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# The first case:Virtual image of the flower. ―華の虚像―
華、九輪。
しおりを挟む「右奥の隙間に何か落ちている」
言われて右奥の箱と箱の隙間に目を凝らす。掃除されていないのか、埃っぽい中にキラリと光る物があった。とりあえずベッドの下へ右腕を突っ込み、光るそれを掴んで起き上がると袖に埃が付いてしまった。
軽く袖口を叩いつつ伯爵に手の中身を差し出す。
「どうぞ」
「ああ」
自身の手の平へ落ちた物にブルーグレーの瞳が眇められる。
傍にいた刑事さんは訳が分からないといった表情のまま大きな体で伯爵の手元を覗き込む。
「その指輪がどうかしたんですかい?」
シルバーに紅い宝石、左右に小さなダイヤモンドがあしらわれた高価な指輪。あの双子の指にはまっていた物で、そして第五と第七の被害者が持っていた物で、被害者周辺の人々から聞き得た特徴にピタリと合うデザイン。
これはどう考えても犯人に繋がる証拠だろう。
伯爵はハンカチで丁寧に指輪を包むとコートの内ポケットへ仕舞った。
「この指輪の出所は私が調べておく。お前は先程会ったという男の居所を探れ」
「畏まりました」
早くあの男性を探し出さねば新たな被害者が出てしまうかもしれない。
部屋を出ようとした時、引き止められる。
差し出された伯爵の手にはマゼンタの花弁が一枚。
「商店か花屋を当たれ」
「?」
「その男は前掛けをしていたのだろう? そんな格好で花を持ち運ぶのは、花も取り扱っている商店か花屋くらいのものだ」
「あ、なるほど」
「……お前は偶に抜けているな」
……まあ、自分でも時々抜けているなと思うので反論はしない。
花弁を受け取り、失くさないようハンカチに挟んでポケットに仕舞った。
伯爵達と別れてまた一人になる。
さて、頭の中に叩き込んでおいた周辺の花屋の位置を思い出す。
今日中に回れるだけ回ってあの男性の情報を集めておきたいのだ。
だがしかし、そう簡単に事が進むはずもなく、何十件と花屋を回ったのに探している花を扱う店を見つけることが出来なかった。足が棒になってしまったのは言うまでもない。
散々歩いて聞き込みをしたものの欲しい情報は得られず疲労だけが溜まっていった。
ドラマのように常にトントン拍子に事件が解決出来るとは限らない。
むしろこの世界では事件を捜査しても未解決のまま終わることも少なくないらしい。
日が暮れる頃に重い足取りで屋敷へ戻ると伯爵は先に帰宅しており、わたしが帰ってきたら書斎で待っていると伝言を頼まれたことを従僕のアルフさんが教えてくれた。礼を述べて書斎へ向かう。
寝室の扉をノックすると珍しく伯爵の声がした。
扉を開ければテーブルで紅茶を飲んで休憩していたらしかった。
「失礼致します」
入室したわたしに伯爵が立ち上がり、書斎へ誘導される。
書斎へ入り、しっかり扉を閉める。
伯爵は自身の書斎机にある椅子に腰掛けた。
「何か成果はあったか?」
ポケットから取り出した花弁を伯爵へ返す。
「名前は花蘇芳だそうです。花街周辺の店は当たってみましたが、どこも扱っておりませんでした」
「聞かない名だな」
「なんでも花言葉が裏切りとか疑惑だとか。人に贈るのに不向きな花のようなので、店側も置かないのでしょう」
「そうか、ご苦労。コートの類を置いて来たらもう一度戻って来い」
冗談めかして「夜のお相手ならお断りしますが」と言えばジロリと睨まれた。
書斎、寝室を出て使用人棟へ行って自分の部屋へ入る。
コートと帽子を壁のフックに引っ掛けて一度鏡の前で服装と髪に乱れがないかを確認して、伯爵の下へ戻る。屋内の方が暗くなるのが早いため、既に火が灯された蝋燭のお蔭で明るい廊下にわたしの歩く足音だけが木霊した。
寝室の重厚な木製の扉を再度叩くと入室の許可が聞こえてくる。
扉を開ければ寝室のテーブルセットに伯爵が座っていた。
「座れ」
大きめのソファーにゆったりと腰掛けた伯爵が顎で自身の正面にあるソファーを示した。
それに素直に従って座れば、目の前のローテーブルにティーセットが置かれていることに気付く。カップとソーサーは二人分で、わたしの方にはキツネ色に焼けたスコーンが乗った皿と、ジャムとクリームが入れられた小皿が置かれている。
これらは家政婦長の作ったスコーンやジャム、クリームなどだ。
並べられたものを見て目を瞬かせるわたしにブルーグレーの瞳が細められる。伯爵は自ら淹れたのだろう紅茶を優雅に飲んでいるけれど、そちらにはスコーンも何も置かれていない。
食べていいんだろうか。思わずゴクリと喉が鳴った。
ともかく気を落ち着けるためにわたしも紅茶を一口飲む。
ほんのり渋味があって、良い香りが鼻に抜けていく。
更にもう一口飲んでカップをソーサーに戻すと漸く伯爵が口を開いた。
「お前の分だ。好きなだけ食べて構わん」
その言葉に伯爵の顔とスコーンを交互に見たが、伯爵は我関せずといった体で紅茶を飲んでいるので、わたしは言われた通り美味しそうなスコーンの皿へ手を伸ばす。
