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二章〜世界文明の飛躍〜
39話「二輪の花」
しおりを挟む初めに全身を襲ったのは水の中に投げ出されたような感覚。
冷たくて纏わり付くようなその感覚に無意識のうちに脳が呼吸を止めにかかる。
その短い残り時間をかけて必死に出口を探す。光すら届かない深くて不快な水の中で。そしていつの間にか——、
「⋯⋯ごぼっ」
自らに残された時間は終わりを告げ、肺にためられていた酸素を吐き出してしまった。
「⋯⋯」
薄暗かった世界がより深い闇へと暗転する——吐き出された酸素が遠くに行くにつれ自らの意識も遠くなっていく。
手が届きそうなのに届かない——伸ばした掌は何もつかむことができず、手放したくないものまで離れていってしまった。
◾️◆◾️◆◾️◆◾️◆◾️◆◾
それは映画のワンシーンのようで、自らがその場にいるかのように錯覚させるほどのクオリティを見せた。
主人公は怪物となってしまった彼女。そして、全身を赤く染めた彼女の周囲には沢山の屍が横たわっていた。
「もう⋯⋯やめて⋯⋯!」
「何ヲ止メルンダ?」
「アナタ、ノ、セイナノニ」
「オ前サエ居ナケレバ」
「死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ」
無慈悲な言葉が大量の屍から発せられた。誰も彼もが恨みを憎しみを殺意を彼女に容赦なく向け彼女を追い詰める。
血塗られた両手で耳を塞ぎ彼女は何度も赦しを請う。やめて、見せないで、お願い、と何度も何度も訴えている。
——もうやめて、もう赦してあげて。
そう口に出した言葉は画面の向こう側からの叫びのように目の前に広がる世界の言葉にはならない。
「消エロ消エロ消エロ」
「オ前ナンカ、オ前ナンカ、オ前ナンカ」
「化ケ物ハ死ネ! 化ケ物ハ消エロ!」
「やめて⋯⋯お願い⋯⋯します⋯⋯もう、やめて⋯⋯」
耐えきれない苦痛に彼女はその場にへたり込んでしまった。
塞いでも聞こえてしまう怨嗟の声に次第に赦しを諦め、瞳から光が失われる。
——やめて⋯⋯彼女は怪物なんかじゃない⋯⋯諦めないで。
“私” は知っている。彼女は怪物なんかじゃないんだと。
しかし、そんな言葉も思いも絶対に越えられない壁に遮られるかのように声にもならず、伝わることもない。そして罵倒騒音の怨念の声が響く中遂に——、
「⋯⋯ごめんなさい」
彼女の心は折れ、無実の罪を受け入れてしまった。
抵抗することを止め、望むことを諦め、贖罪は罰せられることにあると決めてしまった。
次の瞬間には無数の屍が彼女にまとわりつき始めた。
屍が蔓となり鎖のように縛り絡みつく。
屍が枝となり格子のように閉じ込める。
屍が葉となり壁のように闇を作り出す。
何度も叫ぶ “私” の意思に反して牢獄は作り上がる。硬く、強く、閉ざされた防壁が急速に出来上がる。そして彼女は静かに断罪をその身に堕としたのだった。
◾️◆◾️◆◾️◆◾️◆◾️◆◾
「——ッ」
寝転がっていた上半身を勢いよく起こし美香は意識を覚醒させた。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯」
激しく上下する肩が荒い呼吸を作り、自然と額に汗が浮かび上がる。
悪夢から目覚めたそれの様に美香は現実と映像との折り合いをつけ、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。
「ふぅ⋯⋯はぁ⋯⋯」
普段より多めの空気を肺に送り込み、ゆっくりと長さを意識して吐き出す。
それを数回繰り返し終わる頃には激しかった呼吸も落ち着き、吹き出ていた汗も治まっていた。
「⋯⋯アレが香の見ていた光景なのね」
ようやく立つことができたスタートライン。空白の一年のほんの一欠片でしかないが知ることができた知らなかった香の姿。
「で、あれが⋯⋯」
美香は周囲を見渡し、少し離れたところで見つけた。
生い茂る葉と堅固な枝に包まれた牢獄。そのに香が居ることを美香は疑わなかった。
「⋯⋯香」
美香はゆっくりと近づき呼びかけた。何度も何度も呼びかけたが反応は無かった。
「ねえ、居るんでしょう? 香!」
今度は呼びかけと同時に枝を揺すった。強く掴み、あわよくば折れてしまえないかと思いながら揺さぶれば今回は反応があった。
「⋯⋯だ⋯⋯れ⋯⋯?」
「香!」
掠れ、虚ろさを感じさせる声色で閉ざされた牢獄から声が漏れた。
