令和トリップデート

永瀬 史乃

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2020年夏〈惣の場合〉

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——試験時間の管理は私の腕時計で行います。

 アルバイトでこの言葉を言うとき、いつもそう思うのだった。人は皆、違う時間を生きているのではないか、と。

 「今日」とはいつだろう。外国に行けば時差があるし、この世界には「昨日」や「明日」を生きている人だっている。
 確かに標準時というものはあるし、テレビやスマホ、電波時計の時間は概ね正確だ。
 それでも自分の身体の一部のようになってしまったかのような腕時計や、駅の時計、古い時計台等々、時計の多くは昔ながらのアナログ式である。

 自分の腕時計の時間と他人のそれが違うこともある。数分のずれはよくあることだが、たまに大幅なずれが生じることがある。

 だから時計の針を合わせるたびに、俺は個々人は違う時間を生きている、そんな気がする。
 そして、あの人の時計はずっとあの頃で止まったままだった。

       ◇◆◇

 今でも昼下がりは多くの人が待ち合わせ場所として使う、駅の北口のモニュメントは三十年前も変わっていなかった。

 ああ、あの人だ、と一目で分かった。
 人混みの中でも見間違えるはずなんかない。

 さきさんは高いヒールなんか履いて足をしきりに気をしているようだった。
 絆創膏には赤い血が滲んでいるが、替えがなくなったのか替えずに我慢しているようだった。

 俺はコンビニへ急いだ。もちろん絆創膏を買うために。
 きちんと硬貨には「平成××年」と書いてあるのを確認する。間違ってこの時代にないお金を出してしまったら大変だ。

 硬貨は2020年へ旅立つ前に現金派の祖母からもらった「お小遣い」だ。紙幣はだいぶ変わってしまっているため、硬貨で三千円分。まったくもう大学生なのに。
 しかし、俺はすっかりキャッシュレスが浸透した世代だから、小銭なんか使ったのは久しぶりで、何だか外国で買い物をするような気分になる。
 会計には店員さんがいて、絆創膏の小さな箱でも丁寧に小さなポリ袋に入れてくれた。

 俺が会計を終えて北口のモニュメントへ向かうと、咲さんの目の前には柄の悪そうな二人組の男がいる。
 二人の男はいかにも遊び人といった風体で、嫌がる咲さんに話しかけている。

「お待たせ」
 俺は勇気を出して言った。
 咲さんはこちらを見た。近くで見ると可愛い人だった。
 今でも浮世離れした感じの可愛い人だが、誰にでも若い頃はあるんだな、という当たり前のことを思った。

「ごめん、待たせたよね」
 俺は咲さんの隣に立った。
 ハイヒールを履いた咲さんは思ったより小さかった。子供の頃は偉大に見えていたと思うと、自分が成長したと思うほかない。

 俺が来ると、しつこかったナンパ男たちは一目散に逃げていった。
「バイバーイ」
 いつもの調子で茶目っぽく言ってみた。

「足、痛かったでしょう? 肩掴まって」
 俺は絆創膏を手渡す。見栄を張ってちょっと良いやつを買った。
 咲さんはこちらを訝しげを見る。

「使い切っちゃったでしょう? 使って」
 そう言うと、「ありがとうございます」と言って貼った。

「ほら、もうすぐ三時だよ! 映画始まっちゃう」
 俺は咲さんの手を引いた。その手は相変わらず暖かかった。

        *

 映画はテレビで何度も再放送をされている洋画だった。何度も観たことはあるのだが毎度寝落ちしてしまうため、最初から最後まできちんと見れてよかった。

 ただ、内心思ったのはあからさまなラブシーンがなくて良かったということだった。あまりにも長めのそういうシーンがある映画をと観るのは割と気まずい。
 そして、咲さんと映画館にいったのはかなり久しぶりのことだった。

「そういえば、名前なんて言うんですか?」
 咲さんは敬語を使う。
「そういえば言ってなかったね」
 俺は鞄から手帳とペンを取り出し、ページの余白に「物」の下に「心」と書いた。
 今時古風なやり方ではあるが、この時代にはない新しい文明の利器を出すわけにはいかない。混乱してしまうだろう。

そうっていうんだ、俺」
「良い名前ですね」
 咲さんは笑って言った。
「でしょ! 咲さん、次どこ行こうか?」
「何で私の名前知ってるんですか?」
 あ、思わず言ってしまった。

「秘密。あと敬語禁止。だって今の咲さん、俺より年上でしょ?」
 咲さんは四回生だ。今の俺より年上だ。
「何歳なんですか?」
 それでも咲さんは敬語を使ってくる。
「明日でハタチ。ね、年下でしょ? 敬語は無しだよ」
「何で私の名前や歳を知っているの?」
「別にストーカーとかそういうんじゃないから安心して。ねぇ、次どこ行く?」

        *

 他愛のない話は尽きなかった。大学の友達の話、好きなテレビの話、流行っている歌手の話……どれを聞いても面白かった。
 駅前通りに昔ながらの喫茶店を見つけた。喫茶店の店名が昔の洋画の字幕みたいなフォントで書かれている。