スコーンはやや平たく、綺麗なキツネ色に焼けていた。そこへ家政婦長お手製のジャムを万遍なく広げていき、クリームを上にたっぷり乗せる。そのスコーンに齧りつく。とても甘くて美味しい。ベーキングパウダーはないのかわたしの知っている現代のものより平たくて硬いけれど、そんなスコーンの食感にジャムとクリームの甘さが絡まり口の中に広がった。
紅茶を口に含むと微かにあった苦みが甘さを和らげてしつこさが消える。
三口ほどで一つを食べ切り、もう一つも同様にして食べていく。
「美味いか?」
「はい、とっても」
「そうか」
問われて何度も頷くとフッと声もなく笑われた。
口の中にちょっと頬張り過ぎてしまったのはマナー違反だったな。
それなのに礼儀作法やマナーにうるさいはずの伯爵は何も言わなかった。
このやや潔癖症気味な主君にアズールとのことを知られたら、それはもうとんでもない雷が落ちるだろう。美形は怒ると怖いから正直遠慮したい。それにアレは犬に噛まれたようなものだ。
不思議なことに紅茶の少しの渋みとスコーンの甘みがあの感触を忘れさせてくれる。まるで魔法みたいだ、なんて言ったらちょっとロマンチック過ぎるか。たまには感傷に浸ってみたくもなる。
不意に伯爵が立ち上がったかと思うとわたしの傍まで来て、いきなり頭を撫でてきた。
優しく、労わるような手付きに一瞬反応が遅れてしまう。
「……伯爵?」
「何だ」
「もしかして、どこかに頭でもぶつけてしまわれたのですか?」
「お前は相変らず失敬だな」
溜め息を吐きながら離れていく手に手袋が付けられていないことに、もっと驚いた。普段は屋敷内でも必ず手袋をしているのに珍しい。
だが美味しい紅茶とスコーン、伯爵の突拍子のない優しさに肩の力が抜ける。
良い様に転がされてる気がしないでもないけれど、今日は乗せられておこう。
わたしがスコーンを食べ終えた頃にタイミング良くアルフさんが夕食の時間だと呼びに来て、伯爵はわたしを伴い食堂へ、アルフさんはティーセットを載せたサービスワゴンを厨房へ片付けに行く。
実は伯爵は結構長身で、立つとわたしは結構見上げなければならない。これでも日本人女性の平均身長である百六十なのに。たぶん伯爵は百八十を軽く上回っているだろう。
この差と日本人特有の童顔のせいで大概わたしは子供と勘違いされる。
実年齢を言うとこの国では殆どの人が驚く。
全く、一体何を食べて、何をすればこんなに背が伸びるのか。
「……何だ?」
ジッと背を見ていたせいか伯爵がチラリと視線を向けてくる。
勿論こんなくだらないことなど言うつもりはなく「何でもありません」と言えば、少し釈然としない様子で「そうか」と呟いた。気になるなら聞き直せばいいのに。彼なりの優しさなのかもしれないが押しが足りないのは短所かもしれない。
……やっぱりアズールの所に行くのは控えよう。
こうして気にかけてくれている伯爵を裏切っている気がして居た堪れない。
食堂では既に食事の支度が整えられており主人を待つ給仕達が壁際に立ち並んでいる。この空間に慣れたとは言え、やはり入室するときは何時も緊張してしまう。
席に着いた伯爵の右側後方に立って控える。
食前酒が運ばれてくると、伯爵はそれをゆったりと飲む。
その間に前菜が運ばれてテーブルの上へ並べられる。
伯爵が空になったグラスをテーブルへ戻し、両手を胸の前で組んだ。
「主よ、貴方の慈しみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私の心と体を支える糧としてください。私達の主によって斯様にあらしめたまえ」
食前の祈りを済ませて伯爵が夕食を食べ始める。
前菜を何度か口に運び、不意に問い掛けられた。
「明日は東にも行くつもりか?」
こちらを振り向かない銀髪の後頭部を眺めて返事をする。
「はい、あちらの花街の娼館と付近の花屋か花を扱う店を当たろうかと考えております」
「分かってはいると思うが、事件の真相に近付いたからといって一人で深追いはするな」
「ええ、危険と判断したらすぐに撤退致します」
わたししか会っていないために、自分であの男性の顔を確認するしかない。
それはつまり犯人の下へ行くということで、犯人もわたしの顔を知っている。
こちらが向こうを見つけ出す前に襲われる可能性だってある。
多少の危険は承知しているし、それくらいの覚悟がなくては連続殺人犯なんて追えない。
そんなことを考えていると視線を感じて伯爵を見た。綺麗なブルーグレーの瞳が肩越しに振り返って胡乱げに眇められていたものだがら、一瞬ギョッとしてしまう。
端整な顔立ちをしているだけあって美形の不機嫌顔はちょっと怖い。
「絶対分かっていないだろう?」
「そんなことはありません」
「嘘を吐け。少々の危険がなければ犯人など捕まえられない、とでも考えていたな?」
「……よくお分かりになりましたね」
「読心術でも習得していらっしゃるんですか」と思わず続けてしまえば、伯爵が深く溜め息を吐いた。それはそれは苦労やら何やらを大量に混ぜ込んだような疲れの読み取れる長い溜め息だった。
雰囲気的に「これだからお前は」と言いたげだ。
「良いか、お前は女だ。男装をしていても男らしく振舞っていたとしても、女だという事実は変えられない。怪我をするな。自分を大事にしろ。嫁入り前の娘が傷の残る大怪我なんて笑えないだろう?」
……しまった、伯爵のお説教が始まってしまった!
