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第二章

52、不穏の積乱雲

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 早朝の薄暗い空に、ヒュン、ヒュン、という鋭い風切り音が響いている。
 その音は、曇天の下、高くそびえ立つタワーマンションの最上階から発せられていた。広く開放されているルーフバルコニーに立つ、セルジュから。

 セルジュは黒頭巾こそ被っていないものの、屈強な肉体を黒装束に包み、両手には黒い刀を一本ずつ携えている。本来であれば、美影みかげ清十郎せいじゅうろうになっていなければならない時分にも関わらず、だ。

 そして、静かに瞬く銀色の瞳に激しい炎を燈らせ、一心不乱に双刀を振るい、くうを裂き続けている。まるで、空に浮かぶ分厚い曇り雲を払わんと、躍起になっているようだった。

 実際、セルジュは晴らしたかったのかもしれない。
 胸の内に巣食ってしまった、重く厚い暗雲を。

 セルジュの心がくらもやに侵されたのは、およそ一週間前のこと。
 森林と化した駅前での死闘を終え、このタワーマンションに帰還してから、間もないことだった。


※:


 ワームホールを通って戦線を離脱したあと、タワーマンションのリビングに戻ってきたセルジュは、力無く壁にもたれかかっていた。
 そして先ほどからずっと、幻聴に悩まされている。

『……待って、女王さまっ……待ってください……! 一度だけ、一度だけでいいですから……! 彼らと話し合いを……』
『お願いします、彼らは、種の存続が危ぶまれ、生まれた故郷をも失くそうとしている難民です……! そんな、そんな人たちと、私は戦えません……!』
『約束、守れなかった……セルジュさんたちが助かるように協力するって、約束したのに……ご、めん、なさい……』

 切ない声に、悲痛な言葉に鼓膜を揺さぶられ、セルジュの眉根は自ずと歪んだ。瞼を閉じれば、森の中にひとり残してきたアクアの姿が、どこまでも愚かで献身的なアクアの姿が、蛍の光のように強く、弱く、浮かんでは消え、消えては浮かび、居たたまれない。

 駅前で起こった事件の詳細は、リビングに到着してから程なくして、シリウスから伝えられた。
 セルジュが白の女王ファイブの“超次元波動砲ハイペリオン”を受けたあと、アクアとふたりで過ごしていた間のことや、その後の経過も、すべて。

 現場に駆けつけてきたシリウスはルビーと交戦したそうだが、それは痛み分けに終わり、森林も間もなく枯れるであろうとのことだった。ただなぜか、シリウスはあの獣のような呻き声についてだけは頑なに口を閉ざし、決して語ろうとはしなかった。ただ一言、“おそらく放っておいても大丈夫だろう”、とだけ呟いた他には、なにも。
 アキリーズが作り出した森林が枯れたとあれば、事態は一応の収拾がついたことになる。白の女王ファイブも姿を消したというし、ルビーが駆けつけたのであれば、アクアも間もなく保護されたことだろう。

 そうとわかっても尚、セルジュはアクアのことが気がかりで仕方がなかった。
 なにせ、あの森で最後の精液を与えたあと、アクアは気を失い、セルジュが戦線を離れるそのときまで一度たりとも目を覚ましてくれなかった。アクアの精神崩壊を食い止めることはできたはずだが、セルジュはその確証に至っていない。

 本当に、アクアは無事だったのだろうか。
 性欲がぶり返して、気をたがえてやいないだろうか。あの奇妙な鳴き声を発する獣に、襲われてやいないだろうか。

「くっ……」

 両脚に鈍い疼きが走った気がして、セルジュは思わず呻いた。アクアが癒しの術を施してくれた箇所は、もう完治しているはずだ。それなのに、なにかを訴えるかのようにじゅくじゅくと膿んでいるように感じるのは、なぜなのか。

「どこか痛むのか?」

 不意にシリウスから呼びかけられて、セルジュは頭を持ち上げた。
 視線の先、リビングのほぼ中央には、武装を解き、細くも引き締まった上半身の素肌を惜しげもなく晒すシリウスがいる。

「お前も診た方がいいか、セルジュ」

 シリウスはセルジュにそう問いかけながらも、アキリーズの治療を続けていた。背中から突出した幾本もの機械触手を、ソファに横たわるアキリーズに向けて。
 機械触たちの先端は、いずれも尖刃メス鉗子かんし、縫合針といった医療器具の形になっており、アキリーズの皮膚を裂いたり、開いたり、縫ったりと忙しなく動き回っている。

 アキリーズは、ワームホールを抜けた途端、気を失ったままに身体の方々から血を噴き出した。シリウスの見立てでは、ルビーの奇襲を一身で受け止めた結果、今更になって出血を伴う酷い打撲創だぼくそうとなって現れた、ということらしい。
 そんなアキリーズの応急手当てに当たっているシリウスが、セルジュの異変を不安視して声をかけるのも、ごく自然な流れというものだ。

