もう子犬と呼ばないで

温風

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 森は朝靄に包まれていた。
 まだ太陽は昇らず、空は濃い青紫に染まっている。

 ハウは新鮮な空気を肺腑いっぱいに吸い、ゆっくりと吐き出した。
 外へ出たのは水を汲むためだ。毎朝の習慣で、起床したら必ず冷たい清流で顔を洗うと決めている。
 四つの歳から神殿に身を置いて十五年。この神殿の主と向き合うのは、未だに少し緊張する。

 太陽から生まれた聖なる狼、天狼。彼が守護する緑の島は、常春の楽園だ。

 朝露の滴る草むらに腰を下ろし、清流を木桶に汲む。ゆらゆらと波打つ水に自分の姿が映った。
 幼なさの残る顔立ち。生白い肌には、パンくずのようなそばかすが散っている。
 小ぶりな目と鼻は地味だし、黒髪と黒瞳も人目を引くものではない。いかにもポメラニアン族の青年といった従順そうな容姿だ。
 頭側部には控えめな大きさの犬耳がひょこりと生えている。黒い毛に覆われた柔らかな犬耳は、意志の力で尖らせていても、油断するとたちまち萎れて丸まってしまう。

(……ふにゃふにゃした顔は見せたくない!)

 ハウは自身の両頬をパシンと叩いて、今日一日分の気合を入れた。




 門を抜けて中庭へ向かい、回廊を突っ切ろうと急いでいると、スヴェルが起きてきた。彼こそ、ハウが仕える神殿の主人だ。
 ふわぁぁ~と大きなあくびを漏らし、長い爪でぽりぽり腹を掻いている。ハウに気づくと、だらりと垂れた尻尾がゆらゆらとリズミカルに揺れた。
 狼らしく大柄で、均整のとれた体つき。精悍な造りの顔は気だるげだが、滴るような男の色香を漂わせている。あちこちに跳ねた寝癖ですら魅力的に見えるのだから不思議なものだ。無防備な起き抜けの姿は、完全無欠のスヴェルがハウにだけ弱みを見せているようで得した気分になる。

「スヴェル様、おはようございます!」
「……朝っぱらからどこへ出かけていた、子犬」

 不在の理由を、むっすりとした顔で問われた。朝は大抵、ご機嫌斜めだ。

「小川で水汲みをしていました!」
「フン、どうりで。顎から水が垂れている」
「うぇっ? す、すみません!」

 行儀が悪いと承知しながら、慌てて右の袖で顎下に垂れた滴を拭った。
「顔を洗うのが下手なのか? いつまで経っても、おまえは子犬だな」

 ハウのことを、スヴェルはいつも『子犬』と呼ぶ。
 からかい半分、親しみ半分といった口調で、スヴェルが小さく笑った。頬がぽかぽかと熱くなる。

「……いじわるを言わないでください」

 火照った顔をごまかすように、ハウはぐいと顎を上げた。上背のあるスヴェルと視線を合わせるには、思いきりよく喉元を晒さなくてはならない。
 スヴェルの目は深みのある黄金色をしている。その瞳に見つめられるたび、命を預けている実感が込み上げて、ぞくぞくとした震えが走る。このひとに食いつかれたら、どう抗っても逃げられないとわかるのだ。
 そんなハウの心を知ってか知らずか、スヴェルは大きな手を伸ばしてハウの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
 スヴェルにいちばん近いところで働けるのは、ハウにとって至上の幸せだ。

 神殿に住んでいるのは、スヴェルとハウのふたりだけ。種族の違うふたりに当然、血の繋がりはない。
 神殿守りの仕事を継いだのは四年前だ。養い親の翁が膝を痛めたのを機に引退し、ハウは新しい神殿守りとなった。

 ハウは同い年のきょうだいと比べて発育が悪かった。母の乳を吸う力も弱々しく、毛並みもパサパサで、体もとびきり小さい。
 この子はきっと大人になるまで保たない。
 そう考えた両親は、ハウを神殿守りの翁のもとへ里子に出した。家犬の種族はどこも多産多育で、養子縁組も殊更珍しくない。短い命だとしても、太陽の恵み豊かな神殿で過ごせたら、あるいは……。
 その想いどおり、ハウは虚弱ながらも奇跡的に生き延び、成長していった。

「スヴェル様、お腹は空いてませんか? テーブルにりんごのパンがありますよ」

 スヴェルは空腹より眠気が勝るのか、悩むように唸って首を傾けた。肩まで伸びた白銀の毛が、さらりと揺れる。
 スヴェルの髪は美しい。白銀の毛並みは朝日のように眩しく、毛束の幾筋かには空を織り込んだような鮮烈な青が滲んでいる。
 頭の上できれいな二等辺三角形を描く獣耳は鋭く尖っていて、狼らしく堂々としたものだ。ハウの立てる音や声に耳をそば立て、小刻みに動いていた。

