もう子犬と呼ばないで

温風

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 療養に集中して数週間が過ぎた。
 心臓も足の怪我も順調に回復している。ハウは少しずつ以前の生活を取り戻していた。

 森でコケモモを摘んでいると、足元に石つぶてが降ってきた。

「よう。また穴に落ちたいのか、クズ拾い」
「……なんだ、役立たずの猪か」
「うるせえな!」

 ハウの前方に立ち塞がった猪たちが、イ~ッと歯を剥き出しにして威嚇してくる。

 森の異変に彼らは気づかなかった。侵入を許したのは、猪族がみな酔い潰れていたせいだ。他島からの友好の証にと貴重な酒樽を贈られて、それを疑いもせず飲み干した彼らは、そのまま一晩酔い潰れていたらしい。
 猪族が目覚めたとき、島の危機はすでに収束していた。
 面目丸潰れの状況だったが、彼らに反省の色はいっさい見られなかった。それどころか、侵入者が最初に猪を封じたのは我らの力を恐れたからである、と誇らしげですらあった。これには島の誰もが呆れ果て、愛想を尽かした。

「クズ拾いは黙って地面舐めてりゃいいんだよ!」

 怒りに任せて、ぽいぽいと石を投げつける。
 力自慢の投石の威力はばかにならない。また怪我をすることになりそうだ。痛みが来るのを覚悟して身を丸めたが、いつまで経ってもハウに石は当たらなかった。

「……何をしている?」

 目を開くと、どうやって現れたのか、ハウを庇うようにしてスヴェルが立っていた。
 猪たちが目を輝かせる。

「スヴェル様、オレたち新しい罠を開発したんです。見てくださいよ!」
「ガリガリの子犬だろうと一匹たりとも逃しません。森の警護はオレたち猪族にお任せを!」

 島の有事を見逃しておいて警護も何もない。呆れを通り越し失笑すらできずにいたら、スヴェルが肩を揺らして笑いはじめた。ハウの肩を抱いて、傍らに引き寄せる。

「知らないようだから教えてやろう。こいつは俺の恋人で、名をハウ。俺の命を救った恩人でもある。ところで……おまえたちの言う『クズ拾い』『ガリガリの子犬』とは誰のことかな?」

 スヴェルは猪のひとりが投げつけたと思しき石を掌中に握り込み、さらさらと砂状に砕いてみせた。尊大な面持ちで顎を上げ、猪たちを睥睨する。
 完全に獲物に狙いを定めた目つきだ。猪は誰ひとり動けずにいる。

「俺はハウと違って優しくないんだが」

 スヴェルが一歩、猪たちに近づいた。
 その瞬間、猪たちは尻に火がついたように悲鳴をあげて逃げ出し、蜘蛛の子のように散っていった。

「謝罪もなし、か。頭の悪い連中とは話にならん。族長の家まで出向いてわからせるとしよう」
「……スヴェル様、私なら平気です。荒くれ者の猪など、痛くも痒くもありません」
「様を付けるな。スヴェルでいいと言っている」

 お仕置きとして、がぶっと耳朶を噛まれた。くすぐったいと身を捻れば、天狼は愛おしげに喉の奥で笑った。

「ハウ、俺はこの島を変える。おまえが傷つかない場所にしたい。手始めに……そうだな、猪を血祭りに上げようか」
「ステイ! ステイですよっ、スヴェル様!!」

 冗談とは思えぬ提案に、ハウは全力で反対した。




 侵入者は鉄の島から飛来した鷹族だった。
 メネラウスが育てる花蜜を狙ってきたようで、蝶たちがひとり残さず縛りあげたという。森に仕掛けられた罠や矢は、スヴェルが太陽に投げつけて全部溶かしたそうだ。
 こうして、緑の島襲撃事件は収束した。


「やっとケリがつけられたよ」

 平穏な日常が戻ると、フィンはたびたび神殿まで遊びに来るようになった。薬蜜を届けるだけでなく、ハウの診察もしてくれるので、そのお礼にお茶や手作りジャムをふるまうことにしたのだ。スヴェルは嫌がるが、そのまま夕餉に招くこともある。

「蝶族の人たちは力持ちなんですね。フィン様だって、まったくムキムキに見えないのに」
「あのね、ハウちゃん。製薬に長けたメネラウスって、裏を返せば、毒のエキスパートでもあるんだよ」
「毒?」
「そう、毒。とっ捕まえたやつらは、反省もできないクソ生意気な若鷹でねぇ。ざっくり去勢してやりたかったんだけど、クソどものタマなんて僕らもいらないじゃん? だから化学的に潰したの。あはは、最高にスッキリしたよ」

 大きな仕事を終えたと言わんばかりの活き活きとした表情だった。華やかで繊細に見える蝶たちの血気盛んな一面を知って、ハウはなるほど、と呻くように頷いた。なるほど、このひとたちを外見だけで判断したら取り返しのつかない事態になるわけだ。

 ふたりでお茶を飲んでいると、スヴェルが帰ってきた。

「ハウ、そろそろ飯にしよう。フィン、おまえはとっとと巣に帰れ。俺のハウに毒々しい話をするな」
「出たあ、束縛狼!」

 フィンが大げさに仰け反って、わざとらしく怯えて見せた。

「やだやだ、狼ってろくでもないね。家出したくなったら丘の館においで。僕が匿ってあげる」

 美貌の蝶から引き離すように、無表情のスヴェルが後ろからハウを抱き上げて、そのまま自分の椅子に移動した。
 ハウは膝の上に乗せられ、ぎゅうぎゅうと抱きしめられている。フィンがいるからやめてほしいが、腰のまわりに腕をきつく巻きつけられて逃げるに逃げられない。頭のてっぺんにスヴェルが顎を乗せて、ぐりぐりと刺激する。エナジーを吸われている気分だ。
 フィンは笑いを引っ込め、呆れた様子でスヴェルに言った。

「男の嫉妬は醜いよ?」
「……嫉妬じゃない、牽制だ。にやついた目でハウを見るな」

 理由がなくても、顔を合わせるたび、じゃれつくように傍に寄ってきて優しく抱きしめられる。おかげでいつも心臓がうるさいけれど、それはけして苦しいものではなかった。
 幸せでふやけた顔がさらに蕩けてしまう。でもスヴェルは、くにゃくにゃになったハウを愛しいというから、時には素直に蕩けていようと思う。


 ハウはもう、子犬とは呼ばれない。
 かつての哀れな子犬は、最愛の狼のそばで幸せいっぱいに微笑んだ。


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