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第一幕 事件
8 悩ましき婚約者たち1
しおりを挟む夕暮れの街を、新伍と肩を並べて歩く。
藤高の家で借りた行燈が、薄墨色の街で、ぼんやりとした光を灯している。
「あの恋文のこと、藤高さんに告げないといけなかったのですか?」
言外に、「言わないでほしかった」という思いを滲ませながら尋ねた。
「東堂さんに話したのと同じ言い訳は、藤高少尉には信じてもらえないでしょう。」
「それは、そうかもしれませんが……」
だからといって、恋文のことを正直に話す必要があったのか、と思う。
「少尉のお父上の藤高中将は、力のある方です。藤高少尉も、癖は強いが切れ者だ。まぁ……桜子さんはあまり好きではないようですが。」
「はい。好きではありません。」
「はは。即答ですね。」
新伍が可笑しそうに苦笑い。
「だって、あの人ってば、人を戦利品みたいに考えているじゃないですか。」
家から家へと渡される、贈答品。
政略結婚なら、情を求めるのは間違っていることくらい、理解しいる。それでも、限度というものがある。一人の人として、関心を持つつもりがない、と言われているようなものだ。
「私、あの方のところには、絶対に嫁ぎませんよ。絶っ対に!!」
どんなに策を弄されようと、外堀を埋められようと、断固拒否。あれなら、まだ園枝有朋のほうが、ずっとマシだ。
軽薄な雰囲気はあるが、桜子を丁重に扱ってくれるだろう。
「早速、お父様にお断りしたいと伝えなくては……」
強い決意を胸に、クルリと振り返った途端、それが、目に飛び込んできた。
出しかけた足が、止まる。
「どうしました?」
桜子の変化に気づいた新伍が、声をかけてきた。
「あの……ひと……」
「あの、背の高い男性ですか?女性と腕を組んでいる。」
「えぇ。園枝……有朋さんです。」
そこには、しなだれかかるように腕を組んだ女性に、親しげに顔を寄せる園枝有朋がいた。
甘い顔立ちが、蕩けるように、もっと甘く。近付く唇は、蜜と情事の色を放つ。
「桜子さんの婚約者候補の園枝有朋さんですか?」
「えぇ。」
「一緒にいる方は、随分、濃い化粧をした人ですねぇ。あれは、堅気かなぁ? 芸妓にしては、少し……」
「愛人、でしょうか?」
濃い化粧と、桜子より頭一つ分程、高い背丈。華やかな空気を身に纏った女は、遠目にも目を惹く。
暮れかけた繁華街を睦まじく歩く二人は、誰がどう見ても、普通の関係ではない。少なくとも、桜子が樹兄さんと腕を組んで歩くのとは全然違うということぐらい、桜子にだって、分かる。
「あの人は、有朋さんの愛人……なのでしょうか?」
「まぁ、一般的に言えば、そうでしょうね。」
悲しいわけではない。
ただ、心に冷え冷えとした風が吹いただけ。
何を期待していたんだろう。
仮に園枝だったとしても、藤高同様、政略結婚に過ぎないのに。
園枝、藤高。そして、樹………
父は、3人の候補の中から、桜子の意志で選んでいいと言った。
だから、つい勘違いしてしまったんだ。
自分が愛し、愛される人とーーー大切に想い合えるような関係を築ける人と結婚できるのだ、と。
桜子は、3人の中から、誰かを選ばなければならない。
あの3人の中から、誰かをーーーたとえ、その全員が気が進まない相手であったとしても。
自由に思えた選択肢は、蓋を開けてみたら、酷く不自由だった。
(いいえ。落ち込むことなんて、ないわ。)
どちらにしても、政略結婚なのだから、『どうしても耐えられない人』を選ばなければいいのだ。
それが、選択するということ。
「愛人くらい、大したことじゃありません。」
桜子は、自分に言い聞かせるように言った。
「権力と資産のある男性は、皆持つものだ、と聞いています。」
むしろ、妾を囲う甲斐性がある、くらいに思えばいい。いや、思わなくてはいけない。
ギュッと両の手の拳を握ると、ふいに、頭を撫でられた。
「無理しなくても、いいんじゃないですか?」
「えっ……?」
新伍は、少しだけ屈んで、目の高さを桜子に合わせ、
「貴女の顔には、愛人は嫌だ、と書いてありますよ。」
「なッ……」
思わず顔をそらす。
「そんなこと………そんなこと、ありません。こういうことに、納得できないほど、私は……子どもではありませんから。」
新伍は「ふっ」と、小さくため息をついた。
「無理に納得しなくていい、と僕は思います。」
新伍は、子どもに諭すような口調と表情で言った。
「貴女が、周りの方からたくさんの愛情を受けて育ってきたことは、見れば分かります。短い期間だけど、湖城の家に居候させてもらって、貴女の周りの人たちが貴女をとても、大切にしているのだ、と感じました。」
