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【第5話】優しい「 」を吐く。1
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「……せさん、一ノ瀬さん」
自分を呼ぶ声が、遠くから響く。声の輪郭は段々とはっきりと近くなって、一ノ瀬に届いた。
灰色の部屋の中で、一ノ瀬真紘は目を開ける。
視界がくらりと揺れた。
冷や汗が一気にどっと吹き出し、はっと肩を大きく上下させる。
「大丈夫ですか」
声の主――柏木大志が横から一ノ瀬を覗き込んだ。
一ノ瀬はその問いには答えず、息も整わないまま辺りを見渡した。見慣れない光景が広がっている。
コンクリート張りの部屋だ。剥き出しの柱が何本か立っていて、視界の先はかなり向こうまで続いている。
オフィスのワンフロアをそのまま使っているのかのようだ。いや、もしかしたら本当に会社として使用されていたのかもしれない。そういう雰囲気のある空間だった。
ただ違うのは、「オフィス」を感じさせるような机やデスクチェア、パソコンなどの電子機器がないことだろうか。代わりにそこかしこに段ボールの山とそれが崩れた紙切れが散らかっていた。
等間隔で窓は付いているけれど、その窓は曇りガラスで出来ていて、外の風景は見えなかった。頑丈な安全柵がついているので、そこから逃げることは出来ないだろう。
ダンボールに隠れ、奥の方に靴下の片方脱げた女の足が横たわっていた。身動きをしていない。
それが生きているのか、死んでいるのかは分からない。
見れば奥の方には無数の目が見える。自分と同じように、この場所に連れてこられた人たちだと分かった。
救助に向かおうと腰を起こす。動きはせき止められて、背後の柱に腕が縛られていることに気が付いた。
チッと舌打ちが零れた。
「気分は」
大志が問いかける。
「あー……」
そこで、身体の力が抜けた。
「くそ。最悪だな。殴るわ蹴るわ。無理やりコマンド向けやがって。頭がいてぇ」
頭の奥が、脈打つように痛んだ。
無理やりコントロールを奪われたときの、あの独特の不快感。それが身体中に充満し、侵食している。
一ノ瀬は眉を顰め、水抜きをするかのように数回頭を振った。
「……怪我は?」
と今度は一ノ瀬の方から問いかける。
「ありません」
明快な返答に安堵の吐息が零れた。
「……ならいい。ここは?」
「どこかの……、ビルのようです。あれから車に乗せられて……。十五分ほど走ったでしょうか。目隠しをされていたので正確な場所までは分かりませんでした」
新宿から車で十五分。渋谷か池袋の辺りだろうか。
いや、案外そう遠く離れてはいないのかもしれない。匿名通報が入ったのは新宿区だった。
でも、と大志が付け足す。
「エレベーターの音と浮遊感がありました。二階以上であることは間違いないと思います」
「……そうか」
そしたらやはり、窓から逃げるのは難しそうだなと考える。
無線と、警察手帳を置いてきた。
柏木たちのことだ。計画通りに動いているはずだが、通信手段がないのはやはり不安だ。
想定外のことが起こったときの保険は欲しい。
それに、長居はしたくなかった。
この身体がどれだけ持つのか分からない。
一ノ瀬の横で、大志は同じように拘束されていた。
ベージュ色のピーコートに、黒のジャケットと白のカットソー。かっちりとしつつもカジュアルさも残る装いだ。
最近の弁護士はスーツじゃないんだなと思ったことを覚えている。
擦り傷だらけの自分とは対照的に、彼の顔には傷一つ付いていなかった。かえって綺麗すぎるその顔は、この場所には不釣り合いだった。
