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第一幕 事件
1 お転婆令嬢と或る書生
しおりを挟む月のない夜。
ガス燈の明かり届かぬ、暗い路地裏。
ため息とともに吐き出された言葉。
「こんな夜更けに、イイトコのお嬢様が何をやっているんでしょう?」
着物の袖に両手を入れた青年の、書生服の上に羽織った外套が、ハラリと揺れる。
たった今、切りっぱなしたような真っ黒い散切り頭が、桜子の行燈にチラチラと照っていた。
「私が…イイトコのお嬢様だ……って、どうして、そう思うのかしら?」
桜子は精一杯の虚勢を張って、尋ねた。
と、青年が、
「まず一つ。」
人差し指を一本立てて、にこやかに笑う。
「その、身なり。一見、ただの小袖のようだが、ほつれ一つない着物は、明らかに、上モノでしょう。」
青年は饒舌に語りながら、「それから二つ目」と、二本目の指を立てた。
ゆっくりと桜子のほうに近づいてくる。
「二つ目は、所作。まっすぐ伸びた綺麗な姿勢と、優美な動きは、訓練された人間のものだ。」
桜子は、不確かな足元をジリジリと確かめながら、後ずさる。
「そして、三っつ目。」
「……まだ、あるのかしら?」
明かりが届かない地面は心許ない。
よろりと後ろ倒しに転びそうになった拍子に、男にスッと手を掴まれた。
青年は、力強く引き寄せられた桜子の手を、あえて誇示するように掲げ、
「白魚のように柔かく、きめ細やかな手は、炊事の労苦を知りません。」
「は……離してくださいっ!」
青年が、飄々とした顔でつかんだ手は、意外と力強く、引き抜こうとしてもびくともしない。
青年が、にやりと笑った。
それが、湖城桜子と謎多き書生の青年との出会いだった。
* * *
遡ること数刻前。
事の発端は、湖城家の邸宅の片隅で起こった。
明治天皇が即位なされ、帝都が江戸から東京へと改められて、早30余年。
西洋文化の急速な流入で、人々の暮らしは、大きく変化している、そんな時代。
湖城財閥を率いる湖城重三郎の邸宅は、その財力を背景に、庶民の家なら数軒は立ち並ぶだろうと思われるほど広大な土地に、瀟洒な洋館を構えていた。
その重三郎の一人娘、桜子が、夕食後に私室に戻る折のことだった。
「ねぇ、イツ?」
桜子は、足を止めて振り返り、馴染みの女中に声をかけた。
「貴女、今日、何かあったのね?」
イツは、桜子より4歳年上。幼い頃から桜子の世話をしてきた姉のような存在だ。
桜子は、女学校から帰宅してからずっと、イツの顔色が、ひどく悪いことが気になっていた。
だから、誰も周りにいなくなったのを見計らって、自分の少し後ろを歩くイツに尋ねたのだ。
「お嬢様……あ、いえ、何でもありません。」
「隠したって無駄よ。イツが、私の側にいるのと同じだけの時間を、私もイツの側で過ごしてきたんだから。」
何でもないから、と首を横に振るイツをなんとか説き伏せて、何があったのかとしつこく聞くと、イツは諦めたように、口を開いた。
「お守りを……失くしたのです。」
「お守り?それって、貴女のお母様がくれた御守り袋のこと?」
「……はい。」
イツは、東北の貧しい水呑み百姓の子で、5番目に産まれたからイツと名付けられたという。5歳のときに、奉公と称して湖城家にやってきたが、早い話は、口減らしだった。
そのイツが、唯一、家から持ってきたもの。それが、母が別れ際にくれたお守りだ。
使い古しの襤褸の着物の切れ端を縫い合わせて、中に御神木の木片が入れられた、手作りのお守り。
5歳のときに家を出されてから、一度も会っていない家族と、イツをつなぐ唯一つのもの。
「そんな大切なものをっ?! いつ失くしたの?」
「それが……わからないのです。旦那様にお使いを頼まれる前までは、確かに懐にあったのですが……」
聞けば、今日の昼間、桜子の父、重三郎に銀座の知り合いのところに届け物を言い付かるまでは、間違いなく、持っていたのだという。
「途中で足が痛くなり、表通りを離れたところの店の陰で、少し下駄を脱いで、休憩をしたので、その時に落としたのかもしれません。」
「そんなっ!! それなら、すぐに探しに……」
くるりと踵を返そうとした桜子の腕を、イツが、掴んで引き止めた。
「もう遅いですから、今晩は……」
