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4、密偵の前世

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 真っ暗な闇を、意識だけが漂っている――

 暗転する意識に覚醒を促したのは犬の鳴き声だった。

「……んっ?」

 主様の執務室で倒れたはずなのに、目が覚めたのはベッドの上だった。

 ワン! ワンワン!

 元気な声の出所を探るために起き上がると、白くてモフモフとしたポメラニアンと目が合う。ベッドの下、足元付近で尻尾をふっていた。
 あれほど賑やかに騒いでいたはずが、目が合うなりぴたりと鳴き止んでしまう。まるで私を起こすために吠え続けていたようだ。
 誇らしげな表情で見上げてくるので、思わず頭を撫でていた。

「おはよう」

 口が勝手に動く。見知らぬ状況に戸惑っているはずが、命令を下さなくても身体は勝手に動いていた。私はいつもの事であるかように慣れた手つきで服を着替えていく。
 カーテンを引けば見慣れた庭が広がり、懐かしいと感じていた。

「そういえば、目覚ましは……」

 今日は鳴らないのかと時計を探していた。
 枕元にある時計は深夜の二時を指したきり沈黙している。
 もしもこの子が起こしにきてくれなかったらと思うとぞっとした。私は改めて感謝を込めて、優秀な子の頭を撫でておいた。
 けれとその子は私の焦りなどお構いなしに先を急ぐ。早くおいでと呼び掛けるように前を走る姿は可愛いものだった。
 美味しそうな味噌汁の香りに誘われ、身体が向かうのはキッチンだ。

「さーちゃん、おはよう」

 割烹着を着た優しそうなおばあさんが振り返る。その人は振り返るなり表情を和らげ、立ち尽くす私にご飯をよそってくれた。
 とたんに懐かしさが込み上げる。

 おばあちゃん……。この人は私の、おばあちゃんだ。

 私の家は忙しい両親に代わって祖母がご飯を作ってくれていた。幼い頃から祖母の作るご飯を食べて育ち、それは私が大学を卒業して、会社に就職してからも変わらない日常となっていたことを思い出す。
 正確には現在の私ではなく、前の私の話だけれど。
 私はサリアとしてあの世界に生まれる前、山崎沙里亜として別の世界で生きていた。といっても、今思い出したばかりだが。

 自覚したところで前世の光景が止まることはなかった。過去の時間は着々と進み、私はあの日と同じ行動を体験していた。
 あの日のことはよく覚えている。忘れようとしても決して忘れることは出来ない。あれは沙里亜にとって人生で最低最悪の日だ。

 思い返せば今日は朝から『ついてない』ことの連続だった。

 いただきますと手を合わせ、魚をほぐそうとしたら箸が折れた。言っておくが割り箸ではない。
 湯呑を握れば亀裂が入っていたのか大破し、盛大に服を濡らしてしまう。
 和柄の箸も、そろいの茶碗も気に入っていたのに、今日はついてない。

 そんなに馬鹿力じゃないはずだけど……

 そんなことを考えながら急いで着替え直し、履き慣れたパンプスを選んで立ち上がる。
 愛犬の見送りで家を出ようとすれば、タイミングよくヒールが壊れて玄関のドアに額をぶつけた。鈍い音が頭に響く。

 また、ついてない。

 いつもよりヒールが高くなってしまう不安はあるものの、仕方なく予備の靴に切り替えて出発。オフィス街の一角にある会社までは電車に揺られて片道一時間ほどだ。
 けれど珍しく渋滞に巻き込まれたバスは時間通りに到着せず、いつもの電車に乗ることは出来なかった。
 それも一本や二本の見送りではない。おかげで会社に到着出来たのは遅刻ぎりぎりの時間となってしまった。
 こんなことは初めてだ。毎日余裕をもって着くようにしているのに。
 とはいえいつまでも落ち込んではいられない。ここからは仕事の時間だ。出勤してから定時まで、パソコンと顔を突き合わせながらのディスクワークが続く。

 しかしここでも私の『ついてない』は終わらなかった。

 パソコンを立ち上げれば突然の機械トラブルに見舞われ、印刷をかければインク切れ。ボールペンで書き物をすればこちらもインク切れ。
 書類を手渡せば季節外れの静電気。昼休みにコンビニに向かえばお気に入りのおにぎりだけが欠品……

「厄日かよっ!」 

 いい加減、我慢の限界を迎えた私は会社であることも忘れ、盛大に叫んでいた。
 しかしこれまでの事象は序章に過ぎなかったのだ。
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