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第四章
六大国家の密約(3)
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目が覚めた時、寝室の天井が見えた。
起きあがって視線を動かすと、寝室の窓が開いていた。漆黒の空は相変わらずで、遠くから響く鐘の音を聞き数えて、初めて昼過ぎである事を知る。あのまま寝かされたのだろう。白い制服に皺が出来ていた。別の制服に着替えて台所に向かう。
テーブルの上に不可解な布の膨らみがあった。覚えがない。そっと捲ると、果汁を絞った飲み物があり、蜜麺麭に生野菜、出汁巻き卵と言った食事が既に用意されている。
思い当たるのは一人しかいない。
夢の向こうで歌が聞こえた。聞いたことのない歌だったが、子守歌のようだった。
人肌の温もりが掌にあった事を、なんとなく覚えている。
傍にいてくれたのか。
いくらエターニティの師匠とは言えども、此処まで過保護にしなくても。
口元に笑みが浮かぶ。何処かへ消えた師匠の心遣いに感謝して食事を済ませ、浴場から戻ってくると、シセルが血相を変えてヨルシャを探していた。昨晩の出来事を思い出して青褪めたヨルシャは、有無言わさず応接室へ引きずられていく。
部屋の中にいたのは、校長や理事長、学院の教師達、仮面のイルノュド王にその側近。
胃が痛い。自分がこれからどうなるのか、全く見当が付かなかった。
「陛下が彼女と対話を所望されておられます。先生方は席を外して頂けませんか」
「分かりました。では私達はこれで」
「ヨルシャ、くれぐれも粗相のないようにね」
「はい、シセル先生」
かろうじて返事をする。先生、校長、理事長。王の部下と思われる者達まで、部屋を出ていった。ヨルシャとイルノュド王が取り残される。国家声使節の青年までもが歩いていく。
「では陛下、直ぐ戻りますので。少々お待ち下さいませ」
ヨルシャの縋るような眼差しを黙殺して出ていく。どうしろというのか。
「あの……お話しってなんでしょう」
イルノュド王は答えなかった。翡翠の瞳で凝視されているから無視というわけではないが、沈黙が痛い。考えても見ればイルノュド王は音子ではないのだ。様子からしてコエの内容は分かるようだが、実質的な会話は手話に違いない。
拙い。手話は日常会話が出来るほど上手くない。
「あのー、私は手話が上手くできないので、出来れば国家声使節の方にいてもらった方がいい、です。えっと、もし不都合がなければ、私の師匠を呼びたいんですけど」
フーポーがいれば話が出来る。
言ってしまってから我に返った。そういえばフーポーの住んでいる寮や部屋の番号は知らない。シセル先生にでも言って呼び出して貰わねばならない。面倒な。
悩んでいる間に、青い瞳の国家声使節が戻ってきた。
「申し訳有りません、お部屋の方はご不在でした」
振り返った途端、天井から白い板が落下した。国家声使節の足下で、ぼろぼろに砕け散った。視線が正方形の板に集中する。この学院は古い建物だが、天井が抜けるほど老朽化していただろうか。三人が天井を見上げる。
すると黒衣のフーポーがひょっこり顔を出した。手を振り、身軽な動きで降り立つ。
「他に誰もいなくなったみたいだね」
「なななな何やってるのよ」
あまりの気違い沙汰に呂律が上手く回らない。フーポーは頭を掻きながら照れていた。
「ごめんごめん。屋根裏生活に慣れちゃってね」
「屋根裏暮らしをなさってるんですか?」
国家声使節の青年が、突如出現したフーポーに呆然と訊ねる。
「と言うより、道代わりに使うことが多いかな。結構、童心に戻れて楽しいよ」
思いっきり対等に口を聞いている。いくらフーポーが竜族の端くれで相手が人間とは言えども、相手の身分は国王の側近だ。そして此処は、王の御前。真後ろのイルノュド王の沈黙が痛い。
ヨルシャはフーポーの頭を拳骨で殴り、胸倉を掴んで引き寄せた。
「あ、あんた、なにやってんのよ! 竜王様の御前でそんなことして! 申し訳有りません、この人さっき話した私の師匠なんですが、普通の人と違ってちょっと頭がおかしいんです。どうか、ご無礼をお許し下さい!」
国家声使節の眉間に青筋が浮かぶ。機嫌を損ねたらしい。
「ヨルシャ。大丈夫だよ」
事態を理解していないフーポーの、呑気な言葉に目をつり上げる。
「大丈夫なわけがあるか! これ以上、問題をややこしくしないでよ!」
フーポーに頼ろうと思ったのが間違いだった。
己の軽率さを恨みつつ、腹癒せにフーポーの胸ぐらを掴んだまま揺さぶり続けた。
「ぶ、ぶくくくく、ははは、あーはははは! 傑作だ! あはははははは!」
耳に届いた爆笑に、手が止まる。
目の前で沈黙を守り続けたイルノュドの竜王が、ひたすら笑い転げている。
「…………りゅ、竜王様が、音子。国家声使節の方がいるのに。て、お話しが出来るなら話が早い。今、申し上げた通りです。ご無礼どうかお許しください」
胸ぐらを掴んだまま、力任せで強制的に頭を下げさせた。
「あ、あはは、ひ、酷い遊びをしておられますな」
フーポーは笑い続けるイルノュド王を、冷たく睨んだ。ヨルシャの心臓が縮み上がる。
