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「大変失礼しました。勘違いとは、お恥ずかしい限りですね。夜会はあなたの噂でもちきりでしたから、僕も気になってしまって」

「新参者のわたくしがよほど珍しかっただけですわ」

「とんでもない。僕も貴女に心を奪われた一人ですから」

(いえ、貴方婚約者がいるでしょうに)

「どうか見送りを許可していただけませんか?」

 さほど遠い距離でもない。ここまで言われては折れるべきかとメレは諦めた。

 玄関先でエセルを見送りメレはキース低の敷居を潜る。すると顔目掛けて何かが飛来した。
 視線を覆うようなそれを慌てて受け止めれば、正体は乾いたタオルである。ノネットかと手元から視線を上げればオルフェが出迎えていた。

「わたくし家を間違えた?」

 どう考えてもここはキース邸だが。

「俺が誘ったことだ。風邪でも引かれちゃ寝覚めが悪い。不戦勝で勝っても嬉しくないぜ。ノネットが温かい飲み物を用意している。早く温まれ」

 オルフェリゼ・イヴァンはお人好しなうえ律義な人間だとメレは認識を改めた。
 次に会ったら言いたいことがたくさんあるはずだったのに、不意打ちで待ち伏せされては混乱もする。けれどこの機会を逃してはいけないと思った。

「イヴァン伯爵!」

 慌てていたのか予想していた以上に大きな声となった。

「どうした?」

「……色々と、その、悪かったわ。何より一方的に帰ってしまって、プレゼントも決まっていなかったのに、わたくしのせいで時間を無駄にさせたわね」

「いや、目星はついた。お前のおかげだ」

「そう、なの?」

 真っ直ぐに見つめる瞳、そこに怯えの色は窺えない。

「……良かった」

 張りつめていた緊張が解け息を吐く。
 それはどんな意味を持つ?

(わたくしどうして良かったと……。役目を果たせたから? それとも彼が、変わらずに接してくれたから?)

 対等ではいられないと思った。それなのに彼は臆することなくメレの前に現れた。しかも心配までされている。
 強張っていた肩の力は抜けていた。

「無神経だった。悪いのは俺だ」

「いいえ。貴方は知らなかった」

「だが――」

「わたくしが勝手に動揺して逃げただけ。貴方は何も悪く――って、わたくしたちこんな問答をしているなんて可笑しいわね」

「そうだな」

 口を開けば喧嘩越し、挑発的なものに変換されてばかりいた。それが互いを庇い合っているなんて。
 どちらからともなく笑いが零れた。

「ありがとう。お互いに水に流しましょうか」

「賛成だ」

 たとえ一瞬で乾かすことが出来ようとタオルで拭ったのは素直に嬉しいと思えたからである。無論オルフェもそれを承知で投げただろう。それでもあえてタオルを渡してきたのは心配の現れなのかもしれない。

「失礼するわね」

 歩き出したメレは風を纏った。さすがにこのままでは床が水浸しになってしまう。

「お前、エセルと一緒だったのか」

「ええ、偶然ね。濡れたわたくしを見かねて送ってくださったのよ。それが何か?」

 帰る直前だったはずのオルフェは方向転換しメレの腕を取って連行する。

「ちょ、ちょっと……?」

 自分の家のように勝手知った足取りで進まれては二重の戸惑いが生まれた。
 問答無用でノネットの元へ連れて行かれる。

「メレ様、お帰りなさい!」

「た、ただいま?」

 当たり前のようにオルフェを受け入れているノネットに目眩が。

「ノネット。わたくしの留守中に、勝手に対戦相手を家に上げてはいけないわ」

 きょとんとしたノネットは「でも……」と続ける。

「キース様もオルフェ様なら構わないって、棺桶越しに許可してくださいましたよ」

「キース……」

 彼らを顔見知りにしてしまったのは誤算だった。ノネット一人ではオルフェの侵入を渋ったかもしれないが、家主の許可と言う免罪符があれば話は別。キースも顔見知りの来訪に警戒することはないだろう。

「どうぞ! 特製のハーブティーです」

 冷めてはいけないとメレはソファーに腰掛け口を付けた。それはともかくとして理解しがたいことがある。

「それで? どうしてイヴァン伯爵様は、わたくしの正面に座って一緒になってティータイムに興じているのかしら。ノネットも、わざわざ給仕することないのよ」

「でも、せっかくメレ様の心配をして訪ねてくれたわけですし」

「感謝するぜ、ノネット。美味かった」

「ありがとうございます!」

 自分に褒められた時よりも喜んでいるようなノネットに主としては複雑だ。

「もう用は済んだでしょう。居座る理由はないはずよ」

「メレディアナ、俺の家に来ないか」

「ゴホッ!」

 嗜んでいたお茶を噴き出しそうな驚愕が襲う。とっさに呑みこんだせいで若干むせ返った。

「――ケホッ、な、もちろん返事はノーだけれど、いきなり何? 理由くらいは聞いてあげる」

 喉の痛みにうっすら涙を浮かべながらも意思表示は怠らない。
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