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「それはお気の毒でしたね」

「図々しいことは承知しています。ですが、よろしければ力を貸していただけないでしょうか。一曲だけで構いません。どうか哀れなわたくしに情けをいただけませんか!」

 眉を寄せ悲痛な面持ちでメレは訴える。

「良い女優になれそうですね」

 周囲に聞こえないような、とても小さな呟き。もはや唇が動いているだけの領域である。とはいえ唇の動きだけで音声を拾えるメレであった。

「何かおっしゃいまして? 失礼、よく聞こえませんでしたわ。どうでしょう、皆様も今一度お聞きしたくはありませんか?」

 呼びかけを合図に拍手が起こる。メレは観客までも味方につけ始めていた。
 ラーシェルは指示を仰ごうと主を見やる。
 オルフェは頷き、彼らにとってはそれだけで十分なのだろう。選手交代とばかりにオルフェが歩み出る。

「まずは観客を見方につけるか。しかも可哀想なフリに即興コンビときた。観客も大した期待はしていないだろうな。期待の低いスタートとなれば驚きも増す――か?」

 負け惜しみのように悔しさ滲む響きではなく、単純に感心しているといった様子で囁かれる。

「貴方ほど捻くれていないの、そこまで計算高くないわ。ただ、ラーシェルまで巻き込んで勝利してやったら誰かさんはすごく悔しがるかと思っただけよ。もう幕が上がるので、失礼させていただくわね」

「幕?」

 オルフェの疑問はすぐに解決することになるだろう。ここからは魔女の舞台。メレ自ら構想を練り、脚本を書き、演出し、演じ……大忙しの数分間の始まりだ。


 開幕は暗闇から――

 突如照明が落ち、会場は騒然とする。あらかじめ決めておいた演出ではあるが、結果的に演奏の興奮を冷ますのにうってつけだ。

 一つ、また一つ小さな明かりが灯る。
 階段上には仮面をつけた男が一人、影のように映し出された。この闇が演出の一環であることはもう伝わっているだろう。
 手には抜き身の剣が一振り、そしてラーシェルの奏でる音楽。
 これだけ条件がそろえば敏い者は気付く。

「もしかしてこれ、あの流行りのオペラ?」

 囁くように答えが飛び交う。
 それは魔に魅入られた少女の美しくも儚い愛の物語。人気小説を原作にしたオペラは剣を手にしたヴァンパイアが少女と出会う場面から始まる。

「私も観たわ! 吸血鬼と人間の禁断の恋、なんて美しいのかしら! 幸運にもチケットが取れて足を運んだけれど、主演のアルベルト様の美声が今も忘れられないほどよ! でも、あの方はどなたなのかしら?」

「存じませんわね。あの方、オペラの真似事でもなさるのかしら……こんなところで?」

「そうよね。ここは劇場でもないし、あの迫力の舞台が観られるわけないもの。アルベルト様ほどの名優が他にいるとも思えないし」

 期待から一転、落胆したような反応を見せる。
 様々な観客の反応を受けながらメレはキースの初舞台を見守った。

(あなたならやれる。さあ、驚かせてやりなさい!)

『ああ、美しき人の子よ』

「え――」

 その瞬間、熱狂的な原作ファンまでもが言葉を失った。
 聴き惚れたのだ。
 メレの思惑が成功したことはこの反応で十分伝わった。ほとんど人と会話することのないキースの声は澄んでいる。一度声を張れば弱々しさが嘘のように、心地良いほど耳に響くのだ。そもそも演技力は期待していない。暗闇と距離、さらに仮面があれば表情も読めない。彼に期待しているのはその美声、旋律に乗せてしまえば問題ない。

 切なげに伸ばされた手。
 その先には応えるように相手役の少女が姿を現す。

 誰もいなかった場所に忽然と。もちろん魔法を使っているが、人間にしてみればそれだけで驚愕の演出になった。
 無論、正体はメレである。同じように仮面で顔を隠し、演目のためにドレスの色も深紅から純白へと塗り替えた。髪色は白から眩しいばかりの金へ。これでオルフェとラーシェル以外に気付かれることはない。

『こんなにも心焼かれる感情に苛まれながら何故! 私の胸は熱くならないのか!』

 ラーシェルの名妓に乗せ、キースの演技は白熱する。
 燃え盛る感情を表すように剣を振るう。
 そんな葛藤など知りもしない少女は優雅に踊り続けていた。

 メレの役割はキースの邪魔にならないようサポートし華を添えること。灯りに蝙蝠の影を飛ばし、霧を起こし、代わる代わる照明を当て、さらに少女は踊る。目が回る忙しさとはこのことだ。

 愛しあえども結ばれない二人。本来長時間を越える大ロマンスなのだが、今回は良いとろだけを凝縮しているので展開は早い。立ち見のため、何より客を飽きさせないための演出だ。既に物語は終盤を迎えていた。
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