さんの学部は英語使いますよ。今のままじゃ、A大どころか大学進学自体絶望的だと思ってくださいね」




 その夜、大志はクローゼットを開いた。
 一角に、小さな段ボール箱が置いてある。その中には母の遺品が入っていた。もっとも、生前の母はほとんど私物となるものを持っていなかったので、そこにあるのは幼少期から学生時代にかけたアルバムの数々である。
 大志はそれを今日までほとんど開かなかった。
 色褪せた箱の埃を落とし、ネズミのキャラクターが表紙を飾るアルバムの一冊を手に取る。同じように埃を払いながら、それを捲っていく。
 歯磨き粉のチューブを咥えておどけている幼少期の写真、
 ランドセルを背負って、祖父母と並んでいる写真。
 中学か高校か分からないが、修学旅行とみられるにぎやかな写真。

 大志は母の人生をなぞっていく。

 しばらく眺めていると、一枚の写真で繰る手が止まった。
 校門の前で撮られた写真だ。入学式と立て看板が立っている。
 その横で母と一人の男が並んでいた。
 男の顔に見覚えがあった。今よりもだいぶ若いけれど、それは間違いなく柏木の姿である。

 その時、大志の中で断片的な古い記憶が蘇った。
 この写真を自分は以前にも見たことがある。

 母の膝に乗せられて、このアルバムを見ていた。
「この人だぁれ?」
 幼い大志が問いかけた。
 特段柏木のことが気になって指差したわけではなく、きっとアルバムにいる見知らぬ人間全てについて聞いていたのだろうと思う。
 その頃、めったに外に出なかった大志にとって、自分と母以外の人間は絵本の中の動物と同じぐらい興味を惹かれるものだった。
「あら」
 青あざだらけの顔で嬉しそうに母が笑う。
「んー……」
 と気恥ずかしそうに頬を掻いて、

「昔好きだった人」

 と答えた。

「すきだったひと?」
 大志は首を傾げた。その頃の大志には、「すき」の意味はまだ分からなかった。
 母はクスクスと笑って、人差し指を大志の唇にあてた。
 内緒ね。と悪戯っぽく口角を上げる。
「お母さんは言えなかったの。自分のであの人を苦しめたくなかったから」
 『自分のせい』だと思った。けれど今思えばそれは、『自分の性』と言ったのかもしれない。
「おかあさんは、今しあわせ?」
 大志は問いかけた。
「幸せよ。大志がいるもの」
「だからね。いいの。この恋は誰も知らなくていい」
 ベランダを、白鳥が一羽通り過ぎた。

 はらり、はらりと羽を広げて、遠い世界に旅立っていく。
「懐かしいなぁ。あの人は元気かしら」
 幸せそうに、母はそう呟いた。


 回想はそこで終わった。
 パタリと、大志はアルバムを閉じる。


「誰も知らなくていい、か」

 恋とか愛とかそういう感情から、大志は長らく距離を取っていた。
 自分にそういう感情があるとは思えなかったし、もしあったとしても、他人と深く付き合えば自ずと自分のことを晒さなければならなくなる。
 それは恐ろしいことだった。

 大志は思う。


 あの人は、この気持ちを知らなくていい。
 


――今はまだ。

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