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しおりを挟む肩、背中、腕。それと頬にも。まだあの男の体温が残っている。
錯覚だとしても、その熱をパヴェルの頭は記憶してしまった。
生まれて初めて男に心を奪われた。相手は神託で選ばれた相手、ゼノンだ。
(俺が、あんな偉そうなアルファに……)
気のせいかもしれない、気のせいであってほしい、ほらやっぱり気のせいだ。想念を振り払うようにぶんぶんっと勢いよく首を横に振ってから、またぼんやりと自分の手に視線を落とす。
結局、地母神様の手のひらで転がされてるんだろうか。
これまでは何かに悩んでも、気の済むまで絵を描くか、女の子を目で追っていれば気持ちは晴れた。でも今は何も手につかない。
「ヴェル……パヴェルさん!」
自分を呼ぶ声に気づき、のそりと顔を上げた。
「……なんだ、ヨナシュか。俺をびっくりさせないでちょうだい?」
「……すみません。何度も呼んだのに気づかないので体調でも悪いのかと」
膝を抱えてしゃがみ込んでいたパヴェルを、ヨナシュが心配そうに窺っている。
水瓶の水を取り替えるよう頼まれたのだが、井戸水を出しっぱなしにしていたせいで、すっかり足元が濡れていた。ヨナシュも傍にしゃがみ込み、自分の上着の裾でパヴェルの足を拭ってくれようとする。
自分の話をするのは好まない様子のヨナシュだったが、パヴェルの書類を雨から守ってくれた時から互いに気にかけていた。同じ雑草を知る仲でもあり、もはや友人と呼んでもいい存在だ。口にはしないが、少なくともパヴェルは親しい思いを抱いている。
「あー、平気平気、俺は大丈夫。拭うものなら持ってるから」
「そうですか? おや、きれいなハンカチーフですね」
パヴェルが取り出した真っ白な布を見て、ヨナシュは興味深そうに目を瞬きさせる。書類で指を切った時、ゼノンが押しつけてきたものだ。最近のゼノンとの接触を思い出すと急激に体が痒くなってきて、使うために取り出したのにすぐさま懐へ押し込んだ。畳みもせず、ぐしゃぐしゃと力任せに詰め込むという粗野な振る舞いに、ヨナシュが怪訝そうな視線を送る。
「……使わないんですか?」
「いや、その、吸水性がイマイチなんだよなー。忘れてた」
ぎこちない笑顔をつくって、へらへら笑った。
「今日のパヴェルさんは変です、おかしいです。何か嫌なことでもあったんですか?」
嫌なことは何もなかった。自分でもゼノンとの接触が嫌ではなかったことに戸惑っている。高鳴る胸、火照る体。この反応をどう受け止めていいのか、わからない。
「お、俺? いつも通りじゃないかなー?」
「そういうことにしておきましょうか。ところで、今日はいいお天気ですよ。お昼、中庭でご一緒しませんか?」
昼の鐘が鳴る頃、ヨナシュと中庭の噴水前で待ち合わせをした。
パヴェルは宰相の私邸にいたので少し遅れるかもしれないと案じたが、思ったより早く集合場所に到着した。アリスとセシルが午後から貴族の子供達のお茶会に出席することになり、その準備のために早めに解放してもらえたのだ。
食堂に寄って、焼きたてのパンと惣菜をもらった。ヨナシュの分もある。
石のベンチに腰を下ろし、パンの香ばしい匂いを嗅ぎながら周囲の通路を見回す。まだ午前の仕事に追われる官が多いようだ。
さすがにまだ来ないか、と息をついた時だった。廻廊の奥に人影が見えた。ヨナシュに似た少年が中庭とは別方向に小走りで進んでいく。
「ヨナ……っ」
呼びかけてやめた。仕事中の可能性もある。短い逡巡の末、パヴェルはあとを追いかけることにした。
ヨナシュと思しき後ろ姿は宰相府を出て橋を渡り、王城の裏手に広がる丘へ急いでいる。パヴェルはこちらの敷地には来たことがない。近くには馬小屋もあり、餌を貯蔵する塔が見える。文官が入り込んでいい場所ではないように思えた。
(王宮の外れに何の用が……あっ、誰かと逢い引きか? 隅に置けないなー)
その時、鐘楼の鐘が鳴った。
王宮の四方に設置された鐘は時刻を知らせるものだ。ごおん、ごおん、という荘重な音色が体を揺さぶる。雨が止んだからか、今日は王宮のあちこちにたくさんの野鳥がいた。中でも特に鳩が多い。
鐘の音と共に、貯蔵塔のまわりに留まっていた鳩たちがいっせいに飛び立った。しかし一羽だけ群れから離れて正反対の方角へ羽ばたいていく。そのはぐれ鳩はやがて一人の少年の肩に止まった。
鳩の胸元をヨナシュが指で優しく撫でる。鳩は目を閉じ、気持ちよさげに身を委ねた。
少年と一羽の鳩。
パヴェルは師匠が描いた聖堂の壁画を思い出した。神話の絵巻の一場面と言われても遜色ないほど、それは美しい光景だった。
食い入るように見つめているパヴェルの姿に気づくと、ヨナシュはひどく驚いた。彼の腕を止まり木にしていた鳩はまた翼を広げて、どこかへ飛び立っていった。
「あ……ごめんな。俺、邪魔したか?」
「僕こそ、パヴェルさんとの約束があるのにすみません。『鳥』がかわいかったので、おやつでもあげてみようかなと思って」
叱られると思ったのか、ヨナシュは表情を硬くしていた。
「いいっていいって。怒ってないよ。ヨナシュは『鳥』と仲良しなんだなぁ」
「たまたまです。人懐こい『鳥』がいたので」
「ふーん。誰かに飼われてたのかもな? ……ところで、さ」
パヴェルは昼食のパンを胸に抱きしめるように持ち、ヨナシュにぐっと近づいた。
「さっきのヨナシュの姿、スケッチさせてくれないか!?」
出し抜けにぐいぐい迫るパヴェルに、ヨナシュはじりじりと後退する。
「えっ、僕を絵に描くんですか?」
ヨナシュは目をぱちくりさせて、首を横に振る。
「僕、モデルとかそういうのは、ちょっと……」
いつも平静なヨナシュが焦る様子は愛らしい。パヴェルはいたずら小僧のようにくふふと笑った。
「そこを何とか。絵の修行に付き合うと思って、な? 頼むよ~!」
最初こそ申し訳なさそうに断るヨナシュだったが、だんだん心の底から嫌そうに首を振りはじめたので、パヴェルは泣く泣く引き下がることにした。
「……どうしてもダメ?」
「ごめんなさい。かわいい顔しないでください、無理です。僕、人に見られるのが得意じゃないんですよ」
「そっか……俺こそ悪かった。しつこくしちゃったな」
パヴェルは物分かりの良いふりをした。だが、みすみす諦めるつもりはない。
鳩と戯れるヨナシュ。あれほどみずみずしく詩的な情景にはそうそう出会えない。
(絵師の執着、舐めんなよ!)
こっそり描いて驚かせてやるからなと、こっそり拳を握るパヴェルだった。
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