抵抗、しなかったんだな。
怪我をさせないに越したことはないが、それは彼が諦め、現状を受け入れたことを示す確かな証拠でもあった。
いっそ傷の一つでもあった方が健全なのではないか。
見つめていると、大志の瞳がこちらを向いた。
目線が、かち合う。眉が下がった。
実父と対峙してから、彼の表情は暗く沈んでいた。
「巻き込んで……」
続く言葉を遮って、一ノ瀬は唇を開く。
「何に謝ってるんだ」
「は……」
今度は戸惑いが、彼の顔に広がった。
「ずっと、謝っているだろう」
ふ、と大志の口角が自嘲気味に上がる。
「……謝ってないですよ」
「謝っているよ。そういう顔をしている」
「……職業病かな。自分を軽んじている人間はすぐに分かる。犯罪行為に巻き込まれた人間はみんな、自分に価値がないと思うんだ」
振り込め詐欺にあった老人は、自分が迂闊だったと言う。罰が当たるようなことをしたのだと笑う。
朱莉もそうだった。
自分に生きる意味などないと嘯き、毒を飲んだ。
意味などなくても意志さえあればいいのに、その意志すらも、押しつぶされた心に潰されてしまう。
「何に謝っているんだ。こういう状況になったことか? それとも父親が迷惑をかけたことか?」
一ノ瀬は背後を覗き込み、手首を確認した。
遊びのほとんどない縄は、少し動かすだけで軋んで痛んだ。
どうにか抜けないだろうか。
昔どこかで聞いた知識を引っ張り出し、一ノ瀬は手首に力を込めた。
いつかの風景を、一ノ瀬は思い出していた。
「あの日、動けなくなっていたあの子を、君が救ったんだ」
*
国近が須藤正臣に刺されたあの日。
被害者のSubが現場から動かないと聞いて、一ノ瀬は現場に臨場した。
一ノ瀬宛に支援室にかかってきた電話は、ダイナミクス性を持つパートナーの間でいざこざがあったこと。どうもDomが暴走し、Subに向かって暴行を加えたらしいこと。それを庇って、警察官が一人負傷したことを端的に伝えていた。その過程で被害者のSubはコマンドを下されたらしい。第二性を持つ一ノ瀬に応援を求めていた。
「自分が行ったところでどうすることもできない」と一ノ瀬は答えた。けれど結局、放っておくことができなくなって、公用車を走らせた。
現場は、埼玉県との県境にある、家庭的なマンションの一室だった。
部屋の前には規制線が張られていて、その内と外に複数人の関係者が集まっていた。
見張りを担当していた警官に事情を話し、規制線の中へと入れてもらう。部屋の中は、電話で聞いたことを優に超えるほどの凄惨な光景が広がっていた。
ぐちゃぐちゃにかき乱された部屋の中。最低限の家具は赤く染まり、壁沿いには、ひと際大きな血だまりが出来ていた。その真っ赤な絨毯の上で、彼は呆然と座っていた。
主はとっくに病院に運ばれたというのに、彼は救急隊員の誘導にも、警察官の励ましにも
応じなかった。
――言われたんだ。良いっていうまで動くなって。
――だから俺は、ここから動けない。
虚ろな目が、ずっと、もうそこにはいない国近の影を探していたのを覚えている。
一ノ瀬が手を貸そうと踏み出したとき、誰かが一ノ瀬の姿を追い越した。
その人物は自らのスラックスが汚れるのも構わず、血だまりの上に跪いた。
――美斗さん。大丈夫ですよ。
優しい、声だった。
――だから『立って』。
後にも先にも、あれほど穏やかな声色を聞いたことはない。
――一緒に病院に行きましょう。
――国近さんが待ってます。
美斗の瞼から一筋の涙が落ちた。
肩が震えて、もう一筋、二筋と流れていく。
もう、抵抗はしなかった。
救急隊員が、横から彼に毛布を掛けた。
