アルマン伯爵と男装近侍

早瀬黒絵

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# The first case:Virtual image of the flower. ―華の虚像―

華、一輪。

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 薄暗い空の下、霧の立ち込める広大な街があった。

 ブラウンやベージュ、柔らかなクリームイエローにアイボリー、ややくすんだホワイト、微妙に濃淡が異なる赤褐色といった暖かみあるレンガや石造りの家々が身を寄せ合うように隣接し、その間を表面が滑らかに整えられた石畳が縫うように通っている。道に人影はない。

 外周を覆う常緑樹の森と調和しながらも、その緑に埋もれることなく存在する古い街並みは美しく、上空より見下ろした様は咲き誇る一輪の花を思わせる形だ。

 男系男子継承性だんけいだんしけいしょうせいの国が殆どを占める大陸においては珍しく、この国の王家は女系女子継承性じょけいじょししょうせい――つまり王族直系の女性が王となり統治する。

 女王が君臨する王都も今はまだ明け切らぬ闇の中でひっそりと眠りに沈む。

 そんな街の一角にある屋敷で、わたしはフッと目を覚ました。

 ああ、もう朝か。季節上は春と言ってもまだ寒い。

 欠伸を零しつつ毛布の外へ顔を出せば、途端に突き刺さるような冷気を感じて小さく体が震えてしまう。

 枕元に置いてある少し擦り切れたストールを羽織り、ベッドから起き上がってブーツを緩く履くと立ち上がった。暗い中を数歩歩いて暖炉へ寄り、崩していた薪を戻しながら風を慎重に送り、火が灯ったらサイドテーブルに置いてあった燭台の蝋燭にも移す。

 それから燭台を片手に毛布の中へ空いた方の手を突っ込んだ。指に触れた物を引っ張り出せば、それは雫型をした革製の袋だった。あまり質は良くないが中身が漏れるほど粗悪でもない。

 燭台と革袋を持って壁際の机や棚まで行く。机の横には同じ高さの小さな棚があり、その上の小さな桶へ向かって革袋をひっくり返せば水が流れ出る。よく見るとまだ微かに湯気が上がっていた。

 この国は年間を通して比較的気温が低く、冬場の痛いほど冷たい水で顔を洗うのはつらい。

 だからわたしは前夜のうちに沸かした湯を革の水筒へ詰め、湯たんぽ代わりにベッドへ入れ、翌朝の洗顔時に使っている。桶に出すとあっという間に冷えてしまうし少々革臭いが薄く氷の張る井戸水よりかはマシだ。

 顔を洗って手近な布で拭い、手櫛で乱れていた髪を軽く梳く。

 ベッドへ戻って昨夜サイドテーブルに用意しておいた衣類を掴んだ。

 まずはシュミーズと呼ばれる肌着の胴部分の緩めていた紐を自分で締める。ステイズという、言わばコルセットだ。本来は女性の体型を整えてドレスを美しく見せるためだがキャミソール型に縫い直して丈を短く切って着ている。

 姿勢を良くしてくれる上に腰回りの体型が分かり難くなる。胸部分は押し上げずに使っているので更に体型を誤魔化しやすく、おまけに保温も兼ねた肌着だ。年間を通して気温が低いこの国では手離せない。

 次にやや黄色味がかった白いシャツを上から被って首と腕を通して首元にあるぼたんを留める。

 ショースと呼ばれる白いストッキング型の靴下に足を通し、落ちてしまわないように穿き口のウエスト部分の紐で留め、キュロットという膝下丈でピッタリとした生地の厚い黒のズボンも穿く。膝丈のロングブーツを今度はきちんと履いて編み上げの紐を結んだ。

 ジレは袖のないベストだ。くすんだ灰色で釦は黒。上からアビという燕尾服みたいなコートを重ね着する。これは前を合わせる釦がない。最後に白のネッカチーフを首に巻いて正面で結んで着替え完了だ。