「竜王様を睨んでどうすんのよ! 私まで刑罰受けたらどうする気!」
「うっぷ、ぷぷ、ヨルシャ殿といったかな。私は」
「幼馴染みなんだ」
竜王の声を遮ってフーポーが答えた。
今まさに平手打ちをしようとした手が止まる。
顔の前に両手を挙げて降参の意を表すフーポーの顔を、まじまじと凝視した。
「幼馴染み?」
問いかけに「うん」と頭を縦に振った。
「イルノュド王についてはよく知ってるし、其処の国家声使節のお父さんも含めて歳が近いから、昔は一緒に遊んでたんだよ。だから心配ないって言ったんだ。なあ二人とも」
国家声使節の青年は黙っていたが、イルノュド王は肩をすくめた。
「間違いではないね」
「僕が改めて紹介しよう。幼馴染みのイルノュド王」
黒仮面をつけたイルノュド王が立ち上がり、体を萎縮させたヨルシャの前まで歩いてきた。王が下々の者の為に、わざわざ足を運ぶなど普通は考えられない。漆黒の仮面で眼差しを伺い知ることは出来なかったが、白い顔の薄い唇は弧を描いた。
「どうぞお見知り置きを、ヨルシャ殿。周囲に人間がおらぬ場合は、気兼ねなくくつろいでくれ賜え」
イルノュドを統べる竜王が頭を垂れる。慌ててヨルシャも頭を下げた。
「それと僕がお世話になっている家の子だよ。イルノュドの四大公爵家の一つ、白家当主ヨンリィの子息のカルナだ。ヨンリィは僕の従兄弟で、本来は国王秘書なんだが病で床に伏していてね。代わりに息子のカルナが代理を務めているんだ。国家声使節兼秘書だね」
シエタの取り巻きに嘲笑われた際に、フーポーが名乗った貴族の本家だろう。
「白家のカルナと申します。お見知り置きを」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
落ち着いた物腰のイルノュド王に対して、年が近そうなカルナは感情を微塵も滲ませない口調で声を放った。近くで見れば青い瞳もやや丸みを帯びていて、顔つきも幼いというのに、大人顔負けの威厳を感じる。竜族ではなく人間の青年だ。
ヨルシャは最後にフーポーを見た。
「こんなに偉い人達と知り合いなのに、落ちこぼれの穀潰しって。肩身が狭かったのね」
母国に居たくないという気持ちが、なんとなく分かった気がする。
「放って置いてくれ」
拗ねた。やり取りを見ていたイルノュド王が吹き出す。
「交流会はこの辺にしましょう。話し合いに移って構わないかな」
「そうだね」
イルノュド王が席へと戻っていく。その少し後ろに、カルナが立った。イルノュド王の正面に玉製の長机があり、取り囲むように長椅子が置かれている。フーポーと向かい合う様に長椅子に腰掛けた。
「ヨルシャは自分の置かれた立場を正確に把握しているかな。言ってみて」
昨晩の嫌な出来事を思い出してみた。
「一位のシエタを押しのけて坊やに求婚されて、しかも話を聞いてくれなかった」
思い出したことを簡潔に言うと、向かいに座ったフーポーが頭を掻く。
「うん、まあそうなんだけど。もうちょっと事態は深刻なんだ」
深刻と言われて首を傾げると、カルナが淡々と語る。
「六カ国平和条約の亀裂を招く事件です」
一般的に六カ国の定義は、人間と竜属国を合わせた中で大国上位、六カ国を指し示す。
パフェル、イルノュド、サイデラーデ、ブレニッツァ、ジンユエ、カバラの六国だ。
「実は歌花祭というのは和平の裏取引なんだ。一種の国家間政略結婚みたいなものとでも言えばいいのかな。優秀な人間を竜族が引き取る伝統があるんだ」
かつて支配する竜族と奴隷だった人間。
事の始まりは帝竜暦二〇〇一年に勃発した、第二次世界大戦に遡る。
度重なる国家の分裂及び支配体制が崩れたことを切っ掛けに、互いの協力関係や友好関係の証として、特に優秀な人間者達を竜属国に迎え入れることを決定した。
その実力を計るのが歌花祭であるという。
レディン学院は元々、竜王妃を生むための学院だった。竜属国が西と東に分かれた時点で迷走を続けていたものの、和平取引に相応しい人材が必要になると、一転して世界最高峰を歌い、音子の学院に変じたという。
以後学院は、和平に必要な優秀な人間ひいては音子の育成を続けてきた。
歌花祭が公平性を失うことも、優秀な人材を受け入れないことも致命的な事らしい。
「それなら、坊やの寝ぼけた戯れ言は兎も角として、一位のシエタを何処かで受け入れればいいんじゃないの? 私は一位になりたくないから、三位のままでいいわ。そうすれば和平は保たれるんじゃない?」
「問題はそこではないんだ」
イルノュド王は重々しい溜息を吐いた。
「彼女を受け入れるのは難しい。我々には既にカルナがいるし他国もいない。今回の歌花祭では『西の竜王が声使節を必要としている』事になっている。従って、向こうが受け入れないと話にならない。だが若き王は君を所望した。つまり幾ら改竄されていたとはいえども条件を無視したあげく面目も潰した」
傍らのカルナが王の言葉を補う。
「加えて少年王は己の口で語りました。王が音子である以上、声使節は必要ありません」
考えてみれば、確かにそうだ。