大志に支えられて、彼はゆっくりと立ち上がったのだ。
*
「言わないのは、あの子と国近が気にすると思っているからか?」
大志は何も答えなかった。
「優しいな。立派なDomじゃないか。血のつながりがなんだ。君はちゃんと、正しく育ってる」
気づかれるか気づかれないかの狭間。
あんな風に柔らかにコマンドを使う人間を一ノ瀬は見たことがない。
「それとも救えたはずだと思っているのか? あの状況で、子どもにできることなんかそう多くはない」
「……」
「背負わなきゃならないことも、あえて背負いたいと思うことも、たくさんあるけどな。自分のものじゃない罪まで背負わなくてもいい」
その時、するっと、拘束が緩んで。
に、と一ノ瀬は口角を上げた。
「さてと」
と、と軽く勢いをつけて立ち上がり、固まった手首を回す。
「んじゃまあ、とりあえず、ここから出るか」
一ノ瀬は懐をまさぐった。胸ポケットのスマートフォンはなくなっていたけれど、男たちはそれだけで満足したらしい。
隠しポケットに潜めた小型発信機と盗聴器。万が一のときのための抑制剤。
そして、いつか大志にもらったタバコの箱が、手つかずで残っていた。
*
するり。
一ノ瀬の手が大志の拘束を解く。大志が自由になったのを確認すると、一ノ瀬は、はぁと気だるげに浮いた腰を再び地面に下ろし、煙草の封を開けた。
一本引き出して、火をつける。
『背負わなきゃならないことも、背負いたいと思うことも、たくさんあるけどな。自分のものじゃない罪まで背負わなくてもいい』
言葉が、頭の中で反響した。
鼻に抜けるミントの香りが辺りに充満する。
バニラの甘ったるい匂いは吐きそうになるぐらい気持ちが悪かったのに、メントールの静けさはやけに大志を落ち着かせた。
「今更説明する必要もないかもしれないけれど、概ね計画通りなんだ」
大志から顔を背け、ふーっと一ノ瀬は深く煙を吐いた。
「潜伏先が分からなかったからな。警察が動いてると悟られる前に片をつけたかったし、様子を見ながら俺がSubだとバラして釣る予定だったんだけれど、手間が省けたな。これで全員もれなく叩ける」
一ノ瀬が警護についたときから、大志はその『計画』には気が付いていた。
組織的な犯行なら、上の人間はまず顔を出さない。下っ端をいくら捕まえたところでトカゲのしっぽ切りで終わる。それならわざと泳がして、巣ごと木端微塵にした方がいい。危険があるのを承知の上で、柏木は一ノ瀬を投入したのだろう。
「おとりにして悪かったな」
おとりはあんただろう、と大志は思った。
『おおむね』と彼の言葉を反芻し、計画の端を思考する。
計画通りじゃないところは自分がここにいることだろうか。
きっと隙を見て逃がすつもりだったに違いない。
「柏木さんも国近も、みんなそのつもりで動いてる。きっとすぐに飛んでくるよ」
半分は大志に、もう半分は自分に言い聞かせているような口ぶりだった。
ここ数日、大志の近辺には一ノ瀬と、一ノ瀬以外の捜査官が張り付いていた。
ここに来るまでもきっと追尾されているはずで、このビルの周辺は無数の警察官が包囲しているはずだった。
それが、『計画』どおりなら。
けれど、この人はあとどれだけ持つのだろう。
殴られて血のにじんだ口元に、青白い肌。
呼吸の間隔は短く、不自然なほどの冷や汗が、終始彼の頬を伝っていた。
気を紛らわせるために、吸わないと言った煙草を吸っている。
疲労に混濁した瞳が、大志を見上げる。
ふ、と薄く笑った。
「……少し、抑えてくれないか。そのDefenseは俺にも効く」
はた、と気が付いて、本能的に瞳の力を抜く。
Defense?
自分が?
