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がんばれ、負けるな

第645話

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 「千冬、グラウンド行くで!」


 時々、夢の向こうで、彼の声が聞こえた。

 何千年も前の過去か、あるいはもっと遠くの、地平から。


 私がこの世界に生まれる前、——自分で言ってて奇妙だけど、彼はこの街にいた。

 この街の、瀬戸内海と白砂のほとりに。

 半袖Tシャツで、片手にはコーラ。

 マメだらけの手。


 ひたむきにバットを振ってた。

 上空10000mのひこうき雲が、神戸の街を横断して。


 甲子園に行く。

 部屋の壁に掲げた書写。

 『目指せ』

 と走り書きされた文字。


 夏の喧騒が駆け抜けたあの頃、亮平は今とは違う人生を歩んでた。

 白いユニフォームに、ボロボロのキャッチャーミットをバックに入れて。

 
 世界がまだ一つだった頃、たった一球のボールを追いかけてた。

 甲子園出場を夢見て、夏が終わるまでの「今日」を追いかけてた。


 サイレンが鳴ってるんだ。

 最初の世界のことを思い出す時、甲子園球場のダイヤモンドが、黒土の上に跳ねたボールを追いかけ、芝生を揺らす。

 カーン!と金属の音が鳴り、高く舞い上がった白球。
 
 ブラスバンドの楽器が鳴りひびくスタンドから、静寂を掻き消すモノトーン。


 野球以外のことは考えてなかった。

 夏の大会に全てを懸けてた。

 後先のことなんて考えてられなかった。

 たとえ明日世界が滅んでも、バッターボックスに立つ。

 それしかないと思ってた。

 たった一球のストレートを打ち返すには。


 
 神社で買った必勝祈願のお守り。

 特訓のために、何度も登り降りした展望台までの階段。


 “彼女と一緒に甲子園に行く”


 そう誓った、夏。

 暑い日差しが降り注ぐ空を見上げて、ただ、雨が降らないことを願い。



 
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