音子は声を持たない高貴な者達を補佐する役割にある。だが本人達がコエを持っていて自在に操れるのならば、音子を傍に置く必要はない。そこで、ヨルシャはイルノュド王とカルナを見た。この王もコエを持っている。ならば何故、秘書を兼ねているとはいえども国家声使節が傍らにいるのか。
物言いたげなヨルシャの視線の意図をくみ取ってか、フーポーが答える。
「彼は竜族国間でかわされた暗黙の掟まで破ってしまったんだ」
「暗黙の掟?」
眉を顰めた。フーポーの表情に苦笑が滲む。
「これを教えると怒るかも知れないけど、裏取引には二重の意味合いがあるんだ。一つは人間と竜族の間で世界大戦を起こさないため。もう一つは少子化に歯止めを掛けるため」
「早い話が嫁取りだね」
イルノュド王はフーポーの言葉を要約した。
ヨルシャの脳裏に、空を飛んだ夜の会話が過ぎる。竜族に女性はいない。だから子孫を残す場合は、人間の女性と家庭を築くと。動かないヨルシャを見下ろしたまま、カルナは解説を始めた。
「世界的に見ても女性の人口は男性よりも遙かに下回ります。竜族には女性が生まれませんので当然ですが、大昔のように『女狩り』と言うような野蛮な真似をすれば戦争の火種になりかねません」
まだ竜族が人間を家畜同然に扱っていた時代。
全ての人間が支配下に置かれていたわけではなく、人間の王が統治する人間の国も少なからず存在した。最も有名なのは、伝説の北国から来たという、商王ジェカデが統治した砂国である。
砂国王は当時の竜王と親睦も深く、砂漠の平原を挟んだ広大な領土を完全な中立地帯として保った。だが商王ジェカデの直系の子孫が戦乱で途絶え、統治権が移った途端に砂国の秩序は崩壊。最後の砂国王が事故死してまもなく、本格的な第二次世界大戦へ突入。
その後、頻繁に砂国の女性が攫われるという事件が起きている。
誰が攫ったのか、何故攫ったのかなど明白だった。
その時の事件は『女狩り』と呼ばれて忌み嫌われている。
「そこで諸国の神経を逆なでせず、いかに女性を集めるかが竜族国で問題視されました。話し合いの末、和平取引に乗じて女性の歌花や声使節を優先的に受け入れることになったのです」
噂は真実だった。
しかも国家規模の計画だという衝撃が目の前を暗くする。
返す言葉を持たないヨルシャに、フーポーが極めて穏やかな口調で告げた。
「僕ら竜族は人間と違ってコエを失ってはいないんだ。だから本来、歌花も声使節も必要ない。けれど人間達の様に振る舞い、音子であることを隠すのは、種族問題が根深く絡んでいるからだ」
イルノュド王が普通に話せるのは、なんら不思議な話ではなかった。
「少年王は全竜族が音子であることは、かろうじて喋っていない。が、彼の名前で歌花や声使節を定期的に集めることは出来なくなった。さぞサイデラーデの臣下達は頭を抱えているだろうね。我々も気が気でないよ」
深い溜息を零したイルノュド王の方を向く。
「それって人間に対する背信行為じゃ?」
腹の底から沸き上がる激情を、喉の奥で押しとどめる。
「悪意的に取ればそうとも言います。ですが諍い無く友好関係を続けるには最も効率の良い方法です。それとも貴方は、真実を全て打ち明けて彼等の警戒心を呷り、切羽詰まった竜族国に攻め入って欲しいのですか? 大勢の死者を出したいと?」
「な、そんなこと言って無いじゃない!」
すました顔で恐ろしいことを口にするカルナと、真っ向から睨み合う。
玻璃の如き青い瞳に蔑視の色が見える。棘を含んだ言葉に、凍てついた眼差し。無表情という仮面の下に押し殺された感情を悟った。カルナからは、フーポーのような親しみも、イルノュド王の様な気安さも感じない。感じるのは明確な敵意のみ。
「結果的に悲惨な流れになります。秘密の重さを知らぬ小娘が、無責任な抗議をするな」
「カルナ、口が過ぎるぞ」
イルノュド王の一喝に、カルナは全身を振るわせた。感情を覆い隠して、瞼を伏せる。
「申し訳有りません。出過ぎた真似を致しました」
変わり身の早さに驚いていると、イルノュド王が口元に人のいい笑みを浮かべる。
「すまないね。カルナは職務に忠実なんだ。気を悪くしないでくれ。色々数え切れない命や契約だとか立場だとか、難しい問題が絡んでくるので我々は穏便に済ませたい、という事は理解して貰えたかな」
「私どうしたらいいんでしょう。ずっと断っていれば?」
「一番、賢明な行動だが微妙だね。見ての通りルイシア殿はまだ幼く思慮に欠ける」
「ルイシア?」
「シー・ルイシア。第八代サイデラーデ王の御名だよ」
西国は今、不安定だという。
東賢帝と西武帝時代から現在に掛けて、西武帝の支配領から独立、或いは王家血縁から分裂した国家は総じて『西国』と呼ばれている。六カ国の中で西国に類するのが、サイデラーデとジンユエだ。
現在ジンユエ国は内乱を起こしている。内乱は、ヨルシャが思っていたより深刻な影響を周辺諸国に及ぼしているらしい。被害を最も受けるのが、サイデラーデ王の国域のようだ。しかし肝心な時に、新王はまだ幼いと来れば、臣下や国民は気が気ではないだろう。
「裏取引以外にも、ルイシア殿がヨルシャ殿を妻にしたがっている点も問題だ」
「そんなことも問題なんですか」
「そんな事じゃないよ。僕らの命は人より長い。サイデラーデ王はまだ少年だ。子供が成せる歳でもない。万が一、君が嫁いだりしたら……意味は、分かるよね」
