短編歴史小説集

永瀬 史乃

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札幌薄野花魁奇譚

札幌薄野花魁奇譚

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 明治XX年 小樽→札幌

 ぼくたちは小樽の裕福な造り酒屋の子供として生まれた。
 父は先代の死後、若くして跡を継いだ二代目だった。祖父は福井から北前船きたまえぶねで北海道へ渡ってきたらしい。
 それからまもなくして、許嫁であった母と祝言を挙げた。母も良家の令嬢だった。そのとき写真館で撮影された写真の中の母親はまだ女学生のようだった。
 祝言の翌年に姉が、その二年後にぼくが生まれた。
 ぼくらは紛れもなく望まれてこの世に生を受け、両親の愛情をたっぷりと注がれて成長した。

 小樽での日々は幸福だったが、今思えばそれは嵐の前の静けさのようなものだった。
 ぼくが中学生になる頃、我が家は突然悲劇に襲われた。生来病弱であった父は病に倒れ、まもなく亡くなった。
 母も父の後を追うようにして亡くなった。結核である。

 祖父母は父方、母方ともに亡くなっていたため、ぼくたちは札幌の叔父夫婦のところに引き取られた。
 叔父は父の弟であったが、陽気な父とは似ても似つかない、無口な人だった。聞けば父とは腹違いの兄弟だったらしい。
 夫妻にはぼくらを引き取る前の年に娘が生まれていたが、叔母は産後の肥立ちが悪く寝込みがちだった。従妹の世話をはじめ家のことは、年老いた女中が全て仕切っていた。

 ぼくの父すなわち兄の遺産を相続していた叔父は、きちんとぼくたちを札幌の学校へ通わせてくれた。ぼくはともかく、姉の女学校の成績は頗る良かった。
 しかし、ほどなくして叔母が亡くなると姉は女学校をやめて女中の代わりに家の仕事をするようになった。
 叔父はいつの間にか老女中に暇を出していたのだった。
 姉はいつも背中に幼い従妹を背負って、ぼくが勉強で分からないことがあるときは隣について教えてくれた。赤子の夜泣きで夜もほとんど寝られていないようだったが、姉は誰よりも早く起きて、遅く寝ていた。正直、年配の女中よりもてきぱきと家事をこなしていたと思う。

 ぼくは姉がなぜ女学校を突然退学したのかさっぱり分からなかった。
 そして、叔父の「子供」になって一年が過ぎた頃、僕が学校から帰ると姉はいなくなっていた。
 ぼく何が起きているのか分からずにいたが、二階から従妹の泣き声が聞こえて我に返った。
 ぼくは姉のために手折ったリラの花を持って立ちすくんでいた。リラは姉が好きな花だった。

        *

大正XX年 薄野すすきの遊郭・東京とうきょうろう

 芳子が洗い髪を乾かしていると、女将のたきが少女を連れて二階へ来た。
「芳子さん、私ですよ」
「どうぞ。何のご用かえ?」
「この子の面倒を見てやってもらえないかい」
 芳子はじっくりと少女の身なりを見る。
 長い髪を女学生風に結った娘は、礼儀正しくお辞儀をする。
 大方、没落した商家の娘か何かだろう。
 年は十六、七か。口減らしのために農村から売られてきた田舎娘より、育ちが良さそうな分、教育は楽そうだ。

「名前は」
立花たちばならんです」
「年は」
「十七歳です」
「この子は女学校も行ってたんでその点、他の娘より扱いは楽だと思いますよ」
 芳子は煙草をふかしながらしばし考えて、高らかに言った。
「分かりいした。この娘、もらいんす」
 蘭は美人だけど変な話し方をする人だな、と思った。

「お蘭、ねえさんの言うことはちゃんと聞くんだよ。芳子さんはこの東京楼で一番の姉さんだ。しっかり勉強させてもらうんだよ」
 きつい勾配の階段を降りながら、たきは満足そうに蘭に言った。
「はい」
「お前の器量なら、十八になって鑑札かんさつが下りるようになったら東京楼で、いやこの薄野で一番の娼妓おいらんになれるかもしれないよ。本当に良い買いものをしたもんだ」
「おいらん……?」
「いいね、くれぐれも足抜けなんて考えちゃあ駄目だよ」
「足抜け……?」
「廓から逃げ出すことさ」
「……くるわ?」
 蘭はその刹那気絶した。

        *

「娘が倒れたって? いやあ、無理もないでしょう。深窓のお嬢様だもん」
 一弥は胡坐をかいた。
 未だ若いが、東京楼の楼主なのである。
「突然倒れこんだもんで、あたしゃどうしようかと思ったよ」
 たきは不満そうに続ける。
「女なんて十五、六にもなれば立派な大人だ。いわし御殿だか何とかっていうところのお嬢でもね」
「御殿はにしんです。あの娘は小樽の酒屋の娘だって聞いてますが」
「家業なんて何でもいいよ。まったく廓って聞いただけで倒れるなんて。だからご令嬢ってのは気に入らないんだ」
 たきの愚痴がひとしきり終わると、一弥は思い切って口を開く。

「今は十八からしか娼妓しょうぎの鑑札は下りませんからね。でも、あの子は娼妓にはしません」
「一弥さん?」
 たきの目の色は変わる。
「だからただの娼妓にはしないって」
「何言ってるんだい、正気かい?」
「もちろん。その辺の娼妓じゃなくて、最上級の太夫たゆうにする。母さんもうちの店から道中出したいと思ったりするでしょう?」
「そりゃあ、出したいけれど、お金が」
「あの子なら、紫蘭しらんならできますよ」
「紫蘭……?」
「ええ、気高い紫色の蘭の花で紫蘭」
「紫蘭ってその辺に咲いてるあのことかい?」
「違いますが、少し似ているでしょう? 札幌の太夫にふさわしいと思いませんか」
 一弥は鼻高々に言う。
「紫蘭は私が手元で育てます。江戸の頃の太夫は楼主が直々に育てたそうですし」
 一弥は二年前ほどまで進学のため上京していた。遊郭業は嫌だと散々言って出て行ったはずなのに、級友に連れて行かれた吉原遊郭の格式の高さに心酔し、学業半ばで帰ってきたのである。