「私だよ! 美香、望月美香だよ!」
「⋯⋯み⋯⋯か⋯⋯」
「そう! そうだよ!」
美香は内心ホッとした。まだ香には意識がある、自我がある。そうと分かればこんな場所から出るのは簡単だ。そう思っていたが、
「⋯⋯うそよ」
「⋯⋯え?」
「ウソよ⋯⋯美香が居るはず無い⋯⋯美香は死んじゃったんだから居るわけが無いッ!」
「え? え?」
「オマエはダレだ? 何者だ?⋯⋯そう、分かったわオマエは偽物だッ! 私の親友を騙るニセモノなんだッ!」
「ど、どういう——うっ!?」
香の拒絶に反応して取り巻く蔓が美香の腹部を直撃し弾き飛ばす。
「うっ⋯⋯いっつ⋯⋯」
強く殴られた、そんな生易しい程度ではない痛みが腹部から全身に駆け巡り苦悶の声が漏れる。
しかし、そんな声も次の瞬間には怯えるように引っ込んでしまった。
「ユルサナイ、ユルサレナイ。私が一番悪いんだから」
僅かに作られた隙間から瞳がこちらを向く。涙を流し、憎悪に彩られ、絶望するその瞳が美香を貫いていた。
「私が望んだから⋯⋯私が望んだ未来だから。そこにはもう⋯⋯美香はいないの」
「だ、だから私はここに——」
「いないって言ってるでしょッ!」
再び振られる蔓の鞭。その軌道に迷いはなく、騙り部を殺さんとばかりに容赦無く美香を襲う。
「——ッ!」
飛ばされ距離が開き、一度直撃したことも相まって寸での所で避けることができたが頬には蔓が通った軌道を残すように朱色が浮かび上がる。
「お母さんも、お父さんも⋯⋯真里亞や幸⋯⋯美香だって⋯⋯みんな死んだんだ⋯⋯死んじゃったんだよ! 私が復讐なんて望んだばっかりに!」
「⋯⋯香」
美香の頭の中で先程見た光景が浮かび上がる。
あの場所には沢山の屍が横たわっていた。男も女も。恐らくそこには香の両親もいたのかも知れない。だが——、
「⋯⋯あんたがどんな悪い夢を見た⋯⋯少ししか分かんないけどさあ」
——そんなことは関係ない。
美香は走り出した。自分の思いを伝えるために一直線に香の元へ駆けた。
その途中で数本の蔓が襲いかかってくるが下手くそに転んだり、格好良くない飛び込みでなんとか避け続ける。そして、
「今目の前にいる親友の顔くらいはキッチリ区別つけなよッ!」
「——ッ!?」
僅かに開いている隙間に片腕を突っ込んだ。そこへ更に片足を入れ込み、手首から先のないもう片方の腕も無理矢理入れ込んだ。
「な、何をっ!?」
「こんな殻の中にいるから私の顔が見えないんだよ⋯⋯少しは直射日光を浴びなさいっっ!!」
気合いと共に注いだ美香の全力。瞬間、堅牢な枝の格子が軋み——
「——なっ!?」
——まるで花弁のように舞い散った。
あまりの結果に美香も驚き、目を開いてしまう。しかしそれは変貌した香があまりにも痩せ細りっていたためだ。だがそれよりも、
「⋯⋯み⋯⋯か⋯⋯?」
香の驚きの方が大きかった。声を漏らし、信じられないとばかりに目だけでなく口まで開いたままだ。
それは親友が生きていたためか。それとも、ここに辿り着く存在がいると思っていなかったためか。
「⋯⋯やっと会えたね、香」
「⋯⋯ほん⋯⋯とうに、みか⋯⋯なの?」
「それ以外に何に見えるのよ? まさかここまで来て偽物だ、なんて言わないでよね?」
「う、うそよ⋯⋯だって美香は⋯⋯」
僅かに残る拒絶の色。だがそれは先程までとは変わり子供が駄々をこねるような、そんな弱々しいものだ。
そんな香を見て、「はぁ」と一つため息を吐いた美香は、
「いい加減現実見なさいってのっ!」
自らの額を香の頭に打ちつける⋯⋯いわゆる頭突きをかました。
「ぴゃっ!?」
心惑い、葛藤している最中に訪れた激震。可愛らしい声を上げながら、香の揺れる視界の端に星が煌めく。
「いい香! 私を見なさい!」
頭を揺らし、定まらない視界に困惑している香の両頬を美香は両手で固定し真っ直ぐに目を見合わせる。
「わ、た、し、はここに居るの! 勝手に殺さないで欲しいし、勝手に謝らないで!」
「⋯⋯え? それってどういう——」
「本当に謝りたいのは私の方だってことよ!」
「⋯⋯?」
美香の意味のわからない台詞に困惑しながらも香は美香と作る沈黙に耐え続けた。
すると、美香は先程までの怒涛の攻めを沈め申し訳なさそうに口を開いた。
「香が苦しい思いをした本当の原因は私だよ。私があの時⋯⋯一年前のあの時、香だけを犠牲にしなければこんなことにはならなかったんだ」
「そ、それは⋯⋯」