イルノュド王とフーポーに言われて、あの少年王に嫁いだ場合を考えてみた。
毎日、暴慢な態度で遊ぼうとか言われたら、繊細な堪忍袋はすぐ切れてしまいそうだ。
ところが想像は甘かったらしい。再びカルナが口を開く。
「貴重な女性を飼い殺しにする事になるでしょう。或いは見かねた家臣達に娼婦のような扱いを受けるか。基本的に竜族は生涯に一人しか妻を娶りませんし、少年王が御子を持つことは難しくもなるでしょう。ただでさえ不安定な国家ですから、世継ぎがいない場合は益々国家は荒れる可能性がありますね」
今度はフーポーが頭を抱えた。
「カルナ、言葉を選んでくれないか」
「選んでいます。この娘が分かりやすいように事実を述べたまでです。少々露骨ですが」
娼婦として飼い殺される、という言葉に背筋が凍った。
洒落にもならない。
一位にならなかったのは幸か不幸か。
置かれた状況を理解して、ヨルシャは青くなった。見窄らしい娘は王子様に見初められて幸せになりました、めでたしめでたし――なんて、夢物語に過ぎないのだという事を思い知る。
「今回の歌花祭には他国がいない。問題を大きくしない内に、片づけないとならないか」
「暫く滞在するんだろう」
面倒だとぼやくイルノュド王に、フーポーが抑揚のない声で訊ねる。
「当然。フーポーにも手伝って貰うからそのつもりで」
「……分かった」
渋々頷く、といった雰囲気に眉を顰める。
いくら白家縁の者で、イルノュド国王や大貴族と幼馴染みであろうとも、怠け者で授業にも出ないフーポーに、何の手伝いが出来るというのか。書類の整理が出来るかどうかも怪しいところだ。
「それとヨルシャ殿。一人の時は充分に注意したまえ。ルイシア殿の臣下に誘拐される、なんて事態は早々起きないだろうが、一位の娘、シエタと言ったかな」
心臓が跳ねた。
今この場にいないとはいえど、事件の当事者はシエタも同じだ。シエタは本来、一位でないと言うが、だとすれば多少不憫に思う。あんなに喜んでいたのに、と舞台上の笑顔が脳裏を過ぎった。
「昨晩カルナに調べさせたが、彼女が例の改竄を指示したようだ。実家も随分あくどい事もやっている家のようだし。ヨルシャ殿に責は無いとはいえど、横から金蔓を奪ったと思われても無理はない。逆恨みされる可能性も否定できない」
シエタに恨まれる。
刹那、鉛が心臓にぶら下がった様な感覚が生まれた。
シリイ地区にあるシエタの実家、聖女祭で賛美される聖女ルウシュの恩恵を受けて栄えた大富豪の娘、さぞ家の者は音子として生まれたシエタに期待を寄せていたことだろう。
改竄されていた偽りの栄光でも、シエタはサイデラーデに迎えられるはずだった。
不本意ながらもヨルシャは、それを阻んだのだから。
「大丈夫?」
「あ、うん。平気だと、思う」
呆けていたのか、向かいにいたフーポーが傍らに来ていた。
「イルノュド王の手伝いがあるから傍にいてやれないんだけど、何かあったらすぐに報告してくれれば対処するから。カルナ、ヨルシャの連絡は正確に通して欲しい」
「分かりました。この度の問題はここまでにしまして。個人的に遙かに重大と感じていることに関して、一言よろしいでしょうか」
今よりも更に重大な話とは何なのか。ヨルシャは身構えた。
まさかイルノュド四大公家縁の者を師匠としたことか、それとも叩いたり殴ったり暴言を吐いた事だろうか、と『重大なこと』に心当たりがありすぎる。ところがカルナはヨルシャを見ていなかった。隣のフーポーを怖いほど睨んでいた。
カルナは手元から一枚の用紙を取り出す。
「それでは――現代文四十九点、手話百点、数学十六点、科学三十九点、地理学百点、国史九十一点、家庭科五十五点、体育五十点」
紛れもなく今学期の成績表だ。カルナは清々しく微笑む。
「これについて弁明はございますか」
「……今回の赤点は数学だけで」
ぱぁん! といっそ小気味が良いほどの音を立てて成績表が机に叩きつけられた。
成績表に記された名前は『パイ・フーポー』だ。
隣の本人は、借りてきた猫のように縮こまっていた。逆にカルナの顔は憤怒で赤い。
「今回も、です。何故基本五科目が悪いんです。情けないとは思われないのですか。特定の分野は成績優秀なのに、どうして毎回毎回こんな悲惨な成績が取れるんですか」
確かに四大公爵家縁の者が、数学の十六点や科学の三十九点はいただけない。
「取ったものは仕方ない」
あっぱれな居直りぶりに感心してしまう。
打って変わって情けない雰囲気にヨルシャは呆気にとられた。口論はまだ続く。
「結果論じゃありません。いくら入学を続けているとはいえ、毎年二度、恐怖の成績表を受け取る我々の身にもなって下さい。文武両道が望ましい御方がなんと情けない。せめて学業成績ぐらいまともにとってください」
「そうは言ってもほとんど出てないし」
考えても見れば、フーポーは殆ど授業に出ていない。悲惨な成績も何故か頷けた。
しかし、やっぱり見過ごせない。
「あんた少しは勉強しなさいよ」
「ヨルシャまで。あ、でも僕とヨルシャ達は別々に試験受けてるんだし、ヨルシャが試験終わったら、僕に勉強を教えてくれないかな。そうすればいい点がとれると思う」
「却下」
「えー」
「えーじゃないでしょうが」