「何言ってるの! あれは、貴女にとって大事なものでしょう? すぐに探しにいかなくては。」
すでに外は暗い。こんな時間に、父が女中に外出許可を出すはずはない。
だから、桜子から願い出るのだ。
「時津に一緒に来てもらえば、父さまだって……」
イツが「とんでもないっ!」と、首をブンブン横に振った。
「私の個人的な事情で、時津さんのお手を煩わすようなことは、なりません。」
時津は、湖城家の家令ーーー最近では、執事という言い方をするらしいが、とにかく、父の仕事を補佐し、家事を取り仕切り、使用人たちの取りまとめをする、そういう立場の男だった。
スラリと背が高く、一見、細身だが、護身術の心得がある時津なら、用心棒に最適だろう。
しかし、イツは、
「明日、私が自分で探しに参りますので、桜子さまは、もうお休みください。」
「でも………」
「でも、も何もありません。これ以上は、私が怒られてしまいますから、早く部屋にお戻りください。」
強い力で押され、桜子は、あっという間に自室に押し込められた。
「どうか、ごゆっくりお休みくださいませ。」
イツが、頭を下げて部屋を下がった一刻後。桜子は庭の木を伝って、地面に降り立っていた。
身が軽く、運動も得意な桜子からすれば、抜け出すのは造作ない。
まぁ、普段はやらないけれど。
でも、今は一大事なのだ。
(だれかに、持ってかれたり、捨てられたりしたら、二度と手に入らないものなんだもの。)
確か、蔵に行燈があったはず。そう睨んだ通り、蔵には、外出用の行燈が3つ、きちんと手入れされて置かれていた。
桜子は、その一つを手に取ると、大きな屋敷を飛び出した。
イツの言っていた路地裏はすぐに分かった。家からさほど離れていない繁華街の端の方で。新しく立ったばかりのカフェの看板の横を通った路地の奥。
何屋だかも良くわからない店の前に、古い長椅子が置いてあって、昼間は喧騒から逃れて身体を休めるのにちょうど良いが、夜は明かりがなくて、少し怖い。
桜子は竦みそうな心を励まして、身体をかがめ、暗い足元に行燈の明かりを当た。そのとき、
「そこで何してる?」
驚いて振り返ると、白いシャツの上に小袖を羽織り、下は袴を履いた、所謂、書生姿の青年が、明るい表通りのガス灯の明かりを背に、ゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。
「あぁ、いえ……なんでもありません。」
桜子は立ち上がって、居住まいをただした。服の汚れを払い、背筋を伸ばして相対する。
「なんでも?」
「………」
桜子を上から下まで眺め回した青年は、わざとらしくため息をついた。
「まったく。こんな夜更けに、イイトコのお嬢様が何をやっているんでしょう?」
「私が…イイトコのお嬢様だ……って、どうして、そう思うのかしら?」
青年は、桜子の挑むような質問に、つらつらと自らの推理を展開しながら近づくと、転びかけた桜子の腕を掴んだ。
「はっ……離してくださいっ!!」
思いの外、力が強く、掴まれた手は、いくら引いても、びくともしない。
「家人は、あなたの外出を知ってるんですか?」
「………」
「こんな身なりで、こんな暗がりを一人でウロウロしていたら、襲ってくれと言わんばかりだ。」
「………馬鹿にしないでください。これでも、薙刀は得意です。殿方にも……簡単には負けません。」
「ほう?」
青年は、桜子を掴んでいるのと反対の手の平を桜子に向けて差し出すと、恭しく笑って、頭を下げた。
「では、どうぞ。得意の薙刀で、今すぐ、僕を倒してみせてください。」
「な……っ!?」
倒せと言われても、握られている手はビクともしない。もう片方は行燈を提げていて、地面に置けば自由にはなるが、ここには、薙刀どころか、棒切一つない。
青年は、わざと挑発するようなことを言ったのだ。
この場における桜子の無力を自覚させるために。
桜子が青年の意図を理解したと、分かったのだろう。掴まれた腕の力が緩んだ。
「家まで送りましょう。」
「いえ、結構よ。」
「そういうわけには参りません。」
「結構です。私には、まだやることが………」
青年は、桜子の行燈をさっと奪うと、
「貴女の名前は?」
手を引いて、問答無用で路地裏から表通りへと引っ張っていく。何もかも、男にしてやられている桜子は悔しくなって、