まさか今のでスイッチが入るとは思っておらず、誤魔化すタイミングを逃してしまった。
テーブルへ顔を戻しながらも真剣に、こちらからは見えないが恐らく真顔で怒っているのか心配しているのかよく分からない言葉を述べつつ食事を続ける伯爵を見る。
彼のお説教はまるでじゃじゃ馬娘に苦労している父親そのものだ。
本来女性はドレスやワンピース系のスカートを穿いて、静々と歩いているのが当たり前で、わたしのようにズボンを穿いて色々と血腥い事件に首どころか全身突っ込んでいる状態は心配で仕方ないらしい。
抜けている所がどうにも危なっかしいと言われても、なかなかその抜け癖も直らない。そもそもドレス着て「あら、御機嫌よう」なんてわたしの柄じゃないし、やりたくもない。
「はいはい、分かりました。危なくなったら全力で逃亡します。深追いもしません。怪我もしないよう気を付けます。何かありましたら即座に伯爵の下へお伝えに参りますから」
まだお説教を続行しようとする伯爵に両手を上げて降参のポーズ。
彼はまだ言い足りない様子だったけれど、一旦口を噤んで振り返り「本当だろうな?」と念を押してきた。それに何度か頷くと渋々ながらも続けるつもりだっただろう言葉をワインと共に飲み込んでくれる。
実を言えば伯爵のお説教は別に嫌いではない。
言っていることは正論だし、心配してもらえるのだって悪い気はしない。でも話が長過ぎるので、そこだけはもう少し短くして欲しい。それから今日は疲れていてお説教を聞き続けるのは辛い。
その後は伯爵も黙って食事に集中してくれたので助かった。
「セナ、今日はもう下がっていい」
食後のワインを飲みながら伯爵がそう言った。
「明日も歩き回るだろう? 休んでおけ」
「……畏まりました。それでは失礼させていただきます」
深くお辞儀をしてから食堂を出る。
誰も見ていないのを良いことに歩きながら思い切り伸びをした。首を左右へ傾ければパキリと小気味よい音が響く。仕事疲れというのは嫌ではないけれど、これが明日に響くとなると面倒だ。
使用人の夕食の時間まではまだ余裕がある。
下がれと言われたものの近侍の仕事はまだ残っているので、そちらを少しでもやっておこう。
二階の男主人用の衣裳部屋へ向かう。そこには伯爵の普段着や登城する際の盛装、夜会に出る時の服装、喪服、寝間着などに加えて帽子やネッカチーフといった小物や靴と様々なものが収められている。
最終チェックは執事のアランさんがしているが、衣類や小物、靴などの手入れは近侍や侍従、時には小姓も混じって行う。小姓は主に靴磨きだが。高価な衣類の染み抜きや手入れ、洗濯はランドリーメイドでもやり方を知らない者が多いため、近侍や侍従が自ら染み抜きや洗濯を行う場合もあった。
衣装を必要な時に何時でも着られる状態に保つのも仕事なのだ。
小さな解れがいくつか出来てしまい修繕が必要な衣類は分けてある。
そのうちの一枚を持って隅に置いた椅子に座った。
横には小物や靴が仕舞われた箱があり、その上には裁縫道具の入ったバスケットが何時も置かれている。丁重に衣類を膝の上に裏返して広げたら布と同色で目立ちにくい糸と針を手に取って針に糸を通す。
解れた部分の布を待ち針で留めてから出来る限り目立たないように、そして縫い目が等間隔になるように、一針一針丁寧に縫い合わせていく。表からは見えにくい場所だが適当に縫えば乱雑な縫い目が内側で肌に当たって着心地が悪くなってしまう。
面倒でも時間が多少かかっても手を抜いてはいけない作業だ。
室内にわたししかいないということもあり、黙々と縫い直していく。
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