「怖かったんだ⋯⋯どうなるかわからないって思ったら自然と足が震えて⋯⋯何もできなかった。言い訳だっていうんは分かってる。恨まれる覚悟だってある。でも⋯⋯でも、これだけは言わせて?」
「⋯⋯なに?」
「あの後すっごい後悔した。私なんか死んじゃえばいいんだって思うくらいに後悔したの」
「そんなの⋯⋯」
自分勝手すぎるよ、そう言いたかったが香は今までの自分を振り返ればその続きの言葉は喉から上には上がってこなかった。
「⋯⋯」
「⋯⋯香?」
だんだんと沈んでいた思考や意識が浮かび上がってくる。そうすれば自然と今何が起きているか、何ができるか、そして⋯⋯何が望みかが分かってくる。
「ね、ねえ、かお——な、何!?」
何も反応しない香にもしかして凄い怒って言葉にもならないかと思った美香は大きな揺れを全身で感じ取る。
日本で言うならばそれは——地震。
「⋯⋯揺れてる? ねえ香これって——ッ!?」
揺れる周囲を見渡し改めて視線を戻した美香は驚愕した。
香を取り巻く植物が光の粒子になり消えていっているのだ。
「か、香! 何やってるの!?」
「⋯⋯」
「何か言ってよ! 香!」
「⋯⋯私さ、やっぱ美香が生きててくれて嬉しかったよ」
「⋯⋯え?」
「今になって思えばあんなのは悪い夢⋯⋯みたいなもの。でも、あそこにいた私は本当なのかも知れない」
「⋯⋯そんなこと聞いてない」
「お母さんもお父さんも⋯⋯多分生きてると思う。でも、このままだと美香と真里亞を殺しちゃう」
「だから⋯⋯そんなこと聞いてない。何をするつもりなの? 答えて!」
聞きたいことを中々口にしない香に美香の怒声が降り注ぐ。なんと無しに美香は直感している。だが、それだけに香の口から否定して欲しいのだ。しかし——、
「⋯⋯簡単だよ。今から私は⋯⋯死ぬの」
——紡がれた言葉は予想通りだった。
「今の私ならこの【ダンジョン】を自分の意思で閉じることができる。そうすれば⋯⋯そうすれば美香と真里亞を巻き込まないで済む」
「⋯⋯」
「ありがとう、美香。会いに来てくれて。本当に嬉しいよ」
香は笑顔でそう言った。ぎこちない笑顔で。潤んだ瞳に力一杯我慢という指令を出しながらそう言った。
「⋯⋯ふざけんじゃないわよ」
「え?」
「ふざけんじゃないって言ってんのよ!」
「み、美香!?」
美香は怒りの雄叫びを上げながら香に掴みかかった。そして、香に触れていることで美香の体にも異変が起きた。
「ちょっ、美香! あなた体がっ!」
香と同様に美香もまた輝き、服から始まり体の一部が光の粒子に変わり始める。
「私を巻き込まないですむ? あんただけが死ねば結果オーライ? ふざけんじゃないわよ! じゃあ何であんたはそんな苦しそうな顔してんのよ! 何でそんなに我慢してんのよ!」
「——ッ」
美香は苛立っていた。何でもかんでも背負ってしまう香にだけじゃない。香にそこまで言わせる自分自身への方がよっぽど苛立った。
「香、あんたが死ぬ選択を選ぶなら私も一緒に死ぬ」
「なっ!? わ、私は美香に⋯⋯生きて欲しいんだよ!」
「なら、それは無理だね。私はあの日からずっとあんたへの罪の意識で死んだような生活しか送っちゃいないんだ! あんたを置いて生きたって⋯⋯また同じよ」
「⋯⋯美香」
「それに⋯⋯今の香を一人で逝かせられるわけないじゃん。また同じこと繰り返しそうだし」
「⋯⋯あはは」
美香の付け加えたような台詞に香の口から苦笑が漏れた。否定しようにも否定できなかった⋯⋯寧ろ、心に何処かでしたくない、と拒否すらしてしまった。
だってそうすれば——
「⋯⋯じゃあ、私と一緒に居てくれる?」
「うん、もちろん」
——もう一人で背負わなくてもいいと思えてしまったから。
「⋯⋯ごめんね、美香」
「謝るなら私ん方こそ。ごめんね」
二人を包む光はもう残り僅かとなっていた。それは二人のほとんどがこの世界から消滅してしまっていることを意味する。
「「⋯⋯」」
それでも、と二人は絶対に離れないように手を取った。硬く、強く握られた二つの手はまるで来世まで続きそうなほどに結ばれている。
「⋯⋯香」
「⋯⋯美香」
そうして二人は——
「「ありがとう」」
——咲いた花が萎み、枯れ、そして落ちるかのように散ってしまった。
春の始まりに芽吹いた種はその苦難を乗り越え美しい花を咲かせる。
そしていつしか冬という終わりを迎えそこには在りし日を彷彿させるかのように——
⋯⋯香りを残すのだ。
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