試験問題を教示しても意味がない。情けない師匠の顎にヨルシャの拳骨が飛んだ。
起きあがって視線を動かすと、寝室の窓が開いていた。漆黒の空は相変わらずで、遠くから響く鐘の音を聞き数えて、初めて昼過ぎである事を知る。あのまま寝かされたのだろう。白い制服に皺が出来ていた。別の制服に着替えて台所に向かう。
テーブルの上に不可解な布の膨らみがあった。覚えがない。そっと捲ると、果汁を絞った飲み物があり、蜜麺麭に生野菜、出汁巻き卵と言った食事が既に用意されている。
思い当たるのは一人しかいない。
夢の向こうで歌が聞こえた。聞いたことのない歌だったが、子守歌のようだった。
人肌の温もりが掌にあった事を、なんとなく覚えている。
傍にいてくれたのか。
いくらエターニティの師匠とは言えども、此処まで過保護にしなくても。
口元に笑みが浮かぶ。何処かへ消えた師匠の心遣いに感謝して食事を済ませ、浴場から戻ってくると、シセルが血相を変えてヨルシャを探していた。昨晩の出来事を思い出して青褪めたヨルシャは、有無言わさず応接室へ引きずられていく。
部屋の中にいたのは、校長や理事長、学院の教師達、仮面のイルノュド王にその側近。
胃が痛い。自分がこれからどうなるのか、全く見当が付かなかった。
「陛下が彼女と対話を所望されておられます。先生方は席を外して頂けませんか」
「分かりました。では私達はこれで」
「ヨルシャ、くれぐれも粗相のないようにね」
「はい、シセル先生」
かろうじて返事をする。先生、校長、理事長。王の部下と思われる者達まで、部屋を出ていった。ヨルシャとイルノュド王が取り残される。国家声使節の青年までもが歩いていく。
「では陛下、直ぐ戻りますので。少々お待ち下さいませ」
ヨルシャの縋るような眼差しを黙殺して出ていく。どうしろというのか。
「あの……お話しってなんでしょう」
イルノュド王は答えなかった。翡翠の瞳で凝視されているから無視というわけではないが、沈黙が痛い。考えても見ればイルノュド王は音子ではないのだ。様子からしてコエの内容は分かるようだが、実質的な会話は手話に違いない。
拙い。手話は日常会話が出来るほど上手くない。
「あのー、私は手話が上手くできないので、出来れば国家声使節の方にいてもらった方がいい、です。えっと、もし不都合がなければ、私の師匠を呼びたいんですけど」
フーポーがいれば話が出来る。
言ってしまってから我に返った。そういえばフーポーの住んでいる寮や部屋の番号は知らない。シセル先生にでも言って呼び出して貰わねばならない。面倒な。
悩んでいる間に、青い瞳の国家声使節が戻ってきた。
「申し訳有りません、お部屋の方はご不在でした」
振り返った途端、天井から白い板が落下した。国家声使節の足下で、ぼろぼろに砕け散った。視線が正方形の板に集中する。この学院は古い建物だが、天井が抜けるほど老朽化していただろうか。三人が天井を見上げる。
すると黒衣のフーポーがひょっこり顔を出した。手を振り、身軽な動きで降り立つ。
「他に誰もいなくなったみたいだね」
「なななな何やってるのよ」
あまりの気違い沙汰に呂律が上手く回らない。フーポーは頭を掻きながら照れていた。
「ごめんごめん。屋根裏生活に慣れちゃってね」
「屋根裏暮らしをなさってるんですか?」
国家声使節の青年が、突如出現したフーポーに呆然と訊ねる。
「と言うより、道代わりに使うことが多いかな。結構、童心に戻れて楽しいよ」
思いっきり対等に口を聞いている。いくらフーポーが竜族の端くれで相手が人間とは言えども、相手の身分は国王の側近だ。そして此処は、王の御前。真後ろのイルノュド王の沈黙が痛い。
ヨルシャはフーポーの頭を拳骨で殴り、胸倉を掴んで引き寄せた。
「あ、あんた、なにやってんのよ! 竜王様の御前でそんなことして! 申し訳有りません、この人さっき話した私の師匠なんですが、普通の人と違ってちょっと頭がおかしいんです。どうか、ご無礼をお許し下さい!」
国家声使節の眉間に青筋が浮かぶ。機嫌を損ねたらしい。
「ヨルシャ。大丈夫だよ」
事態を理解していないフーポーの、呑気な言葉に目をつり上げる。
「大丈夫なわけがあるか! これ以上、問題をややこしくしないでよ!」
フーポーに頼ろうと思ったのが間違いだった。
己の軽率さを恨みつつ、腹癒せにフーポーの胸ぐらを掴んだまま揺さぶり続けた。
「ぶ、ぶくくくく、ははは、あーはははは! 傑作だ! あはははははは!」
耳に届いた爆笑に、手が止まる。
目の前で沈黙を守り続けたイルノュドの竜王が、ひたすら笑い転げている。
「…………りゅ、竜王様が、音子。国家声使節の方がいるのに。て、お話しが出来るなら話が早い。今、申し上げた通りです。ご無礼どうかお許しください」
胸ぐらを掴んだまま、力任せで強制的に頭を下げさせた。
「あ、あはは、ひ、酷い遊びをしておられますな」
フーポーは笑い続けるイルノュド王を、冷たく睨んだ。ヨルシャの心臓が縮み上がる。
「竜王様を睨んでどうすんのよ! 私まで刑罰受けたらどうする気!」
「うっぷ、ぷぷ、ヨルシャ殿といったかな。私は」
「幼馴染みなんだ」
竜王の声を遮ってフーポーが答えた。
