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トンネルの向こう

第335話

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 日付の横に書かれている数字。

 それは“過去に戻ってきた回数”みたいだったが、それって…


 にわかには信じられなかった。

 1回や2回ならともかく、100回以上も戻ってきてるって、がち?

 だってそういうことだろ?

 数字は大きいので400以上のものがある。

 ってことは、400回以上過去に戻ってきたってこと…?だよな?


 「そういうことやな」

 「過去に戻ってきたってなんやねん」

 「世界線を移動しとるんや」

 「…それはわかるけど、なんで?」
 
 「あんたに会うためやって言うとるやろ」

 「よぉわからんのや、その意味が」

 「難しいか?」

 「この世界におる千冬はどうなんや?アイツも過去に戻ってきたっていうんか?」

 「それは違う」

 「ほんならどういうことやねん」

 「この世界のあんたは、他の誰でもないたった1人のあんたや。キーちゃんだってそうや。他の誰でもない」

 「ここに書かれとるのは…?」

 「同じく。ややこしいかもしれんが、この文書を書いたキーちゃんは、別の世界から来た」

 「どうやって?」

 「勘違いしとるようやが、別にこの「世界」に来たわけとちゃうで?」

 「は?でも現にここに…」

 「ここにあるのは、オンライン上にリンクされたデータに過ぎん。ストレージの中には様々な世界線の記録が保存されとる。この世界とは別の世界のことも」


 千冬は、千冬じゃない。

 かといって、この前の世界の千冬でもない。

 他の世界。

 他の時間軸。

 パソコン上にある「データ」は、そういったあらゆる世界線の情報を集積している。

 だからこの文書の先にいる千冬は、俺が“出会っていない”千冬”だそうだった。

 そんなこと言われてもわかんねーよ

 出会ってないって言ったって…


 画面をスクロールしていくと、俺のことが書かれた文書があった。

 まさかとは思ったが、そこに書かれていたのは、身に覚えのない日常の風景だった。

 日付は、2015年とあった。

 「未来」のことだった。





■ 散らかった部屋のベットの上で、微かな吐息が彼の頬の上に落ちる。

 見下ろす私の視線は、ただ、彼の渇いた唇を捉えるのに、終始していた。


 「…なんや、急に」


 部屋のドアを開けるなりベットの上に押し倒された彼が、戸惑ったように私を見た。

 「私」を。

 ——彼の隙をつき、無理矢理唇を奪っていった私を。




 「ああ、ごめん」


 もちろんそれは、「ごめん」で済まされることではない。

 もしも逆の立場だったら、彼をぶん殴っているところだ。

 少なくとも、罵声を浴びせるだけでは済まさない。


 「……」


 彼は私に殴りかかってくるわけでも、言葉を発してくるわけでもなかった。

 ただ、目の前の「出来事」に呆然としていた。

 空から隕石が降ってきたかのような、呆気に取られた眼差しで。


 思えばこの「キス」は、私が彼とした2回目のファーストキス…ということになるのだろう。

 『ファーストキス』なのに2回目というのには、理由がある。

 元々、私はこの世界の住人じゃない。

 それは比喩でも何でもなく、純粋で真っ当な、言葉通りの意味だ。

 奇妙に思えるかもしれないが、事実を事実の通りに話している…、と言った方が良いのかもしれない。

 もちろん、彼はそのことを知らない。

 呆気に取られている彼のそばで、私もその場に呆然と覆い被さったままだった。

 彼を眺める視線はうつろで、焦点は合わない。

 身震いがするほどの緊張も、どうすれば良いかの混乱も、そこにはなかった。

 けれど、その「瞬間」が、“約何十年ぶり”かの彼とのキスが、思考を停止させるのには充分だった。

 呼吸は乱れない。

 そのかわり、心臓の鼓動は速くなった。

 これからどうすれば良いかも、わからなくなるほど。


 「…どいて、…くれんか?」


 静止した時間は永遠にも思えた。

 だから彼は、静まり返った空間を解くように、たまらずに言葉を吐いた。


 「…ごめん」


 ごめんという言葉の安売りが、重力の法則に従うように彼の耳の中に落ちる。

 自然とその言葉が出る感情の裏で、他になにを発すれば良いかもわからなかった。

 恥じらいも恐怖も無い。

 眼前に広がるのはただの日常。

 私にとっては、…そう、それはただの「日常」のはずだった。

 平然と彼の唇を奪っていくことの非常識な行動が、「日常」と言っているわけじゃない。

 こうして彼の上に覆い被さり、彼の息遣いを感じる「距離」にいること。

 ——それが、私にとっての日常だった。

 かつて、私がいた「世界」では。


 彼にウソをつくつもりはない。

 ごまかしも、ハッタリをかますつもりもない。

 かといって「キスをした」ことに対する事情を、どう説明していいかもわからなかった。

 昨日の夜、彼が家に来た。

 そこまでは良かった。

 こんなことするつもりは元々なかったんだ。

 神に誓って。
 

 目の前で起きた現実を、反芻する時間はなかった。

 慌てて部屋を飛び出る。


 バタバタバタバタッ…!


 大きな失敗をしてしまった時、人は、その恥ずかしさから逃げ出してしまう。

 その状況を正確に描写できるシーンがあるとすれば、それはまさしく、彼の元から急いで逃げ出す今の現状に他ならない。

 逃げ出した先の部屋のドアの前で、まだ、彼の唇の感触が残る口元を撫でた。


 (…ああ、なんてことをしてしまったんだ…)


 そう思う自分がいても、もう遅かった。

 深呼吸をする「間」も、時間を体感する暇も、蚊帳の外に放り出されたように行き場を失う。

 直立不動でドアの壁に背を向け、目を閉じている傍ら、ただひたすらに後悔をした。

 「今の出来事はなんでもない」とうそぶける理由も“距離”も、もう、どこにも残っていなかったから。



 (2.5.17)
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