御簾の向こうの事件帖

里見りんか

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第4章 消失す

4 思わぬ余波

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「お姉様が………懐妊?」

 女御の懐妊ーーーそれは、家の立場を左右するほどに大きな出来事だが、殊、権力欲旺盛な花房資親はなぶさ すけちかにとっては重大な一事であった。

「そうだ。」

 資親は頷いてからすぐに、

「いや、まだ確定はしていない。」

 姉の牡丹は、このところの暑さにバテたのか、食欲少なで、寝て過ごすことが多かったとのだという。
 それで、念のために診察した医師から、内々に知らせが入った。

 懐妊の兆しアリ、と。

 姉が入内して、早8ヶ月。

 帝の寵愛著しいと言われているから、不思議ではないけれど……

「確か、帝には、まだ男御子がいらっしゃらなかったのでは?」
「その通りだ。」

 それが意味することに興奮しているのだろう。資親も鼻息荒く頷いた。

「帝には男御子がいないから、今、東宮には、帝の弟君が立たれている。だが、もし牡丹が男御子を産めば……」

 次の東宮になりうる。

 それは、つまり、花房家が東宮のーーー次期帝の、外戚となるというとことだ。

 だが、吉事は同時に、新たな政敵を作ることにと繋がりかねない。

 だから資親は、懐妊が未確定な現状で、まだ周囲に、このことを知られたくないと考えているのだろう。

「事の成り行き次第で、この先、私はーーー我が家は、ますます政治の中枢に食い込むことになるだろう。」

 資親の血色の良い頬が、いつにも増してギラギラと光って見える。
 その頬をキュッと引き締め、「敵味方をしっかりと見極め、用心せねばならぬな。」と言うと、土筆を見て、

「場合によっては、お前の力を借りるかもしれぬ。心積もりをしておいて欲しい。」

「私の……力ですか?」

 何故、姉の懐妊に、土筆の力が必要なのか。
 嫌な予感がした。

 だが、資親は、そんな土筆の心情など気にもとめずに、

「宮中は伏魔殿。敵味方が入り乱れ、しかも、しばしば入れ替る。御子を懐妊した牡丹に、万が一のことはあっては、ならん。」

「それは分かりますが、私に出来ることなど………。」

「いざとなったら、お前にも後宮に入ってもらうつもりだ。」

「…………は?」

 土筆は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 ついに父が権力を欲するあまり、妹の自分まで入内させようというのか。

 姉のように?

 まさか、自分が、あの牡丹と同じところになど、並び立てるはずがない。買いかぶりもいいところだ。

 土筆の戸惑いを察した父が、「何も女御として行けと言っているわけではない」と、慌てて否定した。

「牡丹の侍女か……まあ可能なら、更衣こうい尚侍ないしのかみあたりで潜り込めればいいのだが……。」

「え? 更衣か……何ですって?」

「あ……いや。ともかく、近くについて、姉に危険が及ばぬように見守ってくれればいいのだ。」

 いくら何でも大げさではないか。
 そこまでする必要があるのか……という気がしなくもないが、現実、姉以外にも女御はいて、いずれも、我が家と同格か、我が家よりも高い身分の家の娘だ。

 牡丹が懐妊したことで、嫉妬や権力闘争に巻き込まれ、危険が及ぶ可能性は否定できない。

「お前は、聡い。」

 父は、かつて無いほどハッキリと、土筆にそう告げた。

「世間では、変わり者などと思われているし、まあ実際、私もお前のことを、姫としては変わり者だと思っているが、しかし、それでも私は、お前がある種、秀でた能力を有していることも十分に理解している。」

「えぇっと……それは、褒め言葉でしょうか?」

 随分と余分な言葉が挟まっていた気がするが……。

「もちろんだ。お前の能力を買っているのだから、力を貸してほしいのだ。」

 そこまで強く言いきられたら、土筆とて断りづらい。姉の侍女なら、そう気を張ることもないだろう。分かりました、と返事をしようとしたところで、資親が呟いた。

「時峰殿には、少し悪いがな……」

「時峰さま? なぜ、時峰さまの名が、ここで出てくるのですか?」

 キョトンと問う土筆に、資親は、「何を言っているんだ。」と、呆れ顔で言う。

「宮中に出仕するとなれば、お前たちを結婚させるわけにはいかんだろう?」

「と…時峰さまと、け………結婚ですか?」

 突然出てきた単語に、土筆は少なからず動揺した。

「…な……なッ……なんで、今、結婚の話が出るのですか?!」

 吃りながら問う土筆に、資親は、「何を当たり前のことを……」と眉を顰めて、

「もし上手いこと事が運んで、更衣や内侍としてねじ込めたとするだろう? そうしたら、お前にも、いつ御上の手がつくとも限らんのだ。結婚など、させられるわけなかろうが。」