 寝間着を大雑把に畳んで洗面台横のカゴへ入れ、正面にかけた鏡の前に立った。

 鏡は微妙に歪んでいて少し見難い。燭台の明かりを頼りに櫛で髪を梳かしてから、背の中ほどまである黒髪を緩く三つ編みにして髪紐で纏めて左の肩へ流す。

 鏡の中からこちらを見つめる人物を、わたしも見返した。

 柔らかなワイシャツの上からくすんだ灰色のジレに黒いアビを着て、七部丈の黒いズボンを穿いた姿は、少女のような顔立ちをした小柄な少年と形容される見た目である。自然に笑みが浮かんだ。



「……よし」



 ジレのポケットに仕舞っておいた懐中時計を取り出し、時計上部の金具を押し込みながら裏蓋を開け、チェーンに付けてある鍵でゼンマイを巻き、裏蓋を閉じてポケットに戻す。

 燭台の火を消し、暖炉の薪を崩して熾火にしてから洗顔に使った水の入った桶を持って自室を出る。薄暗い廊下を歩いていれば、先に起きて忙しそうに働くハウスメイドや小姓ボーイ達と擦れ違う。その度に挨拶をすれば同様に返される。

 一度地下へ行って桶の中身を捨て、自室へ戻してからまた一階へ。

 渡り廊下を抜けて本館へ行くと新聞を持った執事バトラーのアランさんに会ったので朝の挨拶を交わした後に連れ立って地下へ向かう。

 地下の空間は階下かいかと呼ばれ、洗濯を行うランドリールームや主人達のリネン類を仕舞っておくランジェリー、使用人のリネン類を仕舞うリネン室、食器を洗うスカラリーに食料品の貯蔵庫、酒を貯蔵するセラー、銀食器を保管するパントリー、陶器を保管するチャイナルーム、スープストックやティータイム用の菓子を作るスティルルームなど使用人の仕事場が揃っており、わたし達が目指すボイラー室もこの階にある。

 階下の廊下には朝食で使われるであろうスープストックの良い香りが漂っていた。

 コック達は一階の厨房で既に使用人と主人の朝食に取り掛かっているはずだ。

 一番奥のランドリールームの横、洗濯した衣類やシーツなどを乾かしたりアイロンがけをしたりする部屋の扉を開ける。ランドリーメイドが火を焚いたのか室内は暖かい。

 アランさんはストーブの一つに寄って専用のアイロンを出すと、その接地面をよく暖めてから広げた新聞に丁寧にアイロンをかけていく。熱されたインクと植物紙の匂いがする。新聞のアイロンがけは難しい。熱し過ぎると跡が出来てしまい、足りないとインクが乾かない。しかも日によって湿気の度合いが異なるために長年の経験と勘が必要な作業だ。

 わたしはまだ上手く出来ないので全員が読み終わった前日や前々日の余った新聞紙で練習中だ。

 主流の羊皮紙は高価で庶民には手が出せないため、ここでは植物紙の方が一般的に流通している。そうは言っても植物紙だって庶民にしてみれば高い。この新聞は植物紙に活版印刷がなされたもので、一部の値段だけでボーイの年俸の十分の一もする。羊皮紙よりかは各段に安いが安価とはとても言えない代物だ。

 新聞のアイロンがけが済んだらわたしは一階の厨房へ。

 アランさんは一足先に主人の寝室に向かう。前日中に主人が今日着る衣類や靴、装飾品等の用意は済ませてあるが、もう一度確認し、主人の寝室が十分に暖められているかのチェックもする。

 その間にわたしは厨房で主人のモーニングティー用の茶器一式が載せられたサービスワゴンを受け取り、使用人専用の通路を使い主人の寝室へそれを押して行く。

 主人達の目に付かぬように使用人は基本的に使用人通路を動く。けれどもこの通路は狭くて、階段も急で、使用人同士で擦れ違うだけでも大変な場所だ。

 忙しない他の使用人達と何度か擦れ違い、使用人通路を出て広い廊下を進む。

 目的地には絢爛けんらんさはないけれど丁寧に植物の彫刻が施された厚い木製の扉があった。その前で一度立ち止まり、少しの間耳を澄ませて中の様子を窺ってみた。微かに聴こえるのは執事の足音か。