いつの間に、そんなに気が立っていたのだろう。
すすり泣く声が、遠くから響く。
部屋の向こう側で、誰かが身じろぎをした。
「……見てきます」
背を向けようとしたところで、「ダメだ」と声が飛んだ。
「今のお前が行くと怖がらせる」
一ノ瀬が腰を上げた。
「出口を探してみてくれないか?」
「……。……分かりました」
「くれぐれも気を付けて」
大志は一ノ瀬と別れて、反対方向に向かって歩いた。
建物はL字になっているようだった。一ノ瀬と大志が縛り付けられていたのがL字の折れ目の部分で、他の被害者たちはちょうどてっぺんの部分にまとめられているらしい。
コンクリート張りの部屋は、ひんやりと湿った空気が漂っていた。暖房機能らしきものはついていたけれど、スイッチは入っていないのだろう。時折、冷蔵庫のような冷たい空気が肌を凍らせた。
等間隔にある窓は横開きで、安全柵の内側から開けることはできたけれど、その全てに用心深く鍵付きの補助ロックがつけられていた。ほんの数センチしか開くことは叶わず、外の景色もよく見えなかった。かろうじて窓の向こうに暗闇が見えて、外が夜であることを知った。
大志は窓とは向かい側にある壁の方へと向かい、コンクリートに指先を這わせたり、手のひらを丸めて軽く叩いてみたりした。頑丈な壁には、少しの綻びも見つからなかった。
L字の下の部分に、その部屋の唯一の扉があった。パスコード付きの電子鍵が付いていた。
ちょうどその時、一ノ瀬が反対側から戻ってきて、大志と合流した。
「大丈夫でしたか?」
と問いかける。
「……全員息はある。かろうじてだけどな」
「……そうですか」
一ノ瀬は大志の前へと回り込み、扉の前にしゃがみこんだ。
数字のボタンを検分して呟く。
「総当たり戦か。時間がかかるな」
「パスコードを間違えると通知が飛ぶ仕組みかもしれません。むやみに入力するのは危険かもしれない」
「……そうだな」
一ノ瀬は指先を唇に当てた。
「……『あとで可愛がってあげないと』」
小さく呟く。
「たしか、そう言ってたな」
はた、と気が付いて、大志は唇を開こうとする。
にひ、とまた彼の口角が上がって、何も言えなくなった。
「俺に少し考えがある」
自分を呼ぶ声が、遠くから響く。声の輪郭は段々とはっきりと近くなって、一ノ瀬に届いた。
灰色の部屋の中で、一ノ瀬真紘は目を開ける。
視界がくらりと揺れた。
冷や汗が一気にどっと吹き出し、はっと肩を大きく上下させる。
「大丈夫ですか」
声の主――柏木大志が横から一ノ瀬を覗き込んだ。
一ノ瀬はその問いには答えず、息も整わないまま辺りを見渡した。見慣れない光景が広がっている。
コンクリート張りの部屋だ。剥き出しの柱が何本か立っていて、視界の先はかなり向こうまで続いている。
オフィスのワンフロアをそのまま使っているのかのようだ。いや、もしかしたら本当に会社として使用されていたのかもしれない。そういう雰囲気のある空間だった。
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等間隔で窓は付いているけれど、その窓は曇りガラスで出来ていて、外の風景は見えなかった。頑丈な安全柵がついているので、そこから逃げることは出来ないだろう。
ダンボールに隠れ、奥の方に靴下の片方脱げた女の足が横たわっていた。身動きをしていない。
それが生きているのか、死んでいるのかは分からない。
見れば奥の方には無数の目が見える。自分と同じように、この場所に連れてこられた人たちだと分かった。
救助に向かおうと腰を起こす。動きはせき止められて、背後の柱に腕が縛られていることに気が付いた。
チッと舌打ちが零れた。
「気分は」
大志が問いかける。
「あー……」
そこで、身体の力が抜けた。
