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【第2章】新しい朝
第82話
しおりを挟むすり足で互いの距離を測ろうとしている。
亮平は肘の位置を固定したまま、剣先だけをゆらりと漂わせていた。
一方相手も様子を見るかの如く、近づくわけでも、遠ざかるわけでもない。
さらに30秒が経とうかという頃、男の人の方が痺れを切らしたのか、クイッと反時計回りに竹刀を下に潜らせたあと、その剣先がちょうど小手が入る「距離」に近づこうとした。
亮平はそれに合わせて左足を一歩引く。
そのスピードは次に相手の剣がどう動くかを見据えた3手目の「動き」だった。
男の人は小手と見せかけて竹刀の軌道を即座に修正していた。
亮平が一歩下がるスピードが遅ければ、相手の竹刀が頭部の上に振り落とされる間合いまで一気に詰められていただろう。
が、左足を下げることで、自分の竹刀が一つの動作で“全ての部位を防げる”領域と「時間」を作っていた。
男の人は亮平の出方次第で胴にも切り込めるステップを踏んでいた。
相手が踏み込んだのにはその他にも狙いがあって、面を防がれた後にさらに小手を狙うという攻撃のコンボと連動性を、短い時間の中で“空間的“に作り出すという側面があった。
亮平は左足を軸に自分の距離と「防御の幅」をしっかりと押さえている。
最初の左足の一歩から相手の攻撃をいなせるタイミングを「足」の中でコントロールし、一つ一つの動きの中で「一本」が取られない距離と「タイミング」を連続的に作り出していた。
決して、相手が竹刀を自由に動かせるスペースを作らせないように、常にステップの「支点」を2人の中央に置きながら、様子を見ている。
いや、それは「様子」を見ているのだろうか。
亮平を見ていると、相手の動きに合わせて“自分が動いている”だけのようには見えない。
亮平は一本を取る際、最も多く取っていたのが「小手」だった。
というのも、相手のタイミングと剣先の動きを捉えることができれば、剣を持つ根本、その小手の表面がもっとも隙ができ、その隙をついた攻撃の連動性の中で、「防御」も両立できるからだと言っていた。
剣道でもっとも重要なのは相手との呼吸の合わせ方であり、「一撃」を決めるのではなく、竹刀の様々な動きの連動性の中で上下左右に動き続けられるかどうかの「止まらない時間」の中に、「一本」を打てる距離を作り出せる間合いを“作り続ける”ことが、“打突を決められる「そもそも」の確率を上げられる“、——と。
その言葉の通りに、亮平は“攻撃している”ように見えた。
決して竹刀を「振る」ことが攻撃なのではなく、体全体を使って空間を作り出すことが、一本を生み出せる最効率の攻めに繋がるからだ。
いつでも小手が打てる領域にいながら、左足は常に相手の動きを捉え続けている。
相手選手のフェイントの数は亮平よりも多いように見えるが、それでも、決定的なタイミングを作り出せないまま、次にいつ踏み込むかの距離を見計らっていた。
剣道の試合と言えば、面の打ち合いや鍔迫り合いがよく目立つ。
とくに小中学生での試合では「突き」が認められていないため、試合開始早々に一気に距離を詰める傾向が見受けられる。
しかしこの2人の戦いは、まるで「面・突き・小手・胴」の打突範囲が認められている試合形式のようにも見える。
それは「大人の戦い」だ。
もしこのルールが適用されているとすれば、亮平はますます勝ち目がないんじゃないか?
が、様子を見ていると亮平に分が悪いようには見えないほど、いやむしろその「ルール」に乗っ取った間合いの取り方が、随所に見られた。
スローモーションでないと正確にはわからないほど目まぐるしく剣先が動く。
一瞬の隙をついて小手や面、あるいは突きを繰り出しているように見えるけど、そのどれもが「有効」な一撃にはなっていない。
一撃が決まれば赤旗が上がる。
先に3本を取った方が勝ちなのだが、いつ赤旗が生まれてもおかしくない一瞬の攻防が続いていた。
闇雲に前に進む瞬間は一度もない。
必要最小限の動きの中で、最効率のスピードが出せるように足を動かし続けながら、手や腕は最短距離で「有効打突」のためだけの動作を続けている。
どちらかの動きが一瞬でも遅れれば、たちまちのうちに竹刀がいずれかの部位に滑り込むだろう。
そのいずれかの「部位」というのは、小手・突き・面の順に3次元的に重なり合っている「直線的な点」のことだ。
一つの動きの中で、両者は複数の有効ポイントを持っている、という言い方の方が良いのかな?
攻撃と防御は表裏一体だ。
だから、一瞬で攻撃に転じている「距離」自体には、相手の竹刀の軌道を制する役目もある。
攻撃の最中に先に相手が打突に転じれば、それに対応できる「剣の間合い」が必要になってくる。
さっき言った「空間」というのは剣が“現在進行形で動ける領域”のことで、それは攻撃と防御の幅を同時に“動かせる”選択の「量」と「幅」でもあった。
2人はあらゆる角度で剣の間合いを試しながら、2人の立ち合いの中で生まれた距離と選択肢を振り返りつつ、一度距離を取った。
その直後に動いたのは亮平だ。
ダンッ。
その音は張り詰めた空気の中に澄み渡るように響いた。
ギターの弦が静寂を打ち破るように、乾いた空気の中にストレートに響く。
その直線運動はこの会場にいる誰もが予期していない“リズム”だった。
「リズム」、というと一つの音階の流れのように聞こえるが、この場合は、少し違う。
その「音」が鳴るということが必然の中に生まれたとすぐに気づける「タイミング」の中に、刹那に響いた“韻”。
しかしその韻の“矛先”がどこに向いているかをすぐには認識ができないほどに、意識の外側に鳴った「音色」が雷のように光る。
その「現象」が、たった今起こることが予測できないほどに軽やかに運ばれた亮平の「右足」が、相手の懐に向けて動いた瞬間だった。
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