今まさに平手打ちをしようとした手が止まる。
顔の前に両手を挙げて降参の意を表すフーポーの顔を、まじまじと凝視した。
「幼馴染み?」
問いかけに「うん」と頭を縦に振った。
「イルノュド王についてはよく知ってるし、其処の国家声使節のお父さんも含めて歳が近いから、昔は一緒に遊んでたんだよ。だから心配ないって言ったんだ。なあ二人とも」
国家声使節の青年は黙っていたが、イルノュド王は肩をすくめた。
「間違いではないね」
「僕が改めて紹介しよう。幼馴染みのイルノュド王」
黒仮面をつけたイルノュド王が立ち上がり、体を萎縮させたヨルシャの前まで歩いてきた。王が下々の者の為に、わざわざ足を運ぶなど普通は考えられない。漆黒の仮面で眼差しを伺い知ることは出来なかったが、白い顔の薄い唇は弧を描いた。
「どうぞお見知り置きを、ヨルシャ殿。周囲に人間がおらぬ場合は、気兼ねなくくつろいでくれ賜え」
イルノュドを統べる竜王が頭を垂れる。慌ててヨルシャも頭を下げた。
「それと僕がお世話になっている家の子だよ。イルノュドの四大公爵家の一つ、白家当主ヨンリィの子息のカルナだ。ヨンリィは僕の従兄弟で、本来は国王秘書なんだが病で床に伏していてね。代わりに息子のカルナが代理を務めているんだ。国家声使節兼秘書だね」
シエタの取り巻きに嘲笑われた際に、フーポーが名乗った貴族の本家だろう。
「白家のカルナと申します。お見知り置きを」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
落ち着いた物腰のイルノュド王に対して、年が近そうなカルナは感情を微塵も滲ませない口調で声を放った。近くで見れば青い瞳もやや丸みを帯びていて、顔つきも幼いというのに、大人顔負けの威厳を感じる。竜族ではなく人間の青年だ。
ヨルシャは最後にフーポーを見た。
「こんなに偉い人達と知り合いなのに、落ちこぼれの穀潰しって。肩身が狭かったのね」
母国に居たくないという気持ちが、なんとなく分かった気がする。
「放って置いてくれ」
拗ねた。やり取りを見ていたイルノュド王が吹き出す。
「交流会はこの辺にしましょう。話し合いに移って構わないかな」
「そうだね」
イルノュド王が席へと戻っていく。その少し後ろに、カルナが立った。イルノュド王の正面に玉製の長机があり、取り囲むように長椅子が置かれている。フーポーと向かい合う様に長椅子に腰掛けた。
「ヨルシャは自分の置かれた立場を正確に把握しているかな。言ってみて」
昨晩の嫌な出来事を思い出してみた。
「一位のシエタを押しのけて坊やに求婚されて、しかも話を聞いてくれなかった」
思い出したことを簡潔に言うと、向かいに座ったフーポーが頭を掻く。
「うん、まあそうなんだけど。もうちょっと事態は深刻なんだ」
深刻と言われて首を傾げると、カルナが淡々と語る。
「六カ国平和条約の亀裂を招く事件です」
一般的に六カ国の定義は、人間と竜属国を合わせた中で大国上位、六カ国を指し示す。
パフェル、イルノュド、サイデラーデ、ブレニッツァ、ジンユエ、カバラの六国だ。
「実は歌花祭というのは和平の裏取引なんだ。一種の国家間政略結婚みたいなものとでも言えばいいのかな。優秀な人間を竜族が引き取る伝統があるんだ」
かつて支配する竜族と奴隷だった人間。
事の始まりは帝竜暦二〇〇一年に勃発した、第二次世界大戦に遡る。
度重なる国家の分裂及び支配体制が崩れたことを切っ掛けに、互いの協力関係や友好関係の証として、特に優秀な人間者達を竜属国に迎え入れることを決定した。
その実力を計るのが歌花祭であるという。
レディン学院は元々、竜王妃を生むための学院だった。竜属国が西と東に分かれた時点で迷走を続けていたものの、和平取引に相応しい人材が必要になると、一転して世界最高峰を歌い、音子の学院に変じたという。
以後学院は、和平に必要な優秀な人間ひいては音子の育成を続けてきた。
歌花祭が公平性を失うことも、優秀な人材を受け入れないことも致命的な事らしい。
「それなら、坊やの寝ぼけた戯れ言は兎も角として、一位のシエタを何処かで受け入れればいいんじゃないの? 私は一位になりたくないから、三位のままでいいわ。そうすれば和平は保たれるんじゃない?」
「問題はそこではないんだ」
イルノュド王は重々しい溜息を吐いた。
「彼女を受け入れるのは難しい。我々には既にカルナがいるし他国もいない。今回の歌花祭では『西の竜王が声使節を必要としている』事になっている。従って、向こうが受け入れないと話にならない。だが若き王は君を所望した。つまり幾ら改竄されていたとはいえども条件を無視したあげく面目も潰した」
傍らのカルナが王の言葉を補う。
「加えて少年王は己の口で語りました。王が音子である以上、声使節は必要ありません」
考えてみれば、確かにそうだ。
音子は声を持たない高貴な者達を補佐する役割にある。だが本人達がコエを持っていて自在に操れるのならば、音子を傍に置く必要はない。そこで、ヨルシャはイルノュド王とカルナを見た。この王もコエを持っている。ならば何故、秘書を兼ねているとはいえども国家声使節が傍らにいるのか。
物言いたげなヨルシャの視線の意図をくみ取ってか、フーポーが答える。