 しかしセルジュは、首を横に振った。

「俺に構うな。おそらく、どうにもできん……誰にも」

 セルジュの悲哀を帯びた声が、リビングの壁に、床に、天井に空しく吸い込まれていく。
 息の詰まるような静けさが押し寄せてきた、そのときだった。

「よぉ、シリウス。しばらく見ないうちに、ちと痩せたんじゃねぇか?」

 気怠そうな声が、壁にかけられているテレビから聞こえてきた。
 液晶画面に、その声の主と思しき男の姿が映し出されている。

 年の頃は、三十歳を過ぎたか過ぎないかといったところか。
 艶のない黒髪は、右の側頭部だけが極端に伸ばされたアシンメトリー。スクエア型の眼鏡に覆われている灰色の瞳はどことなく冷たく、肌は病的なまでに白く。それでいて、すっきりと通った鼻筋と面長で角ばった顔の輪郭をしている。
 二メートルを優に超える細身を包むは、派手な刺繍とエンボス加工で紋様が描かれていた闇色の白衣。そこを更に、自らが吸う煙草の煙で覆われているものだから、少々不気味と言わざるを得ない風貌だ。

 服装が示す通り、この男は──ウィルヘルムは医者なのだが、まるで死神のごときこの形相と佇まいでは、その腕はいかほどものなのかと首を傾げたくなるところである。

「顔色も良くねぇしよ。地球の環境が身体に合ってねぇのか、食いモンが合ってねぇのか、はたまたその両方か。いずれにせよ、司令官がそのザマじゃ示しがつかねぇな、シリウス」

 ウィルヘルムの冷ややかな指摘に導かれ、シリウスはテレビの方に向き直った。
 
「……俺がやつれているように見えるとしたら、それは不可解な命令のせいだ。ケイと代わってくれ、あいつに聞かなきゃならないことがある」

「そいつぁ、陛下の主治医として許可できねぇ相談だな」

 紫煙と共に吐き出されたウィルヘルムの言葉に、セルジュは思わず息を呑んだ。
 皇帝ケインリヒの主治医が“会わせられない”、と断言したその意味など、考えるだに恐ろしい。

「……体調が、良くないのか」

 シリウスも、そう問うのがやっとのようだった。

「ああ。陛下のことだ、そうでもなきゃ、お前から緊急連絡が来た時点で真っ先に飛びついただろうよ」

 確かに、ウィルヘルムの言う通りだ。ケインリヒは人畜無害そうに見えても、国の頂点に立つひとりの元首。国の大事を担っているシリウスから連絡が来たとあらば、なににおいても応じてくれたはずだ。

「……アキリーズが、地球侵略の命を受けてこっちに来たと言っている」

 シリウスは、己を奮い立たせるように口を開いた。本心では、ケインリヒの容態を詳しく聞きだしたいところだろうに。あくまでも、軍人としての役目を全うせんとしている。

「俺はこれまでずっと、ケイから与えられた勅命に従って動いてきた。“地球への平和的な移住”という目的のために。それなのに、いきなり反故にされたんじゃ誰だって混乱する。ケイの真意を確認したい。じゃなきゃ俺は……身動みうごきが取れない、取りようがない」

 ジェバイデッドの民も、地球の民も、双方だれひとりとして、一滴の血も流すことなく移住を果たす。それが、ジェバイデッド皇帝たるケインリヒの、確固たる悲願だったはず。そしてその想いに応えるべく数年の月日を費やし、ジェバイデッドの民たちが地球へ移住できるよう矢面に立って動いていたのは、他ならぬシリウスだ。
 それなのに、なんの音沙汰もなくすべてをくつがえすような命令を下されては、納得のしようがないというものだ。

 そして、セルジュも。
 やはり心のどこかで、地球の者たちとは戦いたくない、と。そう願っている気がしていた。

「俺は、陛下の身体のことはわかっても御心の中まではわかんねぇし、そっちの作戦にはほとんど関わってねぇから、確実なことは言えねぇけどよ」

 そう前置きしておいて、ウィルヘルムは続ける。

「陛下は御身がそう長くないと悟って、アキリーズに地球侵略を命じて送り出したんじゃねぇのか? 生き残ったジェバイデッドの民が、いますぐそっちに移住できるようによ」

「──ウィルヘルム!! 陛下の御身が危ういなどと、軽々しく口にするな! 不敬だぞ!!」

 セルジュは預けていた背で壁を弾いて食って掛かったが、当のウィルヘルムは平然としたものだった。

「医者としての、忌憚の無い見解だ。少なくとも平和的に移住するだのなんだの、だらだらと交渉を続けていられるほどの猶予はねぇよ」

 怒りの咆哮を受けても尚、ウィルヘルムは留まることを知らない。

「思い出してもみろよ。地球侵略は、国民の大半が望んでいたことじゃねぇか。陛下が今際いまわきわに国民の意志を汲み取ろうってお考えに至ったんだとしても、なんら不思議なことじゃねぇだろう」

