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一、転生人魚姫の悩み

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 海の真ん中こんなところで呟いても叶わないことはわかっている。それでも口にせずにはいられないことがあった。

「わたあめが食べたい……」

 もう一度食べたい、懐かしいお菓子の名前。
 空と海の境目から生まれたような入道雲。白くふわふわとしたそれは祭りや縁日で売られていた綿菓子を彷彿とさせる。舌に乗せれば瞬く間に消え、口の中に広がる砂糖の甘さ。

「こんなことになるのなら、もっとたくさん食べておけば良かったのよね」

 懐かしさに少しだけ泣きたくなった。
 もしかして私、今、大人気ないと思われたかしら……。でもでも、大人だって恋しくなるのよ、あの味が! 子どもが並んでいるところに混じって買いにくいだとか、遠慮なんてしなければ良かったのよね。二度と食べられなくなることがわかっていたらもっとたくさん食べたのに!
 いくら後悔したって遅いけれど、こんなことになるなんて一体誰に想像が出来た?

「まさか生まれ変わって人魚になるなんて思わないでしょう!?」

 やり場のない憤りにばしばしと海面を叩く。
 雲を見上げる私は陸地から遠く離れ、見渡す限りの海の真ん中にぽつりと浮かんでいる。決して遭難しているわけではありません。上半身は人間と同じだけれど、私の腰から下は青い鱗に覆われている。

 私の名前はエスティーナ。見ての通り、人魚よ。
 けれどそれとは別にもう一人、私には別の世界で人間として生きた記憶があった。体験したこともないような経験に、知るはずもない知識が蓄積されてたのだから混乱もしたけれど、ある一言がすんなりと現状を受け入れさせてくれたわ。

 これが異世界転生――ってね。

 ここは異世界? 生まれ変わって二度目の人生? その手の小説ならお腹いっぱい読んできたもの、私は大人しく新しい人生を全うするだけよ。
 そうして現実を受け入れ辺りを見渡すと、この世界は私が生きた世界とは明らかに違っていた。
 かつて私が生きていた世界で人魚は空想上の生き物。絵本や物語の中にしか登場しないことは発達した文明によって証明済み。人ですら深海までたどり着けるのだから思い返せば凄い時代だったと思う。
 この世界の文明は、まだそこまでの発展を見せてはいない。海から何度か港町の様子を偵察したこともあるけれど、コンクリートのビルなんて一つも存在していなかった。町行く人たちの服装も、まるで歴史の授業。西洋ファンタジーの世界を覗いているみたいだった。

 ところで前世の私についてだけれど。前世の私はよほど働き者だったのね。思い出す場面ではひたすら仕事に打ち込んでいたわ。
 毎日書類を相手にしては机に向かっていた。常に疲労と肩こりに悩まされていたけれど、その点人魚は素晴らしいわね。立って机に向かう必要がないのよ。
 まあそれはいいとして、人魚には他に重大な問題があった。ええ、それはもう大問題よ……

「どうして人魚はお腹が空かないのよー!!」

 仕事を頑張った自分へのご褒美って、なんだった?
 私にとってのご褒美はね、美味しい物だったわ。

 辛い仕事もその後に待ち受けているごはんのことを思えば頑張ることが出来た。奮発して、ちょっといいお肉を食べたり。おかわり自由のレストランで端から順にお皿に盛ったり。限定スイーツのために何時間も並んだり。そんなことが日々の楽しみだった。もちろん小説や漫画も楽しみの一つだけれど。
 朝から晩まで働いて、時には残業もして徹夜して。仕事帰りにはコンビニでごはんを買うのが日課。季節によって品を変えるコンビニは私の心を掴んで離さず、頑張った日には贅沢にデザートも添えたわ。
 休みの日にはネットでおすすめの店を訪ねた。そこに美味しいと評判の料理やお菓子が待っているのなら、何時間でも並んでいられたわ。
 ボーナスが入った日には高級ホテルのレストランでディナー。ホテルの雰囲気や、食事に恥じない自分になりたくて、このためだけに精一杯のおめかしとテーブルマナーを学んだ。
 そうして美味しいものを食べて、また仕事に戻る日々。長く働くうちに難しい仕事も任されるようになった。後輩もできて、責任も生まれて、時には酷く疲れてしまうこともある。でも美味しいものを食べたのなら、また頑張ろうと思えた。

 けど人魚なんてやってたら永遠にチャンスはないじゃない! 海水飲み放題!? そんなの嬉しくないわよ! やってられないわ! 私はごはんが食べたいの!!
 だって私は知っている。前世で食べていた料理の美味しさを、食材の味を。身体が、舌が、脳が憶えている。
 はっきり言いましょう。私は一つ、仲間に隠していることがある。十七年間、ひた隠しにしてきた私の本当の思い。それは……

「野菜が食べたい。お肉が食べたい。魚が食べたーい!!」
 
 転生してから十七年、この感情は禁断症状のように募っていくばかり。こうして人間がいない海の中心で欲望を叫ぶことが現在私の日課だ。
 虚しいって言わないで!
 通常人魚は海面に姿を見せることはしない。海の中だと誰に聞かれるかもしれないけれど、こうして海から顔を出してしまえば叫び放題なのよ。滅多に船も通らないしね。
 けれどいつまでも見上げていて涎が伝うなんてはしたないわ。いくら見上げても雲は食べられないし、千切れもしないのよ。
 思いきって背後に倒れ込むと優しい海が私を受け止めてくれる。どれだけ沈んでも、どれほど長く潜っていても、息が苦しくなることはない。見渡す限りの海を前に、自分が人魚なのだと改めて自覚する。
 波に身を任せて漂えば、海の世界はどこまでも自由だ。視線の先では前世の海では見たこともないような色鮮やかな魚たちが泳ぎ回り、彼らも自由気ままであることを見せつけられる。

 塩焼き、寿司、刺身、てんぷら、煮付け、ソテー、ムニエル……

「はっ! 落ち着きなさい、私!」

 揺れる海藻を見ればワカメか昆布か……貝殻を見れば真珠よりも牡蠣……

「ううぅ……私ってば人魚失格ね」

 情緒の欠片もない。ファンタジーの王道・人魚に転生したっていうのに思い返すのはごはん、ごはん、そしてごはんのことばかり。
 仮にも父親はこの海を統べる王。これでもれっきとした人魚の姫、人魚姫だっていうのに私ったら……

「ここに王子様がいたら残念な人魚姫だって、呆れられてしまうのよ。こんな人魚姫でもいいと言ってくれる王子様はいるかしら……」

 でもごはんが食べたーい!!

 この時の私はまだ知らずにいた。後悔十七年目にして転機が訪れることを。
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