上 下
40 / 43
上司の財務大臣と、部下である私の秘密の関係。

第6話

しおりを挟む
 じっと彼の目を見て、答えを待つ。

 ……けど、どれだけ待っても。彼は答えをくださらなかった。

(あぁ、やっぱり。私は、メイノルドさまにとって、都合のいい女なんだわ)

 所詮は、私は性欲処理だったのだろう。

 ずっと目を逸らしていた。その現実を突きつけられて、はらりと涙が零れる。

「シルケ」

 メイノルドさまが、優しいお声で私の名前を呼ばれる。

 ……そんなお声で、呼ばないで。私はまだ、あなたさまのことを吹っ切れていないのだから。

「もう、やめましょう」

 震える唇が紡いだのは、心にもない言葉だった。

「私、もう閣下と身体を重ねるの……やめます」

 溢れる涙を拭って、自分の気持ちにぴったりな言葉を探す。でも、上手く出てこなくて。

「こんな生産性のない関係、もう耐えられないです。……今まで、よくしてくださってありがとうございました」

 結局、はっきりと言うことしか出来なかった。

 本当はもっとやんわりと告げるつもりだったのに。これじゃあ、面倒な女だ。……彼がきっと、一番嫌いであろうタイプだ。

「その、少し休憩に行ってきますね。……お化粧、落ちちゃいましたから……」

 目元をごしごしとこすって、痛々しいであろう笑みを浮かべて。

 私は、メイノルドさま……いや、閣下の側を離れた。

(これで、よかったのよ)

 彼にはもっと相応しいお人がいる。それは少なくとも、私じゃない。

(私はあなたさまの部下。今までも、これからも)

 側にいるだけで、幸せじゃないか。一時期でも夢を見せてもらって、幸せだったじゃないか。

 うん、そう。そうに決まっている。

(さようなら――メイノルドさま)

 これで、おしまい。

 明日からは、上司と部下の関係に戻る。

 そう心に決めた翌日――私は、体調を崩してお仕事を休む羽目に陥った。

 ◇

 瞼を開ける。まだ少し重い身体を起こして、私は近くにある時計を見る。

 時刻は午後六時。……もうそろそろ、夕飯を食べたほうがいいかもしれない。

(だけど、作るのしんどい……)

 かといって、作り置きしているわけでもない。昨日の残りはお昼に食べてしまった。

 ……もう、今日の夕飯は抜こうか。

 そう思っていると、私の住んでいるお部屋のチャイムが鳴った。……来客を知らせる合図だ。

(だれ……こんなときに……)

 私が体調を崩していることは、職場の人しか知らないはずだ。

 でも、職場の人が私の住所を知っているはずがない。怪訝に思いつつ、私はふらふらと立ち上がって、玄関の扉を開けた。

「……閣下」

 扉の前には、何故か閣下がいらっしゃった。

 相変わらずの豪奢な衣服は、こんなアパートには似つかわしくない。

「体調を崩しているんだろう。……なにか、食べるものはあるのか?」
「……いえ」

 昨日今日の状態なので、気まずくて視線を逸らす。けど、閣下は気にするような様子もなく、「失礼する」とおっしゃって、お部屋の奥へと進んでいかれる。

 ……慌てて、ついて行った。

「体調はどうだ? 明日も一応休めるように段取りはしておいた」
「……あ、ありがとう、ございます」
「礼を言うくらいならば、一刻も早く体調を戻せ」

 閣下は、いつも通りだった。

 ……やっぱり、気にしているのは私だけなのだろう。

 そう思って、自然と胸の前で手を握って。俯いてしまう。

「なにをしているんだ。……早く、横になれ」

 そんな私を見て、閣下は私のほうに近づいてこられる。かと思えば、私の身体を横抱きにして、お部屋の隅にある寝台に寝かせる。

 その後、私の身体の上に毛布をかけてくださった。

「熱はあるのか?」
「……朝は、ありました。今は、もうだいぶ下がっています」
「そうか」

 朝は高熱に片脚を突っ込んでいたのだけれど、今はもう微熱まで下がっている。

 そう伝えれば、閣下はほっとするような表情を浮かべられた。……どういうこと、なのだろうか。

(……というか、部下の元にお見舞いにこられるものなの……?)

 不思議に思って、閣下にそう問いかけようとする。でも、それよりも先に閣下は立ち上がられた。

「夕飯は買ってきた。一応そこに置いておくから、後で食べるように」
「え、あ、はい……」
「あと、明日の朝、昼、晩の三食分も買ってある。安心しろ」

 閣下がそうおっしゃって、私の頬を指で撫でられた。

 ……心臓がとくとくと早足になる。これは、風邪の所為じゃない。

「じゃあ、私は帰ろう。……早く良くなって、元気な顔を見せてくれ」

 まるで縋るようなお声だった。

 その所為、なのだろうか。私は自然と立ち去ろうとされる閣下の衣服の端を掴む。

「……シルケ?」

 彼が振り返る。その目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「一緒に、いてください。さみしい、です」