「りんごパンは、ユールが届けてくれたんです。スパイスが効いてて、とってもいい香りがしますよ」
「……子犬。まさかその格好で男と会ったのか?」

 スヴェルが腕を組み、顎でハウの質素なシャツを差す。丈夫な素材だが洗濯のしすぎで生地はくたくただ。

「会ってはいませんが、何かまずかったですか? 門に置いたパン籠に入っていたので、まだ暗い時間に届けてくれたみたいです」

 そう答えた途端、スヴェルの眉がぴくりと吊り上がった。整いすぎた容貌は時として、とても冷淡に見える。
 ユールはハウの数少ない友人であり、腕の良いパン職人だが、不都合でもあったのだろうか?

「パンの配達など、もっと遅くていい」
「でも、それではスヴェル様の朝課に間に合いません」
「でもじゃない。おまえは体が弱いんだ。朝くらいゆっくり過ごせ。それとな、もっと厚着しろ。胸元が見えすぎだ」
「あ……はい」

 突風のように説教が飛んできて、思わず閉口しかけた。

「起きたと思えば、すぐに慌ただしく動き出す。朝飯だっていつもろくに食わないくせに」
「た、食べてますよ!」
「あれで食べたと言えるか? パンくずをつまむ程度だろう。……少しは俺を安心させてくれ」

 言うだけ言うと、スヴェルはふっと鼻から息を吐いて、気まずげに押し黙る。
 ハウは目をぱちくりさせた。知らぬ間に、いろいろと心配をかけていたらしい。
 天狼様のお心を騒がせるなど、神殿守りとして失格だ。犬耳がしゅんと縮こまった。
 何か言わねばと言葉を探す前に、スヴェルに手首を掴まれて、ぐいぐいと引っ張られる。連れて行かれた先は食堂だ。肩を押されて椅子に座らされ、並べておいた皿にパンのスライスを供される。そして満足げにハウの隣の席にどかりと腰掛けた。

「口を開けろ」
「えっ」
「あーんだ、あーん。あーんと言って口を開けるだけだ。簡単だろ?」
「ちっとも簡単じゃないです!」

 ささやかな抵抗を示せば、スヴェルは御伽話の悪鬼羅刹に負けぬ凶悪な形相になった。胃の底がチリチリと痛んで焦げつきそうだ。ほとんど脅しである。

「あ、あー……ん?」

 ハウがおとなしく口を開けて見せると、スヴェルは上出来だと言わんばかりにニヤリと笑った。間髪入れずに、ちぎったパンのかけらを唇の間に捻り込まれる。狼は意地が悪い。

「ん! んーんー、むぐうっ……」
「ほら、飲み込んだら口を開け」

 手ずからパンをちぎり、次々とハウの口に押し込んでいく。かけらが大きすぎて、すぐには噛み下せない。
 ようやく呑み込んでひと息つけば、スヴェルは不意打ちのようにハウの唇に指を伸ばして、小さな犬歯に触れた。きわどい遊びを挑むように、歯の先端を指の腹でくすぐってくる。主人の指を噛むなど当然できないので、口を閉じるわけにもいかない。
 スヴェルは「あうあう…」と涙目で喘ぐハウを下から覗き込み、面白そうに観察していた。

 この狼、完全に楽しんでいる。

「一日の動力源は朝飯だ。俺が良いと言うまで、しっかり食べろ」

 悪戯を挟みながら、ハウがパンを食べ終えるまで見届けるつもりらしい。

(困っちゃうよな。もう子どもじゃないんだけど)

 幼少から神殿にいて成長を見守られてきたせいか、スヴェルはいつまでもハウを子ども扱いしてくる。ハウがもそもそと皿のパンを平らげるのを見届けると、ようやく安心したというように食堂を出ていった。

(……私はそんなに頼りないんだろうか?)

 中庭へ出たスヴェルを追って、ハウも腰を上げ、回廊まで見送りに出た。


 木々の梢を揺らしていた風の流れが変わる。
 スヴェルの瞳が燃える松明のように光り、口が裂けた。背が盛り上がり、腕が太くなる。
 人型から完全な獣形に変貌し、白銀の狼が姿を現した。豊かな毛並みが風に靡く。狼は宙を蹴り、天高く飛んだ。

 まもなく日の出──太陽を動かす刻限だ。
 天狼スヴェルの飛昇をもって、島の一日が始まる。

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