「くそ。最悪だな。殴るわ蹴るわ。無理やりコマンド向けやがって。頭がいてぇ」
頭の奥が、脈打つように痛んだ。
無理やりコントロールを奪われたときの、あの独特の不快感。それが身体中に充満し、侵食している。
一ノ瀬は眉を顰め、水抜きをするかのように数回頭を振った。
「……怪我は?」
と今度は一ノ瀬の方から問いかける。
「ありません」
明快な返答に安堵の吐息が零れた。
「……ならいい。ここは?」
「どこかの……、ビルのようです。あれから車に乗せられて……。十五分ほど走ったでしょうか。目隠しをされていたので正確な場所までは分かりませんでした」
新宿から車で十五分。渋谷か池袋の辺りだろうか。
いや、案外そう遠く離れてはいないのかもしれない。匿名通報が入ったのは新宿区だった。
でも、と大志が付け足す。
「エレベーターの音と浮遊感がありました。二階以上であることは間違いないと思います」
「……そうか」
そしたらやはり、窓から逃げるのは難しそうだなと考える。
無線と、警察手帳を置いてきた。
柏木たちのことだ。計画通りに動いているはずだが、通信手段がないのはやはり不安だ。
想定外のことが起こったときの保険は欲しい。
それに、長居はしたくなかった。
この身体がどれだけ持つのか分からない。
一ノ瀬の横で、大志は同じように拘束されていた。
ベージュ色のピーコートに、黒のジャケットと白のカットソー。かっちりとしつつもカジュアルさも残る装いだ。
最近の弁護士はスーツじゃないんだなと思ったことを覚えている。
擦り傷だらけの自分とは対照的に、彼の顔には傷一つ付いていなかった。かえって綺麗すぎるその顔は、この場所には不釣り合いだった。
抵抗、しなかったんだな。
怪我をさせないに越したことはないが、それは彼が諦め、現状を受け入れたことを示す確かな証拠でもあった。
いっそ傷の一つでもあった方が健全なのではないか。
見つめていると、大志の瞳がこちらを向いた。
目線が、かち合う。眉が下がった。
実父と対峙してから、彼の表情は暗く沈んでいた。
「巻き込んで……」
続く言葉を遮って、一ノ瀬は唇を開く。
「何に謝ってるんだ」
「は……」
今度は戸惑いが、彼の顔に広がった。
「ずっと、謝っているだろう」
ふ、と大志の口角が自嘲気味に上がる。
「……謝ってないですよ」
「謝っているよ。そういう顔をしている」
「……職業病かな。自分を軽んじている人間はすぐに分かる。犯罪行為に巻き込まれた人間はみんな、自分に価値がないと思うんだ」
振り込め詐欺にあった老人は、自分が迂闊だったと言う。罰が当たるようなことをしたのだと笑う。
朱莉もそうだった。
自分に生きる意味などないと嘯き、毒を飲んだ。
意味などなくても意志さえあればいいのに、その意志すらも、押しつぶされた心に潰されてしまう。
「何に謝っているんだ。こういう状況になったことか? それとも父親が迷惑をかけたことか?」
一ノ瀬は背後を覗き込み、手首を確認した。
遊びのほとんどない縄は、少し動かすだけで軋んで痛んだ。
どうにか抜けないだろうか。
昔どこかで聞いた知識を引っ張り出し、一ノ瀬は手首に力を込めた。
いつかの風景を、一ノ瀬は思い出していた。
「あの日、動けなくなっていたあの子を、君が救ったんだ」
*
国近が須藤正臣に刺されたあの日。
被害者のSubが現場から動かないと聞いて、一ノ瀬は現場に臨場した。
一ノ瀬宛に支援室にかかってきた電話は、ダイナミクス性を持つパートナーの間でいざこざがあったこと。どうもDomが暴走し、Subに向かって暴行を加えたらしいこと。それを庇って、警察官が一人負傷したことを端的に伝えていた。その過程で被害者のSubはコマンドを下されたらしい。第二性を持つ一ノ瀬に応援を求めていた。