「変わらないなぁ、ここも」
 昔っぽい喫茶店なのは昔からなのか。
「よく来るの?」
 咲さんが訊いた。だいぶ打ち解けてきたみたいだった。
「子供の頃、母親と来たんだ。ここのオムレツ美味しくて好きなんだ」
 俺がそう言うと、咲さんは楽しそうに笑ってくれた。

「どれにする? 俺はオムレツね」
 ここのオムレツは母の好物である。まさかまだ食べたことがなかったのか。
「じゃあ私もオムレツにしようかな」
 注文して十五分ほどで黄色いふわふわのオムレツが運ばれてきた。
 懐かしい味はそのままで、すぐにぺろりと食べ終えてしまった。
 食後に咲さんは紅茶、俺はコーヒーを頼んだ。

「惣くんって携帯見ないんだね」
「え?」
「さっきも手帳に書いて見せてくれたし」
「そんなに携帯見るの? 他の人って」
「うん。私いても携帯ばっかり……」
 男の話だろうか。確か昔、酔った叔母から若い頃の母は失恋続きだったと聞いたことがあった。

「好きだったの? そいつのこと」
 俺は咲さんの目を見て言った。その会ったこともない男が許せなかった。
「分からない。でも、私には他にいないから」
 咲さんは目を伏せた。
「ううん、そんなことない。咲さんにはもっと素敵な人がいるよ」
 うちの父さんとかね。親を褒めるのは少し恥ずかしいけど、若い頃の父さんはなかなかイケメンだと思う。今でも小洒落たおじさんだし。
 俺はその父の真似をして上品にコーヒーをすする。

「じゃあ惣くん、私と付き合える?」
 俺は思わず吹き出してしまう。
「え、唐突だねぇ」
 俺は紙ナプキンで口元を拭きながら言った。
「ほら、やっぱり無理でしょう?」
 咲さんは「冗談だよ」と言って誤魔化した。

        *

 喫茶店から出ると、日は翳り始め、茜色の夕日がきれいだった。

「少し歩こうか」
「うん」
 暑さも落ち着いていて過ごしやすい。
「咲さん、俺、今日は楽しかった」
「私もだよ」

 誰もいない通りで俺は咲さんの肩を抱いた。
「わ、私こういうのは……」
 咲さんは動揺した。真面目な彼女は今日初めて会った人とハグをするなんてどうかしていると思ったのだろう。

「もっと早くこうしていればよかった」
 そう言った惣の声は切なげだった。
「なんだか不思議だね。初めて会った気がしないよ、惣ちゃん」

——明日の参観日、来ても良いけど、惣ちゃんなんて絶対友達の前で呼ぶなよ!
——分かったわ、惣ちゃん。
——だからまた惣ちゃんって言った!

 母は参観日には来なかった。その日、母が学校の代わりに行ったのは病院だった。
 あの日から母は少しずつ若返っていった。母から俺や姉貴が消え、父が消え、今では女子大生としての時間を生きている。

「……かあさん」
 消え入るような声で俺は言った。聞こえてしまったらどうしようかと思いつつ。涙なんか出たら恥ずかしいから、込み上げるものをぐっと堪えた。
 ひとしきり時間が経って、俺は咲さんを離した。

「ねぇ、また会える?」
 駅の改札口で咲さんが尋ねた。
「うん、もちろん会えるよ。だからそれまで待っていてね」
 俺は笑って手を振った。
 次に会えるのは十年後だよ、大人になるまで待っていてね、母さん。


       ◇◆◇

「こんにちは」
 ここ数年の顔見知りである看護師さんは、
「あら、今日も来てたの? もう大学生だっけ?」
「はい」
「優しいわね。うちの息子にも見習ってほしいくらいよ」
 俺は受付で名前を書いて病室に連れて行ってもらう。看護師さんの姿こそ変わらないが、で会っていたその人とは違う。

 昔、国際線の入国審査窓口には外国人という意味で「エイリアン」と書いてあったらしい。
 新たに会う人ならまだしも、この世界では見知った家族や長年の友人も知っているような知らない人エイリアンだ。それにもかかわらず皆、俺の事情などいざ知らず元の世界と同じように接してくる。いや、本当の異邦人エイリアンは俺の方なのだろうが。
 こうなることは分かっていたが、毎日ひどい孤独感に襲われそうになる。

「雪平さん、面会のお客さんですよ」
 雪平さん、と呼ばれたガウンを羽織った女性がこちらを振り向いた。
「こんにちは、咲さん」
 俺は椅子に腰掛け、リュックを床に置く。
「どうして私の名前を知っているの? あなたのお名前は?」
「惣だよ」
 手帳に書いてみせる。
「惣くん、良い名前ね」
「そうでしょ。母さんがつけてくれたんだ」
「ふふ、素敵な名前ね」
 相変わらずのいつものやりとり。うんざりすることもあったが、このひとりぼっちの世界で唯一変わらないものらしい。

 この先、いつも、何度も、俺は咲さんに初めて会うのだ。
 2050年の夏、俺は、2020年の夏を生きる咲さんかあさんに「はじめまして」と言った。
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