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 夕飯後のひとときを終え、高史は居間に散らばっているプラスチックの電車とミニカー、超合金ロボットを片付ける。すると、将士を寝かしつけた佐知子が二階から降りてきた。時計の針は夜の八時を少しすぎていた。

「あなたが片付けなんて珍しいわね。明日は雨かしら?」

 二歳の孫の相手をしているうちに思い出したのは、子供たちの寝顔と写真に残っている笑顔だけだ。ドラマにあるようなキャッチボールもした記憶もない。父親とはなんだろうか。稼ぎを持って帰るだけが男親ではないはずだ。……そう、今ならわかる。

「たまには片付けくらいするさ」

 瓶を傾けグラスに注いだ薄い金色を口へと運ぶ。薄金の炭酸は適度に喉を刺激して落ちていく。二本目の瓶ビールは、高史をほろ酔いへといざないリラックスさせる。
 よいしょと立ち上がり、キッチンに向かい、グラスともう一本冷えた瓶ビールを持って居間へ戻り、佐知子の隣に座る。

「飲まないか?」
「明日も平日じゃありませんか」

 そう笑う女房は、「幸せだわ」とグラスを傾ける。昼間のやり取りを思い出した高史も笑った。

「おまえの幸せはビールかい?」
「平日昼間にレストランでお昼を食べて、パパと楽しそうに遊んだ将士を見て、こうしてあなたとビールが飲めるのですから、果報者よ」

 佐知子の柔らかな手を取り重ね包むと、昼間の思いがぶり返ってきた。酒の力もあるが、鼓動が速くなってうるさい。誤魔化すように咳払いをしてから、夕食の時に言い淀んだのを聞こうとした。

「さっき、なにか言いかけただろう? なにが言いたかったんだ?」

 上司として部下から悩みごとの相談に乗るのは容易かったのに、相手が女房に代わるだけで相談のきっかけの言葉をかけるのですら、なぜか勇気がいる。夢の中でも。

「お仕事で忙しいのはわかっていますが……」

 佐知子が目を伏せる。長いまつ毛が、ビールでほんのり赤くなった涙袋に影を落としているのが艶めかしい。見とれている場合ではないと、おのれを律する。

(何を隠していて、なにが言いたいのか。もう少しヒントがほしい)

 頬に手を当て、言いにくいことだと仕草で教えている。黙って待っていると、佐知子は袖をもじもじ触ってから、ややあって言いにくそうに口を開いた。

「……仲人の奥さまに……、相談をしたんです。あなたがちっとも帰ってこなくて……お仕事だとはわかっていて、信じているのですけれども……」
「それは、おまえ……」

 浮気や心変わりを心配していた? 穏やかな佐知子が? 見合い結婚だったのに? 燃え上がるような恋愛を経て結婚をしたのではなく、条件で結婚を決めたと思っていたのか?
 浮気を心配するほど、愛しているのか。それとも……。

 高史は、かあっと顔が火照っていくのを自覚した。きっと三十代の朴念仁だったら、全部話してもらわなければ分からなかっただろう。

「仕事だ……と言っても、不安にさせていたんだな」

 高史が土日返上で働いていた時に、将士へのお土産を持った両親が来ていたと考えると、なにか母に言われたのだろう。加奈子がいないなら、孫をせっつかれたのかもしれない。いや、自分の母親なら言いそうだなとため息が出そうになった。

「……悪かった。これからも仕事優先になると思うが」

 真っ直ぐに佐知子を見つめると、若い女房は泣きそうな顔をしていた。泣くほど不安にさせていた。
 昼間に『幸せだわ』と言って流した涙とは真逆の表情だ。
 ジゴロだのなんだのと気にしている場合ではない。真心を込めて本音を打ち明けて、女房の──妻の不安を拭ってやるのは夫だからこそのつとめだ。

「おまえ──佐知子との結婚を決めたのは、おまえの笑顔を見て、一生を共に歩けると思ったからだ。いいや、この先も一生歩いていける」

 佐知子の潤ませた目からポロポロ涙が落ちていく。将士のしつけも家事もひとりきりでしていたのは、高史には想像もできないストレスだ。誰にも家庭の事情が相談できなくて、なにかのきっかけで仲人の山本夫人に話したのかもしれない。
 電話やメールがない時代は、距離と時間が開くと不安で仕方がなかっただろう。呼び出されて面倒だと思ったのは仕事関係でだけだ。

「今日は楽しかった。おまえに幸せだと言われた時はピンと来なかったが、家に帰ってきてよくわかったよ。居心地がいい家庭を作ってくれていたんだな。そんなことにも気がつかなかったよ」

 柔らかく瑞々しい手を取り、片手で涙を拭ってやる。静かにだが、素直に抱きたい。性欲がどうの、子作りがどうのではなく、ひとりの女として。佐知子が愛おしい。

「ごめんなさい。私……、泣くつもりはないんです。嬉しいのに、いやだわ」
「不安にさせて悪かったな」

 幸せか? と安易に答えを求めていた気がかりはすでになく、目の前の佐知子の幸せを願う。幸せにしてやれるのは自分だけだと自信を持って言える。

「佐知子……」

 涙で濡れた頬を手で丁寧に拭うと、濡れたまつ毛がゆっくりと降りていく。
 高史にあるのは、佐知子への愛しさだ。
 その妻の可憐な唇に吸い寄せられ────




  ***




「──……!?」

 突如、強烈な眩しさが高史の視界を真っ白にさせた。ぎゅっと固く閉じたまぶたの裏が暗くなり、そろりと目を開ける。
 目の前には若い佐知子はおらず、高史がいる場所は家でも夜でもなかった。着ているものはパジャマではなく、やや疲れた馴染みあるスーツになっていた。

 あたたかな雰囲気の居間にいたはずが、味気ないデパートの屋上の植え込みのベンチに腰掛けていた。
 急に目覚めた──そんな奇妙な感覚がある。
 あれは一体、何だったのか。なにがなにやらよくわからなくて戸惑うもの、激しく狼狽えるほどではなかった。

(長い白昼夢を見ていたのだろうか? けれど、夢にしてはやけに現実味があった)

 手をしげしげと眺める。働き盛りの力がみなぎるものではなく、年齢相応の瑞々しさがない。可愛い盛りの将士の姿も、若く美しかった妻もすべて都合がいい夢だったのだと、気落ちした。
 ぱたぱたと身体を触るが、今朝と同じく中年のおじさん体型だ。

「ネクタイがない……」

 会社に行っていたのだから、ネクタイをしていたはずだ。そのシャツだけになった胸に手を当てれば、妻へのあたたかい想いが胸の奥底にじんわりと響いている。

(長い白昼夢だったとしても、この想いは本物だ)

 高史は携帯電話を取り出してアドレス帳を眺め──。



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