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二十五、闇に染まる

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 最後に憶えているのは悲痛な表情。まるで自分自身の痛みのように朧は顔を歪めていた。

 止めて、だめ、従わなくていい。
 私のことは放っておいて!
 お願い、お願いだから無事でいて!

「おぼ、ろ……?」

 容赦ない朝日が私を暴く。影のない体が光に晒されていた。
 冷たくて固い床の感触。久しぶりのそれは慣れ親しんでいたはずなのに、やけに辛く感じた。きっとあの屋敷の布団が心地良かったせいだ。
 私はこの景色を良く知っている。殺風景な部屋、ほとんど閉ざされたきりの外へと繋がる唯一の扉。部屋の外に広がるのは荒れた庭。

「戻って……」

 夢はいつか覚めるもの。傍にはこれを着ろと言わんばかりに黒い巫女装束が投げ捨てられている。

 着替えを終えると見計らったように扉が開く。
 当主様が直々に会いに来るなんてよほどのことだ。あやかし嫌いの当主様は影のない私も彼らと同じ異端として扱う。視界に映すことも毛嫌いし、代理を立ててばかりいたのに。
 私が元の黒衣に身を包んでいることがよほど満足なのか、少しだけ機嫌が良いように感じた。

「あのあやかしはどうされたのですか」

「久しぶりの我が家だというに、随分な態度よのう」

 ここが私の家?
 違う。こんな檻のような場所が家であるはずない。けれど朧の様子を知りたければ機嫌を損ねてはいけない。

「どうか、教えていただけませんか」

 刀はそばにある。けれど私が人相手に抜けないことは当主様が誰よりわかっている。だから私には頼むことしか出来ないのだ。

「そんなにあれが心配か?」

「私の獲物です」

「そうかそうか! なに心配するでない。じき場を設けてやろう。それまで暴れられては面倒なのでな、適当に痛めつけ牢に繋いでおる」

「そんな……」

 抵抗しない? 朧ほどの実力があれば人間に遅れを取るはずがないのだ。

「お前の名を出せば大人しいものだ」

「酷い!」

「何が酷いものか!」

 頬を叩かれ衝撃によろめく。

「それはお前だろう! 育ててやった恩を忘れあやかしに取り入ったか! 幻滅させるでない!」

「そんなこと」

「黙れ! ああ、お前の声など聞きたくもない」

 汚らわしいと吐き捨て視界にも入れなくなった。

「少し見ぬ間に饒舌になったものだ。頷く以外喋りもしなかったものを」

 当主様にとって私はあやかしを狩るための道具。道具に意思は必要ない。道具は喋らない。ボロボロになるまで使われて、そして……いつか朽ち果てる。

「このような私は、不要ですか」

「お前という存在に価値を与えてほしいと? ならばその方法、お前はよく理解しているだろう?」

 そう、私がこの身に価値を示したいのなら。人でいたいのなら、その方法は一つだけ。

 まるで倉庫に鍵をするように、唯一の入り口には錠がかけられた。
 鍵をかけられたのは久しぶりだ。昔、もっと小さかった頃はよく閉じ込められていたように思う。さらに反抗すれば暗い地下牢に閉じ込められた。

「朧……」

 朧は地下牢に囚われているはずだ。私が捕まっているから抵抗しないと、当主様は言っていた。どうしてと疑問が湧き上がり……

 私はその答えを知っている。
 自分の命を狙う女を、朧は必要としてくれた。こんな事態に巻き込まれても望んでくれている。

「馬鹿なあやかし。こんな私でもいいなんて」

 当主様は今の私に価値がないという。必要とされたければ朧を殺すしかない。ここに居れば、いずれ私は朧を殺さなければならない。でも私には……

「私にはできない」

 朧はいつも私を助けてくれた。一人孤独だった時も、あやかしに襲われた時も。
 感謝している。
 私のこれは朧と同じ気持ち?
 助けてくれたからなんて、だから好きなんて都合が良過ぎる。でも、だとしたら……
 例えば藤代や野菊に助けられたとして。まず感謝を告げる。
 でも朧に助けられた時はそれだけじゃなくて。悔しくて悔しくて、でも……

「それでいて、やっぱり嬉しいの」

 私にとって朧は、藤代や野菊とは違う存在。きっと代わりはいない、特別なあやかし(ひと)なんだと思う。

「ありがとう。こんな私を必要としてくれて」

 ただただ嬉しかった。だから今度は私が助けに行く。私が巻きこんでしまった。たとえ始まりがどうであろうと望月家がしたことは私の責任だ。
 朧はいつも手を差し伸べてくれた。でも今回は、それじゃだめ。待ってちゃいけない。自分の意思で、朧がくれた情に報いたければ、私が行かなければならない。

 唯一の出入り口である扉は閉ざされている。念のため手を伸ばせば強い力に弾かれた。

「いっ!」

 触れる寸前、電撃が走ったように拒絶される。掌を見れば赤くなっていた。

「結界が……そうまでして閉じ込めるの?」

 実際逃げようとしているわけだが、そこまで信頼されていないというのも悲しい。きっと朧がいなければ地下牢に繋がれていたのは私なのだろう。
 ここは使えない。なら、窓はどうかと思い立つ。
 手を伸ばせば、やはり見えない力に弾かれた。

