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番外編 牧栄進の憂鬱
5 事件の全容
しおりを挟む新伍は、質素な板張り床の部屋にギュウギュウ押し込まれた面々の顔を、順に眺めた。
桜子、藤高貢、気を失った男、時津、老医師、富乃。
そして口火を切る。
「まず最初に告げておきたいのは、そもそも僕がこの件に関わる発端は、ここ最近、牧男爵家で頻発する失せ物の調べだった、ということです。」
「牧男爵家? 桜子さんの御親類の?」
貢が桜子に視線を向けてから、富乃を見た。
「と、すると、そちらの女中さんは…?」
「牧家の富乃さんです。」
富乃は、自分のことが紹介されたことが分かり、頭を小さく傾げる。
「そして、その牧家の失せ物騒動が結果的に、あの帝都新聞の片隅に掲載された事件へと繋がった、ということなのです。」
新伍の説明に、
「あの……先程、お富さんも何度も口にしていましたが、帝都新聞の事件とは一体何のことですか……?」
桜子が尋ねると、
「覚えていませんか? 今日の午後、樹さんと話したことを。」
「………あぁ、あの?」
どこかの長屋で、立て続けに男が三人死んだという事件。何かの流行り病かもしれないと案じる樹に、新伍が毒殺かもしれないなどと不穏な意見を述べたのだ。
「では、あの男の人が新聞に載っていると、お富乃さんを脅していたのは……」
「えぇ。あの事件のことです。」
「なるほど、随分と奇妙な糸を手繰り寄せたものですね。」
貢が興味深げに、言った。
「どうして、その失せ物騒動とやらが、ここに辿り着くことになったのか、是非お聞かせ願いたい。」
「いいでしょう。」
新伍は、改めて牧家で起こった失せ物騒動の経緯について語った。
「牧家では、ここ2ヶ月ほどの間に、次々と物がなくたっています。初めは食べ物、次に旦那様の履き古した下駄、そして極めつけは、奥様の帯留め。」
「帯留め? それは、ちょっとした事件ですね。」
「他にも桜子さんの小物がいくつか失くなったのですが、そちらは見つかったので、一旦、置いておきましょう。」
口を開きかけた桜子を制するように、新伍が付け足した。
「男爵家なのに、そんなにも物の管理が行き届いていないとは……」
やや苦言じみた言い方をする貢に、新伍は、先程、桜子の伯母や栄進、房から聞き取った話を整理して説明した。
新伍の言葉に、時折、貢が確認のために口を挟む。時津と老医師も、黙って二人の会話に耳を傾けていた。
酩酊した男が富乃を強い口調で詰って、去っていったところまで話が進むと、貢が、「なるほど、状況は分かりました。」と頷いた。
「それで五島さんは、その男を追って、ここに来たんですね。ということは、謎は全て解き明かしたんですか?」
「えぇ。この失せ物騒動自体は、至極単純です。」
新伍は、人差し指を一本、口元でピッと立てる。
「まず、一連の事件の犯人は、一人ではありません。そして犯人の一人は……」
新伍は、その指を立てたまま、くるりと入り口の方を振り返った。
「富乃さん、あなたですよね。」
意外……とは、思わなかった。
房は初めから富乃を疑っていたし、状況的にみても、富乃は十分疑わしい。
動機も、なんとなく想像がつく。
桜子は、鎮静剤で気を失っている男を見た。
「ねぇ、お富さん。もしかして、あの男に………?」
富乃の着物の下には、無数の打撲痕。
今は、あの時より、ゆるりと着付けているから、よく見れば、首筋の付け根から胸にかけての肌が赤黒く変色しているのが分かる。
富乃は、青白い顔を左右にきょろきょろ振っていたが、やがて、桜子と目が合うと、観念したように、肩を落とした。
たぶん桜子の表情から、自分を責めているのではなく、本心から心配している、ということが伝わったのだろう。
「………はい、奥様の帯留めを盗ったのは、私です。」
唇を噛み締め、「申し訳ありませんでした」と、頭を下げる。
「やっぱり、あの男に脅されて………?」
富乃は、桜子の言葉を認めると、男のことを語り始めた。
「私があの人と知り合ったのは、ほんの偶然だったんです。」