「彼は竜族国間でかわされた暗黙の掟まで破ってしまったんだ」
「暗黙の掟?」
眉を顰めた。フーポーの表情に苦笑が滲む。
「これを教えると怒るかも知れないけど、裏取引には二重の意味合いがあるんだ。一つは人間と竜族の間で世界大戦を起こさないため。もう一つは少子化に歯止めを掛けるため」
「早い話が嫁取りだね」
イルノュド王はフーポーの言葉を要約した。
ヨルシャの脳裏に、空を飛んだ夜の会話が過ぎる。竜族に女性はいない。だから子孫を残す場合は、人間の女性と家庭を築くと。動かないヨルシャを見下ろしたまま、カルナは解説を始めた。
「世界的に見ても女性の人口は男性よりも遙かに下回ります。竜族には女性が生まれませんので当然ですが、大昔のように『女狩り』と言うような野蛮な真似をすれば戦争の火種になりかねません」
まだ竜族が人間を家畜同然に扱っていた時代。
全ての人間が支配下に置かれていたわけではなく、人間の王が統治する人間の国も少なからず存在した。最も有名なのは、伝説の北国から来たという、商王ジェカデが統治した砂国である。
砂国王は当時の竜王と親睦も深く、砂漠の平原を挟んだ広大な領土を完全な中立地帯として保った。だが商王ジェカデの直系の子孫が戦乱で途絶え、統治権が移った途端に砂国の秩序は崩壊。最後の砂国王が事故死してまもなく、本格的な第二次世界大戦へ突入。
その後、頻繁に砂国の女性が攫われるという事件が起きている。
誰が攫ったのか、何故攫ったのかなど明白だった。
その時の事件は『女狩り』と呼ばれて忌み嫌われている。
「そこで諸国の神経を逆なでせず、いかに女性を集めるかが竜族国で問題視されました。話し合いの末、和平取引に乗じて女性の歌花や声使節を優先的に受け入れることになったのです」
噂は真実だった。
しかも国家規模の計画だという衝撃が目の前を暗くする。
返す言葉を持たないヨルシャに、フーポーが極めて穏やかな口調で告げた。
「僕ら竜族は人間と違ってコエを失ってはいないんだ。だから本来、歌花も声使節も必要ない。けれど人間達の様に振る舞い、音子であることを隠すのは、種族問題が根深く絡んでいるからだ」
イルノュド王が普通に話せるのは、なんら不思議な話ではなかった。
「少年王は全竜族が音子であることは、かろうじて喋っていない。が、彼の名前で歌花や声使節を定期的に集めることは出来なくなった。さぞサイデラーデの臣下達は頭を抱えているだろうね。我々も気が気でないよ」
深い溜息を零したイルノュド王の方を向く。
「それって人間に対する背信行為じゃ?」
腹の底から沸き上がる激情を、喉の奥で押しとどめる。
「悪意的に取ればそうとも言います。ですが諍い無く友好関係を続けるには最も効率の良い方法です。それとも貴方は、真実を全て打ち明けて彼等の警戒心を呷り、切羽詰まった竜族国に攻め入って欲しいのですか? 大勢の死者を出したいと?」
「な、そんなこと言って無いじゃない!」
すました顔で恐ろしいことを口にするカルナと、真っ向から睨み合う。
玻璃の如き青い瞳に蔑視の色が見える。棘を含んだ言葉に、凍てついた眼差し。無表情という仮面の下に押し殺された感情を悟った。カルナからは、フーポーのような親しみも、イルノュド王の様な気安さも感じない。感じるのは明確な敵意のみ。
「結果的に悲惨な流れになります。秘密の重さを知らぬ小娘が、無責任な抗議をするな」
「カルナ、口が過ぎるぞ」
イルノュド王の一喝に、カルナは全身を振るわせた。感情を覆い隠して、瞼を伏せる。
「申し訳有りません。出過ぎた真似を致しました」
変わり身の早さに驚いていると、イルノュド王が口元に人のいい笑みを浮かべる。
「すまないね。カルナは職務に忠実なんだ。気を悪くしないでくれ。色々数え切れない命や契約だとか立場だとか、難しい問題が絡んでくるので我々は穏便に済ませたい、という事は理解して貰えたかな」
「私どうしたらいいんでしょう。ずっと断っていれば?」
「一番、賢明な行動だが微妙だね。見ての通りルイシア殿はまだ幼く思慮に欠ける」
「ルイシア?」
「シー・ルイシア。第八代サイデラーデ王の御名だよ」
西国は今、不安定だという。
東賢帝と西武帝時代から現在に掛けて、西武帝の支配領から独立、或いは王家血縁から分裂した国家は総じて『西国』と呼ばれている。六カ国の中で西国に類するのが、サイデラーデとジンユエだ。
現在ジンユエ国は内乱を起こしている。内乱は、ヨルシャが思っていたより深刻な影響を周辺諸国に及ぼしているらしい。被害を最も受けるのが、サイデラーデ王の国域のようだ。しかし肝心な時に、新王はまだ幼いと来れば、臣下や国民は気が気ではないだろう。
「裏取引以外にも、ルイシア殿がヨルシャ殿を妻にしたがっている点も問題だ」
「そんなことも問題なんですか」
「そんな事じゃないよ。僕らの命は人より長い。サイデラーデ王はまだ少年だ。子供が成せる歳でもない。万が一、君が嫁いだりしたら……意味は、分かるよね」
イルノュド王とフーポーに言われて、あの少年王に嫁いだ場合を考えてみた。
毎日、暴慢な態度で遊ぼうとか言われたら、繊細な堪忍袋はすぐ切れてしまいそうだ。
ところが想像は甘かったらしい。再びカルナが口を開く。
