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8、番外編(年齢、時列ばらばら)
8-4-03.八千代19歳、菊華24歳─初夏③
しおりを挟む前置きをして言ったのは、八千代も乗り気ではない話だからだ。
「なぁに? 改まって。大事なこと?」
「……まぁ、それなりに」
「うん?」
「父さんが学生支援のNPO法人の役員なんだ。再来年に新しく留学支援もするらしい」
八千代の父・武史は天涯孤独で苦学生だったのだと八千代は聞いていた。それで学生支援の法人の役員に籍を置いて同じ境遇の苦学生を助けているのだ。
先日に、武史から留学支援プログラムのテスト及びモデルケースとして、ひと月留学に行ってほしいと頼まれた。命令でないが、父親からの頼みだけに断りにくい。――そう、菊華に話した。
「親と離れて生活するのは、いい経験になるとは思っているんだ……けど」
八千代はじっと菊華を見つめてから、視線を落とした。一言、待っていろと言えばいい。それとも、女々しく行きたくないとでも言うか? ――それはない。
八千代には将来の夢がある。菊華のためであり、自分のためである将来にプラスになる経験なら、貪欲に経験を積む。そうして大人の世界へ入ってもいい準備をするのだ。
とは思うもの、やはり、ひと月は離れ難い。一時の感情や感傷だと頭では理解しているのだが。菊華に甘えて依存している証拠だ。
目を大きく開けた菊華は、静かにまぶたを伏せた。手をぎゅっと握って、口もきゅっと結んでいる。
「……菊華」
「いつ行くの?」
待っていてほしい――この八千代の言葉は、つとめて明るい菊華の声に遮られた。
「私も留学してみたかったんだよ。今からでも遅くないだろうけど、やっぱり仕事を辞めなきゃってなるのはもったいないし、やっぱり学生のうちに行くのがいいよ! それに絶対にプラスになることが多いから」
表情だって明るい。行くなと泣かれるかと思ったのに。
「菊華」
「大丈夫! 一ヶ月なんてあっという間だよ」
〈行くまでの期間があっという間〉だと言わなかったのは、離れている期間を考えているからだ。
「楽しかった一日の終わりにごめん」
「なぁに言っているの、やっくん! 一日の終わりにいいニュースを聞かせてもらったんだよ」
泣きそうな顔で、ぎゅっと手を握ってきた菊華の手が冷たい。それなのに声は明るい。ちぐはぐなのは嘘をつくのが下手だからだ。
「力になれることがあったら言ってね。なんでも協力するから」
見えすいた強がりをどう指摘してやろうかと思ったのに八千代は、思い余って菊華を抱きしめた。
「……やっくん」
「まだ返事はしていない」
「やっくんの世界を広げるチャンスだよ?」
菊華の声が震えて濡れている。
素直に泣かれたほうがよかった。泣くのを堪えようとする菊華を見るのが苦しい。強がるなんて反則だ。
それでいて、八千代が行きたいのをわかっているのだ。
「……待たせてばかりだな」
「平気だよ。お別れしちゃうわけじゃないんだし」
ぎゅうっとしがみつく菊華の腕に力が入った。たった一ヶ月離れるのは、ずっと一緒にいるふたりには長い時間だ。八千代が留学するのは少し先の話だけれど。
「体調を崩したのは、話しにくかったせいかもな」
「ストレス?」
「うん。キッカと離れるのはストレスだよ」
「私の運転よりも?」
「……どうかな」
「ひどいなぁ」
笑う菊華は涙を零していた。丁寧に指で拭ってもボロボロ零れてくる。
純粋に胸が苦しくて切なくなるのは、八千代にとって初めての感情だった。年の差を苦々しく思い、嫉妬に駆られることは多々あったのだけれど。
感情を大きく揺すぶるのはただ一人、菊華だけだ。
「夏にドライブ旅行しよう」
「……うん。しようね。私、山や高原がいいな。ペンションに泊まるの……。……一緒に行こうね。約束だよ」
「約束するよ」
菊華は泣きながら器用に微笑んだ。
やっぱりこんなにも菊華は大人だ。八千代を思って背中を押そうとしているのだ。
「やっくん。ひとつ……わがままを言ってもいい?」
「いいよ。なんでも言って」
なんでも叶えてあげたい。できることを尽くしてでも。
しばらくして、ようやく菊華が口を開いた。
「キスの……続きをてして? ……誰よりも近くで」
消え入りそうな言葉は、菊華の精一杯だ。目を伏せて濡れた長いまつげを震わせて、手で口元を隠してしまった。
その手の上から八千代はキスで返事をした。何度も繰り返しくちづければ、そろりと菊華の手が下がっていく。その手を捕らえ、ゆっくりベッドに沈む。
「楽しい国だといいね。人といっぱい出会えて……やっくんの世界が広がるの」
「うん。もう黙って。先のことじゃなくて、俺を見て」
柔和な輪郭を指でなぞる。涙の跡に触れて、瞼に、鼻に、頬にキスをしてキスを返される。くちびるを啄みあって、菊華の好きな遊ぶようなキスを繰り返す。
「……ん、ふぅ」
吐息を零した菊華が、八千代の髪をくしゃくしゃに掻き混ぜ――舌を絡ませ合う。
離れたいんじゃなくて、連れて行きたい。地球のどこに行くことになっても、傍にいてほしい。
おおげさだと、八千代は自分でも思う。それでいて、子供のわがままだとも思う。
精神的に大人になりきれていない部分を八千代は、内心自嘲した。
「やっくん……」
カットソーをめくり、白く柔らかな薄い腹にキスを続ける。キスをしてほしいと言われたから、キスがしたいから。
するりと太腿を撫でて、手をスカートの中へ。その奥のショーツのレースに爪を立てて軽く掻く。
「キス、だったな」
太腿の内側、柔らかな肌に軽く歯を立てた。
「…………っんん」
熱を刻々と溜めている菊華が大きく身震いをして、甘い息を吐く。まだ決定的に鋭敏になっている場所は触れていないのに。
赤く蕩けた顔を隠している菊華は「おねがい」と小さな声を出した。
「そのお願いは叶えてあげるけれど、優しくできないかもしれない」
そう言うと、菊華は羞恥で赤く染まっている顔でコクコク頷いた。
□
シャワーを浴びながら菊華は、先のことを思いながらぐるぐる考えていた。
左の薬指に光るプラチナは、先の約束だけれど、現在の幸せも表しているはずなのだ。
そんなに、早く大人にならないで。
いつか置いていかれてしまう気がした。
「……このままじゃだめ。こんな気持ちのままじゃだめなんだ」
時間は流れているのだから、振り向かずに前ばっかりを見すぎない。一緒にいる今を大切にする。
どうしたらいい?
だけど、これは、依存だ。寄りかかっているだけなのは、八千代の負担になるだけだ。
八千代と共有しない時間もあってこそ、ふたりで過ごす時間が濃密になるのではないだろうか。
「うーん。ひとりの時間かぁ」
車があるのだから、ひとりでドライブをするのもいいかもしれない。八千代が酔わないような運転をこっそり練習するのもいい。
シャワーから上がって、八千代に髪を乾かしてもらいながら、〈名案〉について話した。もちろん、練習はコッソリするのだからそこは伏せて。
「ドライブ旅行に行くまでに車の形が変わるんじゃないか?」
「やだなぁ、やっくん。車は変形しないよ。アニメじゃないんだよ」
男の子はいつまでも夢見がちなんだから! なんて思う菊華が一番夢見がちだ。その先本人が気づくことがあるだろうか。
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