「自分が行ったところでどうすることもできない」と一ノ瀬は答えた。けれど結局、放っておくことができなくなって、公用車を走らせた。
現場は、埼玉県との県境にある、家庭的なマンションの一室だった。
部屋の前には規制線が張られていて、その内と外に複数人の関係者が集まっていた。
見張りを担当していた警官に事情を話し、規制線の中へと入れてもらう。部屋の中は、電話で聞いたことを優に超えるほどの凄惨な光景が広がっていた。
ぐちゃぐちゃにかき乱された部屋の中。最低限の家具は赤く染まり、壁沿いには、ひと際大きな血だまりが出来ていた。その真っ赤な絨毯の上で、彼は呆然と座っていた。
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応じなかった。
――言われたんだ。良いっていうまで動くなって。
――だから俺は、ここから動けない。
虚ろな目が、ずっと、もうそこにはいない国近の影を探していたのを覚えている。
一ノ瀬が手を貸そうと踏み出したとき、誰かが一ノ瀬の姿を追い越した。
その人物は自らのスラックスが汚れるのも構わず、血だまりの上に跪いた。
――美斗さん。大丈夫ですよ。
優しい、声だった。
――だから『立って』。
後にも先にも、あれほど穏やかな声色を聞いたことはない。
――一緒に病院に行きましょう。
――国近さんが待ってます。
美斗の瞼から一筋の涙が落ちた。
肩が震えて、もう一筋、二筋と流れていく。
もう、抵抗はしなかった。
救急隊員が、横から彼に毛布を掛けた。
大志に支えられて、彼はゆっくりと立ち上がったのだ。
*
「言わないのは、あの子と国近が気にすると思っているからか?」
大志は何も答えなかった。
「優しいな。立派なDomじゃないか。血のつながりがなんだ。君はちゃんと、正しく育ってる」
気づかれるか気づかれないかの狭間。
あんな風に柔らかにコマンドを使う人間を一ノ瀬は見たことがない。
「それとも救えたはずだと思っているのか? あの状況で、子どもにできることなんかそう多くはない」
「……」
「背負わなきゃならないことも、あえて背負いたいと思うことも、たくさんあるけどな。自分のものじゃない罪まで背負わなくてもいい」
その時、するっと、拘束が緩んで。
に、と一ノ瀬は口角を上げた。
「さてと」
と、と軽く勢いをつけて立ち上がり、固まった手首を回す。
「んじゃまあ、とりあえず、ここから出るか」
一ノ瀬は懐をまさぐった。胸ポケットのスマートフォンはなくなっていたけれど、男たちはそれだけで満足したらしい。
隠しポケットに潜めた小型発信機と盗聴器。万が一のときのための抑制剤。
そして、いつか大志にもらったタバコの箱が、手つかずで残っていた。
*
するり。
一ノ瀬の手が大志の拘束を解く。大志が自由になったのを確認すると、一ノ瀬は、はぁと気だるげに浮いた腰を再び地面に下ろし、煙草の封を開けた。
一本引き出して、火をつける。
『背負わなきゃならないことも、背負いたいと思うことも、たくさんあるけどな。自分のものじゃない罪まで背負わなくてもいい』
言葉が、頭の中で反響した。
鼻に抜けるミントの香りが辺りに充満する。
バニラの甘ったるい匂いは吐きそうになるぐらい気持ちが悪かったのに、メントールの静けさはやけに大志を落ち着かせた。
「今更説明する必要もないかもしれないけれど、概ね計画通りなんだ」
大志から顔を背け、ふーっと一ノ瀬は深く煙を吐いた。
「潜伏先が分からなかったからな。警察が動いてると悟られる前に片をつけたかったし、様子を見ながら俺がSubだとバラして釣る予定だったんだけれど、手間が省けたな。これで全員もれなく叩ける」
一ノ瀬が警護についたときから、大志はその『計画』には気が付いていた。