「貴重な女性を飼い殺しにする事になるでしょう。或いは見かねた家臣達に娼婦のような扱いを受けるか。基本的に竜族は生涯に一人しか妻を娶りませんし、少年王が御子を持つことは難しくもなるでしょう。ただでさえ不安定な国家ですから、世継ぎがいない場合は益々国家は荒れる可能性がありますね」
今度はフーポーが頭を抱えた。
「カルナ、言葉を選んでくれないか」
「選んでいます。この娘が分かりやすいように事実を述べたまでです。少々露骨ですが」
娼婦として飼い殺される、という言葉に背筋が凍った。
洒落にもならない。
一位にならなかったのは幸か不幸か。
置かれた状況を理解して、ヨルシャは青くなった。見窄らしい娘は王子様に見初められて幸せになりました、めでたしめでたし――なんて、夢物語に過ぎないのだという事を思い知る。
「今回の歌花祭には他国がいない。問題を大きくしない内に、片づけないとならないか」
「暫く滞在するんだろう」
面倒だとぼやくイルノュド王に、フーポーが抑揚のない声で訊ねる。
「当然。フーポーにも手伝って貰うからそのつもりで」
「……分かった」
渋々頷く、といった雰囲気に眉を顰める。
いくら白家縁の者で、イルノュド国王や大貴族と幼馴染みであろうとも、怠け者で授業にも出ないフーポーに、何の手伝いが出来るというのか。書類の整理が出来るかどうかも怪しいところだ。
「それとヨルシャ殿。一人の時は充分に注意したまえ。ルイシア殿の臣下に誘拐される、なんて事態は早々起きないだろうが、一位の娘、シエタと言ったかな」
心臓が跳ねた。
今この場にいないとはいえど、事件の当事者はシエタも同じだ。シエタは本来、一位でないと言うが、だとすれば多少不憫に思う。あんなに喜んでいたのに、と舞台上の笑顔が脳裏を過ぎった。
「昨晩カルナに調べさせたが、彼女が例の改竄を指示したようだ。実家も随分あくどい事もやっている家のようだし。ヨルシャ殿に責は無いとはいえど、横から金蔓を奪ったと思われても無理はない。逆恨みされる可能性も否定できない」
シエタに恨まれる。
刹那、鉛が心臓にぶら下がった様な感覚が生まれた。
シリイ地区にあるシエタの実家、聖女祭で賛美される聖女ルウシュの恩恵を受けて栄えた大富豪の娘、さぞ家の者は音子として生まれたシエタに期待を寄せていたことだろう。
改竄されていた偽りの栄光でも、シエタはサイデラーデに迎えられるはずだった。
不本意ながらもヨルシャは、それを阻んだのだから。
「大丈夫?」
「あ、うん。平気だと、思う」
呆けていたのか、向かいにいたフーポーが傍らに来ていた。
「イルノュド王の手伝いがあるから傍にいてやれないんだけど、何かあったらすぐに報告してくれれば対処するから。カルナ、ヨルシャの連絡は正確に通して欲しい」
「分かりました。この度の問題はここまでにしまして。個人的に遙かに重大と感じていることに関して、一言よろしいでしょうか」
今よりも更に重大な話とは何なのか。ヨルシャは身構えた。
まさかイルノュド四大公家縁の者を師匠としたことか、それとも叩いたり殴ったり暴言を吐いた事だろうか、と『重大なこと』に心当たりがありすぎる。ところがカルナはヨルシャを見ていなかった。隣のフーポーを怖いほど睨んでいた。
カルナは手元から一枚の用紙を取り出す。
「それでは――現代文四十九点、手話百点、数学十六点、科学三十九点、地理学百点、国史九十一点、家庭科五十五点、体育五十点」
紛れもなく今学期の成績表だ。カルナは清々しく微笑む。
「これについて弁明はございますか」
「……今回の赤点は数学だけで」
ぱぁん! といっそ小気味が良いほどの音を立てて成績表が机に叩きつけられた。
成績表に記された名前は『パイ・フーポー』だ。
隣の本人は、借りてきた猫のように縮こまっていた。逆にカルナの顔は憤怒で赤い。
「今回も、です。何故基本五科目が悪いんです。情けないとは思われないのですか。特定の分野は成績優秀なのに、どうして毎回毎回こんな悲惨な成績が取れるんですか」
確かに四大公爵家縁の者が、数学の十六点や科学の三十九点はいただけない。
「取ったものは仕方ない」
あっぱれな居直りぶりに感心してしまう。
打って変わって情けない雰囲気にヨルシャは呆気にとられた。口論はまだ続く。
「結果論じゃありません。いくら入学を続けているとはいえ、毎年二度、恐怖の成績表を受け取る我々の身にもなって下さい。文武両道が望ましい御方がなんと情けない。せめて学業成績ぐらいまともにとってください」
「そうは言ってもほとんど出てないし」
考えても見れば、フーポーは殆ど授業に出ていない。悲惨な成績も何故か頷けた。
しかし、やっぱり見過ごせない。
「あんた少しは勉強しなさいよ」
「ヨルシャまで。あ、でも僕とヨルシャ達は別々に試験受けてるんだし、ヨルシャが試験終わったら、僕に勉強を教えてくれないかな。そうすればいい点がとれると思う」
「却下」
「えー」
「えーじゃないでしょうが」
試験問題を教示しても意味がない。情けない師匠の顎にヨルシャの拳骨が飛んだ。
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