家のお使いで外に出たときに、道に躓いて転んだ富乃を、通りかかった男が、助け起こしてくれた。
本当に些細なキッカケ。
男は初めの頃、とても優しかった。田舎から出てきた冴えない女中の富乃を、お姫様のように、かわいい、かわいいと持て囃してくれた。
それで、段々と絆されて、付き合うようになった。
関係が徐々に変わっていったのは、一月ほど前のこと。
「遠くに住む妹が、重い病気に罹ったらしいのですが、金がないから助けられないと酷く落ち込んでいて………」
自分も田舎に弟妹がいる。他人事ではない。何とかしてあげたいと思った。
男が言うには、翌月には大きな仕事が決まっている。纏まった金が入るアテはあるが、それでは間に合わない。当座の間だけ凌げれば何とかなるというが、富乃のこれまで貯めた給金だけでは、男の望む額には、とても足りない。
「もともと私の給金は、旦那様にお願いして、ほとんど田舎の家族に送ってもらっていますから……。」
自分の手元に入るのは、ほんの小遣い程度。
何とかしてやらなければと焦り始めた時、奥様の帯留めが目に入った。
「誰もいなかったので、思わず……」
「どんな事情があろうと、それは使用人としては許されませんよ。」
冷水をピシャリと浴びせるような言葉を放ったのは、時津だった。
「申し訳ありません……」
富乃も、その罪は重々承知しているのだろう。項垂れて謝ったのだが、
「でも………質屋に入れても、翌月には金が入って買い戻せるはずだっだんです。」
時津が、呆れたように問い返す。
「そんな約束、本当に果たされると思ったんですか? この手の男が、そんなの守るはずはないでしょう。」
時津も湖城に来る前は、長いこと貧民窟にいた。有象無象のならず者たちを相手にしてきたのだ。
「それでも、富乃さんは信じたのでしょう?」
桜子が、あまり富乃を責めないでほしいと、時津を諌めた。
だって、桜子だったら、どうだろう。たぶん、好いている人が困っていると言われたら、信じるだろうし、何とか力になってやりたいと思うはずだから。
だが、時津の言う通り、世間はそう甘くない。
「何度も返してほしいって、お願いしたんです。私のお給金だけでは、とても質屋から買い戻すことは出来なくて……」
でも、男は嘲笑うように言ったーーーお前が勝手に売ったんだろう、と。
質屋も、売りに来た富乃のことしか知らない。富乃が勝手に、勤め先の女主人の帯留めを売った。自分はその金を渡されたに過ぎない、と。
病気の妹などいなかったのだ。自分は騙されたのだ、と気づいたときには、もう遅い。
「不満なら、警察に行くか、何なら牧家に洗いざらい話してもいい、と言われました。」
そんなことをされれば、当然、困るのは富乃だ。男は、それをいいことに、もっと金目の物を持って来いと、さらなる脅しを始めた。
「これ以上は、もう無理だからとお願いしているうちに、殴られるようになって………」
男の行為は、どんどん過激になった。
金を返して欲しいと頼みにやってくる富乃の、外から見えないような着物の内を殴るのは、日常茶飯事。
さらには、三週間程前のこと。仲間だという三人の男たちを連れてきて、「自分は、こいつらに借金があるから」と、ニヤニヤ嘲笑った。
「それで、金を持ってこれないなら、せめてコイツらを楽しませろ…と……」
「なんてことッ!!」
想像していた以上の話に、桜子は吐き気がした。足元がふらついて倒れそうになった瞬間、桜子の肩を抱く力強い手。
見上げると、新伍が、桜子の身体を支えていた。
「桜子さん、顔色が悪い。座って休みますか?」
「いえ………」
首を振る桜子。慌てた時津が、ハンカチを出して、「汗が酷いです」と額を拭った。
「お嬢様、私のほうへ………」
新伍から奪い取ろうと伸ばした時津の手を、桜子は押し留めて、「自分で立てます」と、新伍に支えてくれた礼を言う。
「ごめんなさい。あまりに酷い話で……」
だが、桜子は気づいていた。富乃の話に動揺しているのは自分だけで、その場にいた男たちは皆、全く驚いてなどいないということに。
「……大丈夫です。先を続けてください。」
桜子が落ち着いたのを見届けて、新伍が富乃に、続きを促す。