「一弥さん。あなた、うちの人から店継いでから、江戸好みが過ぎるような気がしますよ。あたしはあなたのお父さんの後添いであって、あなたの産みの親じゃないし、強く言うつもりはないんだけど」
「ええ。だって江戸は良い時代でしたし」
「あなたは維新の後の生まれだからそう言うけれど。まあ、勝手におし」
 継母は夫の子をいびると言うが、子のいないたきはつい、一弥に甘くなってしまう。

「それと、分かっていると思うけど、楼主と女郎は本気になってはいけないよ。増して水揚げ前に入れあげたりしたら……」
「もちろん、分かっていますって」
 一弥は伸びた襟足を抓んで言った。
「あ、床屋行ってきます。夕食までには帰るので」
「ちょっと、一弥さん、話が途中ですよ」
 たきは、飄々としていて時々突拍子もないことを言う一弥のことが心許なく感じた。

        *

 蘭が目を覚ますと、見覚えのない天井が目に飛び込んできた。

「目が覚めたかい?」
 部屋には若い男がひとり居た。年は二十代半ばほどか。
「怖がらなくていい。ぼくは東京楼の楼主の一弥と言います」
 妙に丁寧な話し方が怖かった。ここに連れて来たカンカン帽の男も親切なふりをして騙していたのだ。親しみやすく思わせるためか時折、ですますを付けないところもあの女衒カンカン帽と同じだ。

「安心しなさい。きみに客は取らせない。鑑札が下りても」
「かんさつ……?」
「この薄野はおかみご公認の廓なんだ。鑑札というのは警察が遊女として働くことを認めること」
「ゆ、遊女? 嫌です!」
 一弥は取り乱す蘭の肩を掴んだ。
「落ちつきなさい!」
「……殺してください」
 蘭は静かに言った。
(帰りたい、じゃなくて殺して、か)
 やもめの養父に売られたとは聞いていたが、相当複雑な事情がありそうだ。
「殺さない。きみはもう東京楼ここの子なんだ」
 売られてきた、とは言わない。そう言えばもっとこの娘は混乱するだろうし、こう言えば守られていると思うだろう。
 一弥は、我ながら 忘八ろうしゅもまた女衒ぜげんと同じ悪い大人だと思った。
 とはいえ、泣きじゃくる少女を前にして八徳すべてを忘れた人でなしにもなりきれない。

「ここでぼくに提案があるんです」
 目の潤んだ娘は若い楼主を見上げた。
「花魁道中に興味はありませんか?」

        *

大正XX年・札幌

 札幌・中島公園を会場として博覧会が開催されることが決まり、近隣の薄野遊郭は白石村への移転を余儀なくされた。

 移転を前に、最後の花魁道中が決まった。
 花魁が小樽の名家の生まれで、二十歳という若さだったことも話題になった。ぼくは級友に誘われたが、試験が近かったため断っていた。

「花魁道中、良かったぞ。並みの祭りより賑わっていたね、あれは」
「ふうん」
「札幌新聞の取材も来ていたんだからな。記者が花魁に、花魁道中には昔から血の滲むような努力を要する聞きますが、どうして道中を決めたのかって訊いたらしいんだ」
「で、なんて?」
「生き別れた弟にわたしは元気だと知らせたくて、と言ったらしい」
 すべてが繋がった心地がした。
 いきなりいなくなった姉、小樽の名家、二十歳……
「何だっけ?」
「何が?」
「花魁の名前」
「東京楼の紫蘭太夫だよ」
「それ、どんな字?」
むらさきに花のらんさ」
 蘭。姉と同じ名前だった。そう思ったときには立ち上がっていた。
「おい、立花たちばな、どこ行くんだ? もう授業始まるぞ」
 級友の声も聞こえなくなっていた。

 初めて遊郭の大門を通ると、同じような妓楼が連なっている。
 東京楼、東京楼……あった、と暖簾を潜ると番頭台のようなところで煙草をふかす男がいた。さっぱりとした出で立ちで、年は三十路に届かないくらいに見える。

「学生さん、一丁前いっちょまえに昼から登楼ですか?」
「あなたは……」
「東京楼の忘八ぼうはちですよ」
 楼主だったのか。
「このとおり今日でうちも廃業さ」
 確かに人気ひとけがなく、がらんとしている。
「立花と申す者ですが、紫蘭太夫に一目会いたいのです」
 楼主の顔は曇った。出し惜しみをしているのかもしれない。
「せめて言付けだけでもできませんか? お願いします!」
 ぼくは一心不乱に頭を下げる。
「紫蘭はいなくなった」
「え?」
「だからこうして皆に暇を出した後も楼主のぼくが待ち続けているのさ」
 寂しい妓楼の街に健気に咲くリラの香りが、赤くなった鼻先をかすめた。

        *

 翌日の札幌新聞に奇妙な記事が載った。
 豊平とよひら川の河川敷に、花魁が着るような豪奢な打掛や帯、十数本の簪と鼈甲べっこうの櫛、朱塗りの高下駄が無造作に捨てられていたという。
 そして、人々はこれを薄幸の花魁が入水したのだと取り沙汰した。

 しかし、奇妙なことに未だその花魁らしき遺体は浮上していない。
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