「ここもだめ……」

 ここがあやかし屋敷だったら――
 懐かしい情景が浮かぶ。襖を開ければ庭が広がって、庭に下りることも簡単だった。昨日まで見ていた光景が随分遠いことのように思える。

「私、帰りたいのね」

 もうその資格はないかもしれない。私のせいで屋敷の主が囚われたのだから。
 帰ることが許されなくても構わない。朧を助けて、それが別れとなっても構わない。彼の無事を願う身には過ぎた望みだ。
 自分がこんなにも愚かだと初めて知った。不思議なことに嫌な感情ではない。むしろ今までよりも心地が良かった。

「私は朧が大切」

 言葉にすれば胸が温かくなる。ああ、やっとわかった。もう何が大切だって認めても構わない。

「朧が力をくれた。私は自由に生きる」

 こうしているうちに、いずれ彼がひょっこり顔を出すのではないかと思えてしまう。それくらい朧はいつもそばにいて、いつでも来てくれた。

「でも、もう待つのはやめる」

 傷ついた体で無理してほしくない。だから私がやらないといけないのに、どうしたらここから出られる?

「……どうして、朧なら来てくれると思えた?」

 だって朧は強いから。そう、彼は強い――

「あやかしだから……」

 彼は私が半分あやかしだと言っていた。

「あやかしになれば、出られる?」

 彼らと対等に、同じように。人と違う力を持てば……力があれば彼の元へ行ける?

 人でいたいと拘っていたのは家族に認められたいから。あの人たちと家族になりたいと望んでいたから。

 それは今も望んでいること?
 それは朧の無事より価値があること?
 だって私は、とっくに認められている。朧は私を尊重してくれた。話を聞いてくれた。あやかしでも人間でもいいと、一人として扱ってくれた。

「私を必要としてくれた。欲しかったものは全部、朧がくれた」

 ここから出られるのなら、朧を助けに行けられるなら人でなくても構わない。そもそも彼なら、そんな些末なことにこだわらないだろう。

「私は人? そんなことどうでもいい。こんな私でも朧を助けられるなら、もう何だってかまわない」

 力が欲しかった。
 例えば藤代なら、刀で扉ごと斬り臥せてしまうだろう。
 朧なら、爪で切り刻む。それとも炎で焼き払ってしまう?
 でも私にはできない。それは私が人間だから。

「もういいの」

 異常だと囁かれる黒い刃。そこに映る瞳に迷いはなかった。
 瞬く間に部屋は闇に支配される。昼の明るさが嘘のように、一切の音が消えていた。

「ここは……」

 あの部屋だ。どこにも移動してはいない。私はまだ囚われているのだ。
 小さくて、広いのに狭くて、孤独な私の世界――

「私はここから踏み出す。自分の意志で」

 闇は私の足元から広がっているようだった。野菊が化けてくれた影よりもはるかに濃く、気を抜けば沈んでしまいそうだ。蠢き隙をみせれば引きずり込もうとする。

『お前は誰だ?』

 ずっと私の一部だったものだから? 懐かしさが込み上げる。けれど歩み寄ってはいけないと直感していた。正気を保っていなければ呑みこまれてしまう。

『お前は誰だ?』

「私は……」

 私は誰?
 そんなもの……

 とっくに知っている。私には彼がくれた名前がある。

「私は椿、私の名は椿よ!」

 繋ぎ止めるのは朧の存在。その名が私を私でいさせてくれる。

「私の一部なら、言うことを聞いて!」

 影に刀を突き立てる。こんなところで立ち止まっていられない。

「ここ……」

 もとの部屋だ。色も、明るさも戻っている。随分と長い時が経ったように感じたけれど、実際にそんなことはないのだろう。外の明るさは何も変わっていない。

「私も、何も変わらないのね」

 あれほど怖れていたあやかしという存在になった、のだと思う。
 何もかもが変わってしまうと思っていた。異形に身を落とした時、自分がどんな存在になるのか見当もつかなかった。
 けれどこうして目を開いても見えているものは何も変わっていない。朧を想う気持ちも私のままだ。
 足元には影が浮かんでいた。誰が化けたわけでもない。正真正銘、私の影。怯えることしか出来なかった闇(あいて)は大人しく従っていた。

 教わったわけでもないのに、力の使い方は初めから理解していた。
 渡り廊下の向こうには見張りがいて、扉から外に出れば見つかってしまう。
 別の道を……
 例えばそう、庭に生える樹は桜だろうか。幾重にも伸びた枝に太い幹が影を作り出していた。あの影を通り抜けるとか……
 私の力は影、影のない女には似合いの力。同じ影なら、この距離くらい超えられるのではないかと想像してしまう。きっと影に沈むことも出来る。そう信じて、自分の影に触れた。
 触れたはずが、手は影に沈んでいた。再び闇に包まれたがあの時とは違って息苦しくはない。むしろ安心するようなものだ。

 光に手を伸ばし、目を開けると庭に立ち尽くしていた。小さくて、広いのに狭い。孤独だった私の世界を――外から眺めている。
 どうやら成功したらしい。自分の意思で踏み出した。もう後戻りはできない。たとえ血を分けた人たちから見放されても後悔しないと決めた。

「たまには私から会いに行ってもいい?」

 たまにはどころか思い返してみれば初めてだけれど。あえて言い直すことはしないでおく。
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