「貴女が、止むに止まれぬ事情で、帯留めを盗ったのは分かりました。ですが、貴女が盗ったのは、帯留めだけではありませんよね?」
「………え?」
虚を突かれたように、目をパチパチとさせる富乃。
「僕の考えが正しければ、食べ物を盗っていたのも、富乃さんだ。」
新伍が、「そうでしょう?」と尋ねると、富乃も、「あぁ。」と目をパチリと見開いた。
「房さんが、言っていました。いつも貴女と二人で見張っていたのに、犯人の姿形も分からなかったと。いくら賢い鳥や獣でも、さすがに大の大人二人が見張っているのに、尻尾さえ掴ませないというのは、ちょっと考えにくい。見張っていた人間のどちらかが犯人であると考えた方が自然です。」
富乃は、この件については、さほど深刻にはとらえていないらしい。
「そうです。私です。盗った……というか、ちょっと頂いただけですが……。」
「それもまた、自分のためではないのでしょう? 他の者に与えるためで。」
「え……えぇ、まぁ。」
「だから富乃さんは、履物を盗った犯人も、ご存知ですよね?」
富乃は今度は、もっとわかりやすく、「あぁ!」と声を上げた。
「旦那様の履きもの! やっぱり、犯人はあの子なんですね!!」
そうじゃないかと疑っていたんですと、どこか晴れやかな顔で応じる富乃。
「えぇ、そうです。犯人……という表現が相応しいのかは、やや疑問ですが。」
「あの………」
桜子が口を挟んだ。
「履物を盗った犯人……は、誰なんですか?」
尋ねながらも、桜子にも、その犯人の姿が薄々分かっていた。
富乃が食べ物を与えるような物で、かつ、使い古しの履物が好きそうな者。
「もしかして、その犯人って、犬……とか、ネコ……とか?」
「おそらく、犬でしょう。庭の足跡はさすがに風化して消えていましたが、縁の下は、まだ、かろうじて足跡が確認できました。」
「あぁ、そうだったんですね。」
富乃が納得したように頷いた。
「どこから入り込んだのか、少し前から屋敷の中で見かけていたんです。」
それで追い出して、代わりに裏門で餌をやるようになった。
「と言っても、お勝手から、ほんの少しだけいただいて……」
大した量ではないから、いいだろうと思っていたら、ある日、房が気が付いた。
「その時に、きちんと話せばよかったのですが……」
同時に、旦那様の履物がなくなっていることが分かり、犯人があの犬ではないかと思うと、餌付けしていた手前、言い出しにくくなってしまった。
「それで、そのままズルズルと……」
良くないこととは思いながらも、期待してやってくる犬が気の毒で、黙って餌をあげていた。
そう言った瞬間、時津がまた、盛大なため息をついた。
「黙ってそんなことをするなんて………先ほどの帯留めといい、貴女には使用人としての心構えが欠如している。なぜ一言相談しなかったんですか?」
時津は、こめかみをコツコツと指で忙しなく叩いた。かなり苛ついているらしい。
「いや、貴女個人というより、牧家の教育の問題でしょうか?」
「そんなッ!! 牧家の皆さんは悪くありません。親切な良い方ばかりです!!」
強く言い返す富乃。
時津は責めるが、富乃の事情も分からなくはない。
牧家には、時津のように家政を取り纏める立場の人間がいない。二人の女中に、雑用をする下男。数少ない使用人の管理は、直接、牧男爵が行っているはずだ。
だから、例えばイツが時津を頼りにするように、富乃にとって何かと頼りにできる相手というのがいないのだ。
しかし今は、湖城家にも時津がいない。
そう考えると、やはり時津の不在は、とても心許ないことのように思えた。
「まぁ、牧家の使用人教育については、この際、一旦、置いておきましょう。」
新伍が二人の間に入り、話を戻した。
「それで、貴女が餌を与えていた、その犬が、貴女を助けてくれた犬ですか?」
新伍の言葉に、富乃は、今度は驚いて目を見張った。
「そ……そうです。男たちに囲まれ、暴行を受けそうになった時、確かに、その犬が現れて、助けてくれたんです。」
いつも餌をくれる富乃への恩返しだったのだろうか。男たちに次々噛みつき、追い払った。おかげで、富乃は無事だったのだが……
「どうして、そのことを……? まだお話していなませんよね?」
