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二十二、旦那様の家族事情

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「俺も海の底まで付いて行けたら良かったのにな。そしたらお前の両親にも挨拶出来ただろ?」

 人間と人魚。私たちの取引は成立したけれど、いきなり両者が手を取り合うことは難しい。そもそも私たちは同じ場所で暮らすことが出来ないわけで。人間である旦那様が海の国に行くことが叶わないように、私たちだって陸には遊びにさえも行けない。お互いの間にある溝が埋まるには時間が必要だ。
 つまり旦那様が私の家族に会える可能性は今のところ限りなく絶望的。あまりにも残念そうに呟くので私は励ますように明るく声を出す。

「気にする必要はありませんわ。父は気難しいのです。旦那様、たくさん小言を言われてしまいますよ?」

「大切な娘をもらったんだ。覚悟してる」

「私だって旦那様のご両親に挨拶をしていないのですから、きっと礼儀知らずと思われているに、決まって……」

 言いながら、さあっと血の気が引いていた。

 まさか、まさかよね?

「あの、まさかとは思いますけれど。さすがにご両親には結婚の報告、していますよね?」

 親友であるエリク様の慌てよう。お城の混乱ぶり。町の人々の驚き方。では実の両親はと心配するのは当然の流れだった。

「報告はしたぞ」

「そうですよね。私ったら、疑ってすみませんでした」

 ああ良かったと息をつけたのも僅かの間だ。

「手紙を送っておいたからな。さすがに届いてる頃だろ」

「事後報告もいいところ!?」

 それ、胸を張って言えることじゃありませんからね!

「え、あの、旦那様って……王子様ですよね!? 本当に本当の!?」

「一応な」

「だって王子様が結婚するって、一大事ですよね!? 私、きちんとご挨拶に伺った方がいいんじゃ……お、怒られません? というか絶賛怒られているはず!」

「そうか?」

「そうか? じゃありませんわ! だって、王子様なんですよ。王子様にはもっと有益な結婚相手がいたはずで、それなのに私、許可も取らずに結婚なんて……」

「俺は損得で結婚相手を決めたくはないぜ。ちゃんと俺が選んだ、愛した奴と結婚したい。お前は違うのか?」

「それは、そう、なのですが……」

「なんて、無理やり結婚を迫った俺が言えたことじゃないけどな。それと両親の話だが、母はいないから安心していいぞ」

「いない?」

「ああ、いない」

 そう告げる旦那様はどこか寂しそうだった。

「なあエスティ。仮にもこの国の第一王子ともあろう人間が小さな港町にいるんだ。おかしいとは思わないか?」

「……はい」

 ニナに質問してしまうほどには気になっていましたとも。

「俺が期待されていないからさ」

「どういう意味です?」

「俺の母親は平民で、俺が幼い頃にいなくなった。顔も覚えてないよ。残された俺にはなんの後ろ盾もない。父の親戚にあたるイストリア公爵家に拾われることでなんとか王子としての地位を保てているようなものさ。誰も俺が父の後を継げるとは期待していない」

 てっきり謙虚さから来るものだと思っていたけれど、だから旦那様はいつも自分のことを一応と言うの?

「悪かったな、エスティ……」

「どうして私に謝るのですか?」

「そんな奴のところに嫁に来て、がっかりしただろ」

 もしかして私が王太子妃になって贅沢をしたかっただとか、いずれ王妃になりたかっただとか、そういう野望を抱いていたと思われています? だとしたら検討違いもいいところです。きっぱり否定して差し上げますわ!

「いいえ」

 やはり私の発言は予想外だったのか旦那様は目を丸くしていた。

「旦那様、なんのために私が海まで全力で走ったと思うのですか?」

 足は震えて息が上がった。心臓は破裂しそうなほど激しく音を立て呼吸は苦しい。それでも走り続けたのは一秒でも早く伝えるためだ。

「みんなに旦那様のことを自慢したかったのです! 私の旦那様はとても誠実で、優しくて、私のことを大切にしてくれたのだと! たくさんの人に慕われて、責任感があって、真面目で……私、旦那様と過ごした時間は短くても、旦那様のいいところならたくさん知っています。それも王子だとか、身分には一切関係のないことばかりですわ!」

「エスティ……」

 私を呼ぶ声はいつもより弱く感じた。

 いつもの自信はどこへいったのですか? いつものように、笑ってくださいよ。ねえ、旦那様……

「私は王太子妃になりたくて妻になったわけではありません。王妃になりたかったわけでもありません。それよりも私には大切なことがあるのです!」

「な、なんだ……?」

「私の両親は、厳しいけれど娘を愛し、見守ってくれる人でした。姉たちは優しく、妹はこんな私のことを慕ってくれました。私は海の国で、贅沢なほどに幸せだったのです。それなのに私は、いつも何かが足りないと考えてしまう強欲な人魚。その足りないものを埋めてくれたのは貴方ですラージェス様!」

 あの日、美味しい物を食べさせてくれると言ってくれた。私にはそれだけでよかった。

「ですからそのように自分を卑下するような真似、私には賛同出来ません! 旦那様の身分も、生い立ちなんて私には関係ないのです。文句ありますか!? あってもまずは帰るんですっ! 夕食に遅れてしまいますわ。さあ――」

 私は旦那様の手を少し強く引っ張った。私よりも体格のいい旦那様を引きずるなんてことは出来ないけれど、立ち尽くしていた旦那様はやがて一歩を踏み出す。さらに私が手を引けば静かに歩き出し、隣へと並んだ。しばらく歩くと沈黙を守っていた旦那様が呟く。

「なあ、海の国ってどんなところだ?」

 家族の話題はここまでということでしょう。旦那様が気持ちを切り替えたのなら私も従いますわ。無力な自分は歯痒いけれど、私はまだこの人に掛けるべき言葉を持っていないから。

「いいところですわね。走る必要もありませんし」

「最初に浮かぶのがそれかよ」

 呆れの混じる小さな笑い。旦那様に笑顔が戻るよう、私は大袈裟に話す。

「仕方ありませんわ。久しぶりに全力で走って疲れたんですもの!」

「それは置いとけ」

 仕方なく私は走りつかれた記憶を一旦封印する。そして今度こそ懐かしい景色を思い浮かべた。

「とても美しいところです。旦那様のお城とは随分形が違いますけれど、海の国にも王宮があるんですよ。多くの人魚たちが暮らしていて、それはそれは色鮮やかで。私の青に、緑や黄色、人魚たちの姿は花が咲くような美しさでした。鳥はいませんけれど、魚たちは自由に泳ぎ回ります。木はありませんが、魚たちは珊瑚礁に戯れるのですわ」

「そうか。本当に、お前と一緒に行けないことが残念だな」

 私もいつかこの人に見せてあげられたらと願ってしまう。でもそれが叶わないことを知っているからせめて伝えたい。

「旦那様が海の国に行けないのなら私がたくさんお話すればいいのです」

 十七年暮らしてきた思い出は語り尽くせるものじゃない。旦那様の声は寂しそうなままだったけれど、いつしか繋がれた手には力が込められていた。歌を捧げる勇気はまだないけれど、この人のためにしてあげられることがあるのは悪くないと感じた。
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