 分厚い扉を控えめに四度叩く。何時も通り返答はない。

 そっと扉を押し開けて立ち入れば、ふわりと紙とインクの独特な匂いが鼻を掠めていく。



「失礼します」



 抑えた声で一言断りを入れてから、室内へサービスワゴンを押して入る。

 主人の着替えはすぐにでも始められるようにアランさんの手で整えられていた。

 わたしの押して来たサービスワゴンはアランさんが受け取った。蒸らしてある茶葉の具合やティーカップ、ソーサー、角砂糖、ミルクといったものが揃っているのか確認しつつ、モーニングティーの準備を行う。

 極力足音を立てずに近付いたベッドには仰向けで眠る男がいる。シーツに乱れはなく、呼吸音らしいものも殆《ほとん》ど聴こえないその姿を見ると、死んでいても分からなさそうだと時々思う。

 静かに眠る男の肩に触れて軽く揺する。



「旦那様、お目覚めになるお時間です」



 すると熟睡していたのが嘘のように男の瞳がスッと開かれ、わたしの姿を確認すると銀灰色の長い睫毛の奥から覗く、くすんだブルーグレーの瞳が眠たそうに一度ゆっくりと瞬いた。

 クセのない短い銀灰色の髪に日に焼けていない白い肌。起こされた体は筋肉があるものの細身でしなやかな。切れ長の瞳にスッと通った鼻筋、形の良い唇と彫りの深い顔は端整で、しかし表情の変化が少ないせいか人を寄せ付けない冷たさを感じさせる顔立ちだった。

 わたしの姿を瞳に映した後、閉じていた唇が億劫そうに開く。



「……もうそんな時間か」



 寝起きの低く掠れた声に頷き返した。



「はい、おはようございます。カーテンを開けて参りますね」



 主人が目を覚ましたことを確認してから寝室のカーテンを開けていくと、外は何時の間にか日が昇っていた。

 窓硝子越しに薄日が差し込んで、起き上がった人物を柔らかく浮かび上がらせる。

 彼の名はクロード・ルベリウス=アルマン。齢二十二歳にして伯爵という地位に立つ名門貴族の若き当主。そして、わたしが仕えているこの屋敷の主だ。

 王都の中心部に建つ広い屋敷と敷地。大勢いる住み込みの使用人達。屋敷中に置かれた調度品の数々も全て彼のものである。

 しかし主人曰く『新興貴族』と形容するアルマン伯爵家は彼でまだ三代目なのだそうだ。若輩であろうとも名門と呼ばれるほど血筋は由緒正しいらしいが、その辺の話は深く聞いていない。

 その伯爵家でわたしが働くことになったのは半年前のこと。

 友人と遊んだ帰り道に天気予報が外れて雨が降り出した。雷の音もしていたので雨の中、家路を急いでいたら突然気を失った。それを思い出すだけでも何故か時間がかかってしまったのだ。

 次に目が覚めた時、雨の降り頻る王都の薄暗い路地裏に座り込んでいた。

 訳が分からず茫然としていたそこに伯爵が通りかかり、拾ってくれたのである。

 最初はここがだとは気付かなかったしだとも思わなかったから、生活に慣れるまで色々と苦労した。生活様式も価値観も、文明レベルも違うのだ。半年経った今でも戸惑うことが多い。

 それに元の世界でわたしという存在がどうなっているのか分からない。突然消えてしまったと騒がれているのかもしれないし、そのまま雷に打たれたか何かで死んでしまったのかもしれない。

 でもわたしはこうして生きている。それが良いことなのか悪いことなのか最初の一月は悩んだが、帰る方法も想像がつかず、帰れる見込みもあるとは思えなかった。だが訳も分からず死ぬよりかはずっと良い。