 と、当然の如く言い放つ。

「ちょッ……ちょっと待ってください! 更衣や尚侍?! お姉様付の侍女ですよね? それに、御上の手がつくだなんて……何を仰るんですか? 姉上が女御でいらっしゃるのに!!」

「侍女か、更衣か尚侍あたりと言っただろう?」

「そう……ですが、いえ、しかし………」

 姉の世話をする侍女と、御上の世話をする女官である更衣や尚侍では、全く話が変わってくる。

 いや、そもそも、仮に更衣だろうが内侍だろうが、あくまで姉を助けるための便宜上のこと。御上とどうこうなるとか、そういう次元の話ではないはずだ。
 それなのに父は、まるで、そうなったほうが望ましいかの様に言う。

「お父様は、姉妹で寵を競えとおっしゃるのですか?」

 すると、父は平然と、「それに、何か問題があるのか?」と首をかしげる。

「歴史を紐解いても、そういう事例はいくらでもある。」
「それは、そうかもしれませんが……」

 そうだ。こういう父だった。
 しかし、だからといって、土筆の方とて、それを受け入れるわけにはいかない。

 明らかに嫌がる土筆の心情を察したのであろう資親は、不思議そうに、

「何をそんなに躊躇う? では、時峰殿と結婚するつもりがあるのか? する気があるなら、今すぐしろ。」

 と、強い調子で詰問した。

「これまで、お前たちには十分な時間があった。普通ならあり得ないことだが、婚約もしていない時峰殿が、白昼堂々ここに訪問するのも見逃してきた。それもこれも全て、近衛中将たる藤原時峰殿が、お前を貰ってくれると思ったからだ。」

 それが、いつまで経っても一向に何ともならん……と、気付いたときには、何故か、土筆が怒られていた。

「いえ…あの、でも………」

 確かに現状、時峰は花房家において、何だが良くわからない存在だった。普通、いくら友人として仲が良いと言っても、婚姻関係のない男女が、こんなに頻繁に会ったりはしない。
 その辺を有耶無耶に、力技で、土筆の元に通う権利を既成事実化してしまったのが、時峰だった。

 そして土筆も、そのことに大きな抵抗を示さなかった。

 そう思うと、このハッキリしないこの関係を、土筆も、どう抗弁するべきなのか分からない。

 いや、分からなくて当然。

 なぜなら、土筆自身が、時峰のことをどう思っているのか、時峰とどうなりたいのか、きちんと自覚していないのだから。

 そこに、

「ちょ……ちょっと待ってください、旦那さま。」

 割って入ったのは、タマだった。

「お話を聞いてると、まるで土筆さまに、時峰さまとは進展しそうにないから、そっちを切り捨てて、新たなご縁……しかも、よりによって、御上とくっつけと言っているようではありませんか?」

 言っている……というより、事実、言っているのだ。だから、資親もタマの言葉を否定しない。

 タマは続けざまに、

「それは、あんまりではないですかっ?!」

 と、目を吊り上げて、訴えかける。

「考えてもみてください。土筆さまは、これまで男女の色事や駆け引きなど、全く無縁だったのですよ! それどころか、殿方に強い関心を示したことすらないのです。けれど今、土筆さまと時峰さまは、ゆっくりではありますが、確かな交流を育んでおります。時間をかけて互いのことを分かり合っている最中なのです。」

 タマは、切々と語ると、

「決して、旦那さまがお考えのように、無為に時を浪費しているわけではありません!!」

 と息巻いた。かと思うと、資親と土筆の顔を交互に見て、

「だいたい、帝には女御以外にも多数の方がいらっしゃるではないですか?! 後宮にあがれば、牡丹様だけでなく、他の数多の女御や更衣たちとも競わねばなりません! 旦那さまは、そんなことが土筆さまにできるとお思いですか?」

 確かに、タマの言う通りで、煌びやかな女たちの中で、土筆が格別、御上の気を惹くなど、とても出来そうになかった。
 容姿や能力上の問題だけではない。そもそも土筆には、その気概がないのだ。