 ウィルヘルムのその言葉を最後に、リビングは沈黙に支配された。
 無理もない、ただでさえ母星の寿命幾許なく、種族の存続さえ心許ないのだ。そこに追い打ちをかけるように元首が病に伏せた、と知らされては、憂国の士たちが言葉を失っても、誰にそれを責められようか。

 永遠にも思える静けさを打ち破ったのは、シリウスだった。

「……わかった。地球を侵略する方向で、調整する」

 地球侵略は、セルジュの望むところでもあったはずのに。
 シリウスが決断を下した瞬間、セルジュは心臓が止まったような錯覚に陥った。

「だが、いますぐに戦争を仕掛けるのは無理だ。ジェバイデッドより劣るなんて甘く見ていたが、地球の兵士も存外、恐ろしいよ。せめてあと一人、アキやセルジュと同等の力を持った奴をこっちに送ってくれ、戦力が足らなすぎる」

 言いながら、シリウスは半身を引いた。治療中のアキリーズを、ウィルヘルムに見せつけるように。

「それかウィル、お前かレクロか、どちらかが来てくれるのでもいい。戦況が激しくなれば、いずれ俺の簡易医療キットだけじゃ対処しきれなくなる」

「……報告書に上がってた、メダリオンとかいう奴らか」

 ウィルヘルムはしばし、睨みつけるようにアキリーズに視線を送っていたが、それはやがてセルジュへと移った。

「お前もずいぶんと手痛くやられたみたいだな、セルジュ。なんだその脚、千切れたのをくっつけた……いや、千切れたところから成長させた、生やしたってところか? しかも、再生してから半日も経ってねぇだろ」

 指摘された通り、セルジュは一時、両脚を失っていた。だがもう、傷は跡すら残さず完全に癒え、消し飛んだ両脚も修復している。現にこうして、二本の足を地につけ立って見せているというのに、経過を知らないはずのウィルヘルムは、まるで経過を一部始終見ていたかのような口ぶりだ。医者ともなれば、触診などせずとも、一見しただけですべて理解できるとでもいうのか。

「どうやって治した? 俺が治療したとしても、完全再生させるのに五日はかかるって傷だぞ。地球の医術が、ジェバイデッドより優れてるっていうのか?」

 ウィルヘルムが、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。医に従する者のサガゆえか、セルジュのこの尋常ならざる治癒速度に興味を禁じ得ないらしい。

「……地球の医術に関しては、なにも知らん。これは……メダリオンの力によるものだ」

 セルジュはテレビ画面から漏れ伝わってくる狂気にも似た迫力に圧され、問われるがままに答えていた。
 すると、ウィルヘルムは奥歯を噛み締め、乾いた笑いを零した。

「へぇ……そういえば、メダリオンの中に癒しの術を使うとかいうのがいたか。そうか、そいつのツラを一度、じかに拝んでみたいもんだな。そんな、“奇跡”みたいな力を持ったヤツのご尊顔をよ」

 ──奇跡。
 アクアは精神を崩壊させんとしながらも、奇跡とも呼べる力を駆使してセルジュを癒した。自我を手放そうとするその瞬間まで、ジェバイデッドの行く末を憂いていた。

 そんな、健気さの化身のようなアクアと戦わなくてはならない時が、いずれ来る。そう遠くない未来に、必ず。
 残酷な事実を前に、セルジュは言葉もなく、ただただ打ちひしがれた。

 そんなセルジュに関心を失ったのか、ウィルヘルムは再び煙草を吸い出していた。

「ま、行きたいのは山々だが、俺が陛下のお傍を離れるわけにはいかねぇしな。ジジイにしたって、あの老いぼれた身体じゃ移動中にぽっくり逝っちまいそうだ。そもそも誰を送るにしたって、いまはエネルギーが足らねぇよ」

「なら、俺たちはしばらく待機させてもらう。その間にケイの容態が回復するようなら、伝えてくれ。俺に直接、命令を下しに来い、と。皇帝自らの声で、言葉で、俺に新しい勅命を与えろ、と。それが国の行く末を背負う元首の責務だ」

 シリウスが語気を強めれば、ウィルヘルムは肩を竦めて溜め息を吐く。

「厳しいこって。それで言うと、陛下のご病気を治して差し上げるのが医者の責務ってヤツかい。ま、見てな。いまに陛下をお前らの前に立たせてやるよ」

 啖呵を切ったウィルヘルムが、画面外へと消えていく。あとには、煙だけを残して。

 このときだったのだろう。
 セルジュの心と身体が、紫煙にも似た靄に囚われてしまったのは、きっと。
 
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