一体なにを言いたいのだろう、と首を傾げる桜子に、新伍は、優しく笑いかけた。
「大切に育てられた貴女だから、貴女自身と向き合おうとしない人がーーー人として大切な相手だと考えてくれない人が、嫌だと思うのは、自然なことです。そして、その嫌だと思う気持ちを抑える必要はない、と僕は思います。」
「あ、………」
「人は、誰でも、人として尊重される権利がある、と僕は思うから。」
胸の中から、音が聞こえた。
初めて聞く音だった。
トンッと小気味よく、弾むような。
暮れかけの街に灯り始める灯の明かりが、キラキラと美しく映える。
ーーーこの人は、一体、どんな人生を送ってきたのだろう。
桜子は、目の前の五島新伍という人に、改めて興味を持った。
「あのっ………」
何かを言おうとしたわけでは、ない。ただ、もう少し、話したかった。引き止めたかった。
しかし、新伍は、桜子から離れ、歩き出した。
「さぁ、帰りましょう。直に真っ暗になりますよ。」
「………はい。」
二人の行く先を、行燈が、柔らかな明かりで照らしていた。
◇ ◇ ◇
家につくと、少し焦ったようなイツが出てきた。
「お嬢様、園枝様がいらしています。」
「園枝さま?………まさかっ?!」
だって、つい半刻前に、妖艶な女と腕を絡めて歩くのを見たのだ。
その女と別れたあと、その足でここにやってきたというのでもなければ、こんな時間に来るはずがない。
「本当ですよ。旦那さまも一緒にお待ちです。」
一緒に迎えに出て来た時津が、新伍の行燈を受け取ると、イツに渡して、手入れしておくように命じた。
「お嬢様は、私と一緒に客間へ。五島さんは………どうされますか?」
「僕も、同席して構わないのですか?」
「旦那様から許可は得ています。」
時津は、メガネの位置をを鼻に押し上げるようにしてなおすと、少し低い声で、
「例の件もありますので、重々、よろしく頼むと、旦那さまからの伝言です。」
園枝は、桜子への手紙の中で、名指しで結婚を反対された相手だ。警戒するに越したことはない、ということだろうか。
桜子の少し後ろに新伍がついて、部屋にはいる。
「桜子さん、またお会いできましたね。」
園枝は、薔薇色の頬を緩ませ、耽美に微笑んだ。
さっき夜の街で見かけた色気は、欠片さえも感じさせず、ただただ、華やかな笑みを浮かべている。
先日は、洗練されていて素敵だと感じた甘い顔が、今夜は妙に胃にもたれる気がする。
園枝は、スッと桜子の手を取って、西欧風に軽く口づけをした。
ついさっきまで女の腰に回していたと思うと、反射的に強く引いてしまいそうになったが、グッとこらえて、ほほえみ返す。
「園枝さま、私も……お会いできて光栄です。」
「園枝くん、ついでに紹介したいのだが、いいかね。」
父が、新伍を傍らに呼んだ。
「五島新伍くんだ。三善中将のところの書生だが、いろんなことによく気がつくので、私の仕事を少し手伝ってもらっている。」
「はじめまして。五島新伍です。」
「例の舞踏会には、彼も随行しようと思うのだが、構わないね?」
「えぇ。もちろん、湖城さんのお付とあらば。」
それから新伍に向かって、「よろしく。」と手を差し出した。
新伍の握手を無視した藤高貢とは、対象的に。新伍が、極めて儀礼的にそれに応じた。
「お父様、例の舞踏会とは、なんのことですか?」
「あぁ、それはね……」
全員が席についたところで、改めて園枝が話し始めた。
二週間後に、園枝家が主催の舞踏会が開催されることになり、今日は、湖城と桜子の二人を招待に来たということだ。
「まぁ? 舞踏会ですか? 場所はどちらで?」
「大帝都ホテルです。」
「大帝都ホテル?!」
さすが園枝財閥だ。
大帝都ホテルは、舞踏会場としては、最も格式がたかい。鹿鳴館がなくなって以降、上流貴族や財閥にとっては、ここで舞踏会を開催するのは、一種のステータスだった。
「桜子さんもいらしていただけますね?」
断れるわけがない。
舞踏会は、社交であり、政治であり、商売の場だ。湖城の娘として招待されている以上、行かないという選択肢は、なかった。
「勿論……喜んでお伺いいたします。」
「本当は、私のパートナーとしてご参加いただけたら嬉しいのですが」
柔和に笑い、「少し気が早かったですね。」と、付け添える。
貴公子然と微笑む、その姿。
大人の男性の好意を伴う誘いなど、経験したことがない桜子は、もし、アレを見ていなかったら、もっと舞い上がっていてかもしれない。
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