 タマには、そのことが良くわかっている。

「その点、時峰さまは、本当に、本ッ当に土筆さまのことを想ってくださるんですよ! 土筆さまの良いところを……土筆さまの誰より優れたところを、理解し、愛おしんでくださっているんです。土筆さまも、そんな時峰さまのことを、時峰さまの気持ちを、少しずつ受け入れ始めています!! なのに…それなのに………」

 タマの声は今にもは泣きそうだった。
 土筆も絆され、思わずホロリと涙が零れそうになったが、

「まかり間違って、御上の一時の惑いでなさけを頂いたとしても、4番、5番や……それ以下の女として寵を競い合うより、一番大切にしてくださる時峰さまと添うほうが、絶対に幸せです!」

 に、出かけた涙は引っ込んだ。

「お………おい、いくらなんでも4番、5番やそれ以下と決めつける事はないじゃないか……」

 タマの勢いに驚き、押されてタジタジになっている資親は、辛うじて、そう返すと、逃げるように土筆に話を振った。

「そこまで言うなら、肝心のお前は、どうなんだ?」

「私……ですか?」

「そうだ。お前自身はどう思ってるんだ? 姉の牡丹のように、出仕したいとは思わないのか? 後宮務めは嫌なのか?」

 父に水を向けられた土筆は、反射的に答えた。

「い……嫌です。」

 即答だった。
 土筆にとっては珍しいことだが、頭で考えるより先に、言葉が外に零れ出ていた。

 言葉が出てから、後追いのように、その意味を考える。

 どうして、嫌だと思ったのだろう。
 どうして、咄嗟に反応したのだろう。

 すると、見えてくるものがある。

 それまで自分が心の奥底で感じていたとしても、人に言われるまで、ほとんど分からなかったこと。
 人に言われて初めて、「あぁ、そうだったんだ。」と気づく。

 それが今の土筆にとっては、さっき、タマが語ったことだった。

 時峰の、土筆を想う気持ちーーーそれは、あまりに不慣れで確信がなかったけれど、土筆も薄々感じていたことだ。時峰は、誂っているのではなく、土筆に正直に接してくれているのかもしれない、と。

 それよりも、問題は土筆の気持ちの方だった。

 タマが言った。

ーーー土筆さまも、そんな時峰さまのことを、時峰さまの気持ちを、少しずつ受け入れ始めています。

 この言葉を聞いた時、土筆はハッとした。

 そうか。自分は、時峰の気持ちを受け入れ始めていたんだ、と知ったのだ。

 この気持ちが、恋しさと呼べるのか、土筆にはまだ確信がない。

 けれど、後宮に入れと言われた時に、土筆の頭に浮かぶのは、時峰の顔。
 あの美しい顔は、決して澄ましてばかりいるわけじゃない。時に愉しそうに、時に得意げに、そして、時には、土筆の身を案じるように……表情豊かに変わるのだ。

 今、これだけは迷いなく言える。

 土筆は一度目を閉じてから、ゆっくり見開いて言った。

「私は、女御や更衣や……その他の宮中の女官になりたいとは思いません。」

 嫁ぐなら、帝の元じゃない。
 嫁ぐなら……ーーー

 土筆の宣言に、探るような父の目。
 何か問いたいに違いないが、父は、

「………そうか。」

 少し渋い顔をしただけだった。
 それ以上、聞くこともなく。

「わかった。」

 父の旺盛な権力欲に水を差したのは申し訳ないと思う。だが、こういう場面において、父は土筆の意思を尊重するであろうことも、分かっていた。

「二人がそこまで言うのなら、女官としての出仕は諦めよう。だが、もしもの時は、姉の侍女として参内してくれるか?」

「それくらいなら……」

 土筆とて、姉は心配だ。
 協力したくないわけではない。

 それで土筆が、「分かりました」と了承すると、父は頭を垂れて、大きなため息をついた。………かと思うと、一転、表を上げて、

「まぁ……考えてみれば、牡丹の侍女というのも悪くはない。」

 と、にこやかに言った。

「せっかく参内するのなら、宮中の女房たちの間で流行の日記とやらを、お前も2、3書いてみればどうだ? 話題になって、お前に注目が集まれば、御上の関心も……」

 やはり花房資親は、どう転んでも、呆れるほどに花房資親だった。

「お父様……?!」
「旦那様………」

 土筆とタマが二人して睨んでいるのに気づくと、父は慌てて咳払いして、

「あ、いや……御上の関心も、ますます牡丹に向くだろう……と言いたかったんだ。」

 と、言い訳めいて言ったのだった。
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