「高圧的に聞かないでください。知らないんですか? 近頃では、男が女を従える時代は、もう旧いって考え方もあるんですよ。貴方も学生なら、西欧の文化を少しは学ばれたら? 名が知りたいなら、貴方から名乗ってください。」
畳み掛けるように言うと、青年は、ピタリと足を止め、くるりと桜子のほうに振り返った。
「西欧の文化がどうとか、僕は、よく知りませんがね、」
青年が掴んでいた桜子の手を、そのまま目の高さまで持ち上げる。
「いいでしょう。僕が先に名乗ります。」
まるで、鹿鳴館でダンスを申し込むかのように。ただの書生には不釣り合いなほど、様になった仕草だった。
「僕の名前は、五島 新伍。」
「五島、新伍……さん?」
「ハイ。三善中将のところでお世話になっています。」
「三善中将?」
それなら、よく知っている。父とは昔からの馴染みで、家にいらしたことも何度かある。口髭を蓄えた、優しい熊のような方だ。
「これで、怪しいものではないと分かっていただけましたか? 湖城のお嬢さま。」
「ッ!?……貴方……」
「どうしました?」
「知ってたのね、私のこと。」
三善中将の家には、何度か父の使いで顔を出したことがある。三善中将の家で書生をしているなら、確かに、桜子のことを見知っていても不思議ではない。
「なぁんだ。それなら、さっきの貴方が滔々と言ってのけた推理とやらも、結局は後付けってことじゃない。」
五島新伍は、すいっと肩をすくめた。
「残念ながら、貴女を見たのは初めてですよ? 湖城さんに、娘がいるという話は聞いたことありますが。」
「え? それなら……どうして、私が湖城の娘だとわかったの?」
新伍は桜子の手を離して、スッと人差し指を立てて、口元に当てた。
「答えは簡単。」
その人差し指を、反対の手の行燈に向ける。
「『波巴に鶴』は、湖城家の家紋ですから。」
指先は、行燈に描かれている家紋を指していた。
「これを持っているのは、湖城家の者。まぁ、借りたという線もなくはないが……流石に湖城が、夜中の女人の一人歩きのために、行燈を貸すとは思えない。必ず護衛をつけるはずです。だから、貴女は自分で行燈を持ち出せる湖城家の関係者。 そうなると、その、明らかな身なりの良さと先程の態度から、貴女は湖城家の一人娘以外に考えられない。」
新伍は、「間違ってますか?」と、微笑んだ。まるで、微塵も間違っているとは思っていない顔で。
「それなら……そこまで分かっているなら、なんで、わざわざ私の名を聞いたのです?」
「あー……」
新伍は、ポリポリと頬をかいて、
「僕は、貴女の名前を聞いたのです。なんでも、当世流行りの西欧風とやらでは、女性を一人の人間として尊重するそうで、湖城家のお嬢様では失礼かと思いまして。」
嘘だ。
たぶん、桜子がさっさと名乗っていたら、こんな回りくどいことを説明せずに、自分は何も知らないフリして、湖城家に連れて行ったに違いない。
桜子があれこれゴネて突っかかったから、わざわざ三善中将の名まで出したのだ。
たぶん青年は、桜子の身分に気づいて、世話になっている三善中将の手前、放って置くことはできないと判断したのだろう。
「さぁ、納得したら、僕に桜子さんを送らせていただけますか?」
「でも、私には、まだ用事が……探さなければならないものがあるのです。知り合いの落とし物で、本当に大事な…」
「その落としものは、桜子さんよりも大事なものですか?」
「え……?」
「その落とした人は、桜子さんの命よりも、失せ物が返ってくるのを喜びますか?」
桜子は、ハッとした。
もし私に何かあっあら……イツは喜ばない。もし、自分の大切なものが戻ってきても、悲しむだろう。怒るだろう。
桜子の表情の変化に気づいたらしい。
「さぁ、帰りましょう。」
桜子は改めて、五島新伍と名乗る書生の顔をマジマジと見た。
聡明そうなのに、どこか、いたずらっ子のような、やんちゃな顔。
その行灯に照らされた笑顔に、何故だか、ほんの僅かな影を感じる。
面白い人だ。
「わかった。」
桜子は、新伍のほうに、一歩踏み出した。
「改めまして、私の名前は、湖城桜子。貴方の推理に免じて、本日は、送ってもらうことにいたします。」
桜子は、新伍の隣に並んで、歩き出した。
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