銀鎖

松本尚生

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五、銀鎖

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(あの子が見つかったわ)

 純香が告げたのは、警察署だった。

「どういうことだ。そこに悟がいるのか。ケガしてないか。まさか補導されたとか」

(ホント、あなたの方がよほど『親』ね)

「純香さん!」

 純香の声が妙に沈んでいるのが気になったが、取るものも取りあえず遼一は車を走らせた。純香から聞いた中央署に入ると、ひんやりとした暗い部屋へ通された。

「悟!」

 純香が振り返った。 

「目撃者がいたそうなの。だから、そのまま戻してくれるって」

「は!?」

 純香の身体を避けて部屋へ入ると、白い布をかけられた小山があった。

「悟!」

 遼一は小山へ駆け寄った。台に乗せられたそれは。

 悟の身体だった。

 すっかり冷たくなって、無言で眠っている。

「悟…………!」

 白い布の下には、傷ひとつないキレイな寝顔。

「どういうことだ、純香さん」

 遼一は純香の肩をつかんで前後に激しく揺さぶった。純香は目を伏せた。

「橋から飛び降りたのよ、この子。心臓マヒだって。この時期川の水は冷たいから。だから、傷ひとつないし、水も飲んでない」

 遼一は純香の肩を振り放し、寝台へ駆け寄った。

「悟……悟……悟……!」

 遼一は悟の名を叫び続けた。何度呼んでも、目を開けないのが不思議だった。生きて輝く瞳を見せてくれないのはどうしてだ。

「この子、別にあの家に帰りたくもないでしょうけど、あなたのところへ運ぶ訳にもいかない。このまま斎場へ搬送するわ」

 遼一は悟の名を呼ぶのを止めて振り返り、涙の中から純香を睨みつけた。

「冷たい女だな」

「ええ、そうね。あなた、昔から知ってるでしょ」



 どうやって移動したか分からない。

 ガランとした部屋、金属の枠組みの手前に敷かれた布団に、悟は寝かされていた。妙に光沢のある冷たい布団に。

「これ。この子の身につけていたものと、あなたの車の鍵」

 ここへ置いておくわね。そう告げる純香の声がする。何かを空けた紙箱なのだろう。そこへ金属製の物品がいくつか入れられ、悟の枕許に置かれる。

 背後で、斎場の担当者と純香が打ち合わせをする。篠田氏が到着し、悟の亡骸を離れたところから確認する。遼一は彼のために場所をよけた。形通りの焼香をして下がる篠田氏。

 そうだ。あんたはこの子を愛しちゃいない。そしてそうする謂われもない。

 遼一の視界が暗くなる。純香の髪が鼻先で揺れた。

「遼一くん。あなた、何飲むの」

 純香は焼香台の前に膝をついた。

「お酒、要るでしょ。日本酒? ワイン? ウイスキー? 眠ってしまっても大丈夫よ。今は便利なお線香があるから。夜通し見張っている必要はないのよ」

 じゃあ、日本酒を。遼一はそう口にしようとした。咽から出た声がそういう言葉を成したか分からない。純香はうなずいて去っていった。

 遼一は、自分が着ているのが濃緑のセーターであることに気づいた。

 あの日、寒がる悟に着せてやったセーターだ。

 腕を上げさせ、すぽっとかぶせて通してやった。幼児に着せるように。

 あのとき、悟は、どんな顔をしていただろうか。

 目を伏せ、頬を少し赤くして、喜んでいたろう。そういう反応をする子だ。遼一に何かされるのが嬉しくて、はにかみながら小さな声で礼を言う。いつも、そうだった。

 表面は静かに、しかし目許をふっと赤くして。

 あの喜ぶ姿を目にしたくて、何でもしてやると決めていた。たったひとつ、遼一が見つけた生きる意味だった。

 悟と出会って、この子を愛して、遼一は自分が何のために生きてきたかを知った。

 純香が言った。

「今夜は、ふたりだけにしてあげる。冷たい女からの精一杯のプレゼントよ」

 篠田氏を何と言って説得したのか知らない。とにかく、純香はその約束を守ってくれた。

 夫妻が出ていき、斎場の担当者がお膳を持ってやってきた。

「何かほかにご要り用のものはありますか?」

 仕事柄控えめだが、相手を安心させる穏やかな笑顔だった。何も要らないと言おうとして、遼一はひとつ思いついたことを頼んでみた。

「ココア……」

「はい」

「ココアをもらえますか? 温かいココアを」

 担当者は困ったような顔をして笑っていたが、缶入りココアとマグカップを持って戻ってきた。本格的なものがなくて、と担当者は済まなそうに盆を差し出した。

「充分です」

 遼一は礼を言った。

 悟は部屋に道具を持ち込んでから、いつも遼一のためにコーヒーを淹れ、自分の分には砂糖と牛乳をタップリ加えて飲んでいた。本当はココアが好きだった。もう、自分のために、好みを我慢しなくていい。