「えぇ。聞いていません。ですが、それが最も辻褄が合うのです。なぜなら、」
新伍は一旦、言葉を切った。それから、大きく息を吐いて、
「その犬が、残るもう一つの事件の犯人でもあるのだから。」
「………は?」
「ですから、その犬が、あの帝都新聞の事件の犯人なんですよ。」
「………どういう…ことでしょう?」
ポカンとする富乃に、
「いいですか、富乃さん。よく聞いてください。」
新伍は、事の重大性を認識させるかのごとく、暗く沈んだ声でゆっくりと告げた。
「貴女を助けた、その犬、狂犬病です。」
「きょう……犬病……?」
富乃は、新伍の言葉の意味するところが分からないのか、ただそのまま繰り返す。
「えぇ、そうです。その噛まれた男たち、次々死んだでしょう? 貴女はそのことで、あの男から責められていたのではないですか? 『お前が毒を盛った』、と。」
だが違う、と新伍は首を横にふった。
「あの男たちは、おそらく、狂犬病ウイルスに冒されて死んだのです。」
狂犬病ーーー名前くらいは桜子でも聞いたことがある。恐ろしい病だ、と。でも、あまり身近ではなかった。時折、どこかの地方で流行ったと聞くくらいで、桜子の周りでは、とんと耳にしたことはない。
「あの……狂犬病というのは……?」
桜子が尋ねると、新伍の代わりに老医師が答えた。
「我々、医師も、そうお目にかかる病気ではない。我が国で狂犬病が確認されたのは、およそ130年前。徳川吉宗公の時代に、長崎を通じて入って来た犬から持ち込まれた、と考えられておる。」
長崎から九州、そして備前へと。主に西側から広がっていった。
「だが近頃は、あちこちの港が開かれ、異国の洋犬が渡ってくる。そういう犬の中に、ウイルスを持ったものがいるのじゃろう。」
老医師の言葉に、貢も頷く。
「水際で止められれば良いのですが、なかなか、そうもいかないようです。」
「狂犬病の特徴は、感覚麻痺、痙攣などの神経症状。初めのうちは、発熱や局所痛くらいだが、進行すると幻覚や幻聴、錯乱などの症状が現れる。」
男は呂律が回らず、話しながら涎を垂らしていたという。あれが麻痺によるものだとすると、医師の説明する症状は、紛れもなく、あの男の様子そのものだ。
「そして、最も特徴的なのはーーー」
医師は言葉を切って、床を見る。そこには、先程、桜子が隣家から貰ってきた水の入った椀。
「狂犬病患者は、水を怖がる。」
「水を?!」
「左様。水の入った椀を近づけると、苦しそうに喉を掻くのだ。」
「だから、新伍さんは水を持って来い、と?」
あの時、水を怖がる男を見て、新伍と貢で、「決まりだな」と頷きあった。
新伍だけでなく、貢も分かっていたのだ。最初から。
「だが狂犬病は、症状を確定しても無駄なのだ。」
「駄目? 何が駄目なのですか?」
「狂犬病は、一度発症したら、絶対に助からない。医師でも助けられないのだ。絶対に。」
「そんな……では、その人は………?」
医師が無念そうな顔で首を横に振るのと、富乃が、「ヒッ…」と、短い悲鳴をあげたのが、ほぼ同時だった。
落ち着きを取り戻していたはずの富乃が、また顔面蒼白になり、ガタガタと震えだした。
「お富さん、どうされましたかっ?」
慌てて駆け寄る桜子。富乃は、腰を抜かしたように、床にペタンと座り込む。
その様を見ていた新伍が言った。
「やはり、そうですか……」
そして、一歩ずつ近づきながら、尋ねる。
「富乃さん。その指の傷、いつからですか?」
桜子は、ハッとした。
富乃が髪に触れた時に気になった、あの白い包帯。
富乃は反射的に、右手を身体の後ろに隠そうとした。その一瞬を捉えた新伍が、腕を掴んだ。
「隠しても、何も解決はしません。」
「あ……あの、いえ………」
「いいですか、富乃さん。貴女はいい加減、学ぶ必要がある。」
新伍が、掴んだ腕を、ぐっと前方に引いた。
「物事は、その場しのぎで取り繕っても、たいてい上手くはいかないものだ……ということを。」
皆の前に、富乃の手が晒される。
その指先で、白い包帯の結び口が、ひらひらと揺れていた。
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