 元の世界に戻れるかどうかはともかく、行く当てもないわたしが伯爵の恩情により、衣食住に職もあるこの屋敷の使用人として働くことが出来たのは非常に運が良かったのだろう。

 拾われて数日の間はわたしに対して然程関心を示さなかった彼だったが、あることがきっかけとなり、少々の紆余曲折を経た後にこうして近侍ヴァレットとして傍に仕えている。

 ちなみに近侍とは男性のお側付きで、女性のお側付きは侍女だ。本来は男性には男の近侍が、女性には女の侍女と同性が仕えるのだけれど、わたしは男主人である伯爵の近侍になるため男装で性別を誤魔化した。

 女性は面倒な矯正下着やドレスが動き難いので、男装している方が正直過ごしやすい。



「今朝の新聞をどうぞ」



 カーテンを開けて戻り、ベッドの上で上半身を起こしている伯爵へ新聞を手渡すと、アランさんから受け取ったティーカップを持ち、器用に反対の手で新聞を広げながら文面を目で追っていく。

 伯爵が新聞を読み始めたら、わたし達は邪魔をしないよう静かに退室した。

  主人の日課であるモーニングティーは三十分ほどで、伯爵は新聞に集中したいのか必ず使用人を下がらせる。

 わたし達はその間に手早く朝食を済ませるのだ。

 本館一階の別館側――別館は使用人棟とも呼ばれている――の使用人食堂へ行く。

 食堂の前には既に家政婦長ハウスキーパー女家庭教師カヴァネス御者頭ヘッド・コーチマン庭師頭ヘッド・ガーデナーなどの上級使用人が並んでおり、執事のアランさんと近侍のわたしが列に混じって使用人食堂へ入る。

 室内には既に大半の使用人達がいた。いないのは主人の朝食の準備を行っている料理長プロフェッショナルやコック、キッチンメイド達で、彼らは厨房で食事をするため使用人食堂に来るのは半休か一日休みの時だろう。

 食堂内の使用人が全員立ってわたし達を出迎える。

 上級使用人が席に着けば、下級使用人達も座り、大皿に載せられた料理が粛々と運ばれてくる。

 執事や料理長が料理を取り分け、料理の盛られた皿をテーブルを囲む使用人達でバケツリレーの如く回す。

 これを何度も繰り返して全員に食事が行き渡ると食膳の祈りを捧げる。

 この世界にもキリスト教に似た宗教があり、この国はそれを国教と定めている。女神を崇める一神教で、その神の下より地上へ降り立った七人の使徒と、使徒に付き従った十三人の信仰者が主の教えと救いを授けるために広めた宗教らしい。わたしは教会にも行かないし、主の教えとやらも知らないが、郷に入っては郷に従えというものだ。



「主よ、私達を祝福し、また御恵みによって今共にいただくこの食事を祝してください。主によって斯様かようにあらしめたまえ」



 ようやく始まった食事だが、会話はない。

 今日の仕事についてや主人の予定変更に伴う連絡事項などの最低限の会話はあるものの、静かな食堂に響くのは食器の触れ合う小さな音ばかりだ。

 朝食のメニューは丸くて上部に浅い筋が入れられた両手の平を合わせたくらいのブールというパン、それに塗るバター、冷えた豚のローストとハムを数枚、作り立てのベーコンエッグに紅茶。下級使用人のメニューにはベーコンエッグはないが、パンは皆おかわり自由だ。

 短い時間で食事を終え、食後の祈りを捧げる。



「主よ、この食事の恵みを心から感謝します。この食事を共にすることの出来た私達が、更に心を一つにしていつも貴方の愛のうちに歩むことが出来ますよう斯様にあらしめたまえ」



 祈りが済むと上級使用人のわたし達が席を立つ。

 この後、下級使用人達も食堂を出て各々の仕事に戻るのだ。


 
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