 缶を空け、白いマグカップにココアを注ぐと、甘い香りと湯気が立った。

「さー、ココアだぞ。お前好きだろ。ここ置くからな」

 遼一は自分のためには酒を注ぎ、カチリとマグカップにグラスを当ててひと口飲んだ。

「別に俺につき合って、コーヒーばかり飲まなくてもよかったのにな」

 嬉しそうにドリッパーに湯を注いでいた悟の姿が目に浮かぶ。遼一が「うまい」と褒めると、にこりと笑った。悟は、遼一のことを好きだったのだ。

 そうだな。俺もきっと、初めから――。



 あの晩、指輪の約束をした夜、悟の言った言葉。

(クリスマスには僕を上げる)

(言っとくけど、返品不可だからね)

(ずっと、あなたのものにしていて)

 頬を染めてそう言った悟。遼一の腕の中で、瞳をうるませて。



 嘘つき。お前はお前を俺にくれたんじゃなかったのか。

 返品不可とか言っておいて、さっさと回収しちまっちゃダメじゃないか。

 ずっと俺のものでいてくれるんじゃなかったのか。

 なのに、俺を置いて、たったひとりで。



「後で『返せ』って言っても聞かないぞって。俺、お前にそう言ったよな」

 悟はきっと自分と純香の会話を聞いていたに違いない。

 呪われた、自分の出自を知ってしまったに違いない。

「俺は、ずっとお前と生きていく積もりでいたよ。お前が甥でも。お前さえ嫌じゃなかったら」

 そして当然、息子でも。

 血を分けた我が子を恋人として愛する。あの家で生まれた自分たちにかけられた呪いでも、そうでなくても、もうどうでもよかった。ただ悟の耳には入れないでおこうと決めた。無駄に悩むのは自分だけで、自分と純香だけでいい。

 純香は、産んではいけない子を宿したことを遼一に告げずひとりで産んだ。そのペナルティとして、もうこの秘密を二度と口にしない。この罰は引き受けたらいい。

 自分の罰は、純香をただの異母姉として礼儀正しく接する、悟を見るときに二度と純香を思い出さない、そして悟を一生愛して暮らす。成長した悟がもしも自分を見捨てることがあっても、甘んじてその運命を引き受ける。

 あの面談で、短い純香とのやりとりの中でそう決めた。遼一はそう決めたのだ。

 悟の枕許に置かれた箱には、壊れた腕時計と、遼一の贈った銀鎖と指輪。腕時計の輪の小ささが、悟の手首を感じさせた。か細くて、しなやかな骨格。

「悟……」

 遼一は悟の顔にかけられた白い布をそっとめくった。

「もう一回、笑ってくれよ。頼むから。目を開けて、俺を見て」

(遼一さん……あなたは僕のものだ。僕はそれを信じる)

 ポロポロ涙をこぼしながら、そう言って笑った悟。上気した頬。キラキラ光る涙。

 キレイだった。この世のものとも思えないほど。

 愛らしい姿だった。遼一が残りの自分の時間を全て捧げると誓うほど。

「さー。俺、これからどうしたらいいんだよ。生きてく意味、またなくなっちまったよ」

 青白い悟の頬に、水滴が数粒光った。遼一がいくら責めても、悟は答えない。遼一は慌ててそれをそっと拭った。

 遼一は指の背で悟の頬をそっと撫でた。こうしてやると悟はいつも小さくぷるっと震えて、遼一のシャツにしがみついてくる。そうして遼一にキスをねだる。遼一は唇で悟の唇に静かに触れた。冷たい唇は応えなかった。

「どうして――」

 遼一は首を振った。これ以上眠る悟を汚さないよう、遼一は布を元に戻し、悟を安置した台に、寄り添うように背をもたせかけた。遼一はグラスを傾けた。耳の中に悟の声がした。

(僕はあなたのものだけど、あなたは僕を忘れて生きて。僕はあなたを永遠に解放するよ)

 優しい子だった。いかにも悟が言いそうな言葉だ。遼一は顎を上げて目を閉じた。

 莫迦。俺が解放なんてされる訳ないだろ。俺はお前を忘れないよ。純香さんのことだって十年引きずったんだ。お前のことを忘れるには、俺の残りの人生じゃ足りない。

 俺は、お前と一緒に生きる。これからもずっと。

「とうとう俺、誰のことも幸せにできなかったな……」

 悟、お前のことだけは、何としても幸せにしたかったのにな。

 背で眠る悟の呼吸の音が聞こえた気がした。もう聞こえないその穏やかで優しい息づかいを、遼一は朝までずっと聞き続けて座っていた。
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