 体調が悪いとき。どうしてか、人間は弱くなる。

 それを実感しつつ、私は震える声で閣下にそう告げる。……閣下は、少し驚いたような表情をされたものの、頷いてくださった。

「……なにか、話そうか」

 閣下は床に腰を下ろされて、そうおっしゃる。

 私はゆるゆると首を横に振った。

「いえ、いてくださるだけで、いいです」
「……そうか」

 しばし間をおいて、返事をしてくださる閣下。

 ……重苦しい空気が場を支配する。閣下は、なにもおっしゃらない。

「……昨日は、悪かった」

 なのに、しばらくしてそんな声が聞こえて来た。

 驚いて、目を開ける。

「シルケの言葉に、すぐに言葉が出てこなかった。……私は、不誠実だった」
「……閣下」

 自然と唇が閣下のことを呼ぶ。彼の表情が痛ましげに歪んだ。

「もう、私のことを『メイノルドさま』とは呼んでくれないのか?」

 閣下の手が、私の手を掴む。指を絡められて、ぎゅっと握られる。心が、落ち着く。

「いや、違う。当然だ。私は、シルケに酷いことをしてしまった」

 静まり返った空間で、閣下の何処となく不安そうなお声が響く。

「私はシルケとの関係に、甘えていた。……シルケとの関係を、壊したくなかった」

 そのお声は、震えていた。

「シルケに拒まれるのが、怖かったんだ。……せめて身体だけでも、欲しかった」
「……か、っか?」
「――好きだ、シルケ」

 耳に届いたお言葉。……あぁ、夢なのか。

(これはきっと、都合のいい夢だわ……)

 だって、閣下が私のことを好きになってくださるなんてことは、ないはずだから。

 閣下の側には私よりも華やかで、愛らしい女性たちがいる。私なんて、私なんて……。

「信じられないのか、シルケ?」
「は、ぃ」
「では、こうするのはどうだろうか?」

 そうおっしゃった閣下のお顔が、私の顔に近づいて来て――唇と唇が、重なる。

 ちゅっと音を立てて、合わせられた唇。夢じゃ、ない。

「私は好きでもない人間に、口づけたりはしない。それだけは、伝えたい」

 真剣なお声に、心臓がどんどん駆け足になる。引いたはずの熱が、戻ってくるような感覚だった。

「……風邪が、移ってしまいます」

 熱い身体に、苦しくなってしまって。口から出たのは、可愛げなんてない言葉で。

 けれど、閣下は「移せばいい」とおっしゃった。

「シルケが元気になるのならば、風邪などいくらでも貰おう。……だが、そうだな」

 閣下が少し考え込むような素振りを、見せられた。それからしばらくして、彼の唇の端がにんまりと上がる。

「代わりに、私の気持ちを受け取ってほしい。……シルケを、愛しているからな」

 けど、だけど、かといって。

 ……そんなの、反則だった。

 涙が流れる。昨日散々泣いて、涙は枯れたと思っていたのに。

「め、いのるど、さま……」

 唇が紡いだのは、元の呼び名だった。

「あぁ、シルケ」
「……好き、私も、大好き、ですっ」

 鼻声になりながらも、自分の気持ちを伝える。鼻をすすって、必死に伝える。

「わた、し。あなたさまのお側に、いたいっ……!」

 握られた手を、絡められた指を。自らぎゅっと握って、必死に自らの抱え込んだ気持ちを伝えた。

「どうか、私のこと……離さないで、ください」

 涙で視界がぐちゃぐちゃで、もうなにも見えない。それなのに、メイノルドさまが笑っているのだけは、よくわかった。

「あぁ、離すつもりはない。死ぬまで……いや、死んでも離さない」

 彼のその重苦しいような告白も、私には嬉しくてたまらなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R18】寡黙で大人しいと思っていた夫の本性は獣

おうぎまちこ(あきたこまち)
恋愛
 侯爵令嬢セイラの家が借金でいよいよ没落しかけた時、支援してくれたのは学生時代に好きだった寡黙で理知的な青年エドガーだった。いまや国の経済界をゆるがすほどの大富豪になっていたエドガーの見返りは、セイラとの結婚。  だけど、周囲からは爵位目当てだと言われ、それを裏付けるかのように夜の営みも淡白なものだった。しかも、彼の秘書のサラからは、エドガーと身体の関係があると告げられる。  二度目の結婚記念日、ついに業を煮やしたセイラはエドガーに離縁したいと言い放ち――?   ※ムーンライト様で、日間総合1位、週間総合1位、月間短編1位をいただいた作品になります。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

【完結】堕ちた令嬢

マー子
恋愛
・R18・無理矢理?・監禁×孕ませ ・ハピエン ※レイプや陵辱などの表現があります!苦手な方は御遠慮下さい。 〜ストーリー〜 裕福ではないが、父と母と私の三人平凡で幸せな日々を過ごしていた。 素敵な婚約者もいて、学園を卒業したらすぐに結婚するはずだった。 それなのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう⋯? ◇人物の表現が『彼』『彼女』『ヤツ』などで、殆ど名前が出てきません。なるべく表現する人は統一してますが、途中分からなくても多分コイツだろう?と温かい目で見守って下さい。 ◇後半やっと彼の目的が分かります。 ◇切ないけれど、ハッピーエンドを目指しました。 ◇全8話+その後で完結

【R-18】悪役令嬢ですが、罠に嵌まって張型つき木馬に跨がる事になりました!

臣桜
恋愛
悪役令嬢エトラは、王女と聖女とお茶会をしたあと、真っ白な空間にいた。 そこには張型のついた木馬があり『ご自由に跨がってください。絶頂すれば元の世界に戻れます』の文字が……。 ※ムーンライトノベルズ様にも重複投稿しています ※表紙はニジジャーニーで生成しました

【R18】恋人の浮気現場を目撃したら。

みちょこ
恋愛
ある日、恋人の浮気現場を目の当たりにしてしまったサラは、傷心状態に陥っていた。 そこへ、彼女がメイドとして住み込みで働いていた家の旦那様が──

公爵に媚薬をもられた執事な私

天災
恋愛
 公爵様に媚薬をもられてしまった私。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~

一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、 快楽漬けの日々を過ごすことになる! そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

処理中です...