組織的な犯行なら、上の人間はまず顔を出さない。下っ端をいくら捕まえたところでトカゲのしっぽ切りで終わる。それならわざと泳がして、巣ごと木端微塵にした方がいい。危険があるのを承知の上で、柏木は一ノ瀬を投入したのだろう。
「おとりにして悪かったな」
おとりはあんただろう、と大志は思った。
『おおむね』と彼の言葉を反芻し、計画の端を思考する。
計画通りじゃないところは自分がここにいることだろうか。
きっと隙を見て逃がすつもりだったに違いない。
「柏木さんも国近も、みんなそのつもりで動いてる。きっとすぐに飛んでくるよ」
半分は大志に、もう半分は自分に言い聞かせているような口ぶりだった。
ここ数日、大志の近辺には一ノ瀬と、一ノ瀬以外の捜査官が張り付いていた。
ここに来るまでもきっと追尾されているはずで、このビルの周辺は無数の警察官が包囲しているはずだった。
それが、『計画』どおりなら。
けれど、この人はあとどれだけ持つのだろう。
殴られて血のにじんだ口元に、青白い肌。
呼吸の間隔は短く、不自然なほどの冷や汗が、終始彼の頬を伝っていた。
気を紛らわせるために、吸わないと言った煙草を吸っている。
疲労に混濁した瞳が、大志を見上げる。
ふ、と薄く笑った。
「……少し、抑えてくれないか。そのDefenseは俺にも効く」
はた、と気が付いて、本能的に瞳の力を抜く。
Defense?
自分が?
いつの間に、そんなに気が立っていたのだろう。
すすり泣く声が、遠くから響く。
部屋の向こう側で、誰かが身じろぎをした。
「……見てきます」
背を向けようとしたところで、「ダメだ」と声が飛んだ。
「今のお前が行くと怖がらせる」
一ノ瀬が腰を上げた。
「出口を探してみてくれないか?」
「……。……分かりました」
「くれぐれも気を付けて」
大志は一ノ瀬と別れて、反対方向に向かって歩いた。
建物はL字になっているようだった。一ノ瀬と大志が縛り付けられていたのがL字の折れ目の部分で、他の被害者たちはちょうどてっぺんの部分にまとめられているらしい。
コンクリート張りの部屋は、ひんやりと湿った空気が漂っていた。暖房機能らしきものはついていたけれど、スイッチは入っていないのだろう。時折、冷蔵庫のような冷たい空気が肌を凍らせた。
等間隔にある窓は横開きで、安全柵の内側から開けることはできたけれど、その全てに用心深く鍵付きの補助ロックがつけられていた。ほんの数センチしか開くことは叶わず、外の景色もよく見えなかった。かろうじて窓の向こうに暗闇が見えて、外が夜であることを知った。
大志は窓とは向かい側にある壁の方へと向かい、コンクリートに指先を這わせたり、手のひらを丸めて軽く叩いてみたりした。頑丈な壁には、少しの綻びも見つからなかった。
L字の下の部分に、その部屋の唯一の扉があった。パスコード付きの電子鍵が付いていた。
ちょうどその時、一ノ瀬が反対側から戻ってきて、大志と合流した。
「大丈夫でしたか?」
と問いかける。
「……全員息はある。かろうじてだけどな」
「……そうですか」
一ノ瀬は大志の前へと回り込み、扉の前にしゃがみこんだ。
数字のボタンを検分して呟く。
「総当たり戦か。時間がかかるな」
「パスコードを間違えると通知が飛ぶ仕組みかもしれません。むやみに入力するのは危険かもしれない」
「……そうだな」
一ノ瀬は指先を唇に当てた。
「……『あとで可愛がってあげないと』」
小さく呟く。
「たしか、そう言ってたな」
はた、と気が付いて、大志は唇を開こうとする。
にひ、とまた彼の口角が上がって、何も言えなくなった。
「俺に少し考えがある」
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