銀鎖

松本尚生

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五、銀鎖

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 純香はふと立ったままの遼一に視線を合わせた。

「で? あなたはあの子をどうしたいの? 引き取りたい? どうして分かったの?」

「分かった?」

 純香はくつくつと咽の奥で笑った。

「くく……、そりゃ分かるわよね。これだけ同じ顔をしていれば」

「姉さん、何を言っている? 俺が何を分かったと」

 その瞬間、遼一の心臓が冷たいかぎ爪につかまれた。

「まさか、そういうことなのか。悟は」

 遼一はそこで言葉を切った。

 純香は無表情のまま遼一を見上げていた。無表情の瞳の奥に微かな憎しみがよぎるのが見えた。

「あなた、それでここへ来たんじゃないの?」



「そうか……」

 遼一は片手でがばと顔を覆った。

「三十二引く十七で十五。簡単な計算だ」



 俺はどうしてひとに言われるまで気づけないんだろう。

 あのときも、公園の売店のひとに言われるまで気づかなかった。

 春にあの子に出会ったときも、あの子の顔を見た瞬間、あなたのことを思い出したというのに。



 そうしてどのくらいの時間が経ったのか。純香は宙を見たまま何も言わなかった。

 遼一はそろそろと手を離した。

「あなたの人生への復讐は、完成したんだね、純香さん」

 女は、純香は皮肉に唇を曲げた。

「だからあのとき急いだのよ。篠田との話を」

「どうして……」

 遼一はよろよろと窓際の椅子へへたり込んだ。

「どうしてそんなことを……」

「『どうして』ですって? だから、あたしにできた精一杯だったのよ」

「愛せない子を産み落とすことがか!?」

 遼一は歯を食いしばった。

「あの子がどんな思いで十五年間生きてきたと思う? たったひとりで、親にも顧みられず」

 純香は薄く笑った。

「初めはね。それなりに、普通の母と子でいたのよ」

 純香はゆっくりと脚を組んだ。細くて華奢な骨格だった。昔遼一が見とれたままに。遼一はこのしなやかな細さとそっくり同じものをを愛おしみ、抱きしめている。悟の身体だ。

「村上のお義母さんは、……あなたのお母さんは、あの子にとてもよくしてくれたわ。父が亡くなったあとは、この篠田の家に入ってくれて。あの子の面倒をよく看てくれた。あのひと、あなたを溺愛してたから。どんな形であれ、あなたの血を引いたあの子が、そりゃもう可愛かったみたい」

 自分だけが知らなかった。血の絆は振り切ったと思っていた。それが、こんな形で――。

「お義母さんも亡くなって、あたしはこの家に取り残された。あの子とふたり」

 純香はソファの背もたれに深く身体を預けて息をついた。

「あの子、あなたにどんどん似てくるのよ」

 遼一の肩がぴくりと震えた。

「見た目のことはいいの。誰が見てもあたしに似てるんだとしか思わないわ。あなたとあたしは、もともとそっくりですもんね。でも、大きくなるにつれ」

 純香はそこで言葉を切った。昏い目を薄くすがめて口を開いた。

「……とにかくできがよかったわ。本ばかり読んでたせいかもしれないけど、何を聞かれても大人のようによく答えた。学校の成績もよくてね。そこはあたしの血じゃない。どんどんあなたに似てきて……。さすがのあたしも怖くなったわ」

 あのとき。

 遼一は愛してはいけないこの姉を愛した。不幸の満ちたあの屋敷で、不幸に溺れながらつかんだ希望だった。希望は当然の帰結によって打ち砕かれ、遼一はこの街から追放された。追放という名の脱出を遂げたのだ。

 では、この街に残された純香は。

 残る以外の選択肢がないからこそ、自分の人生をメチャクチャに壊すことで、自分をそうした全てのものへ純香は復讐を遂げた。忌まわしい近親姦の墓標は純香の手許に残された。そうして、あれから十五年。

 純香は思う通りにならない自分の人生のシンボルを、青春時代の最後に精一杯抵抗した証を、毎日目の前にして生きたのだ。犯してはならない罪の証拠を毎日見せつけられて。

 誰にも打ち明けられず、誰にも知られてはならない若き日の罪を。

 母の死にずかずかと乗り込んできた父の愛人を、純香がそれなりに受け入れることができたのは、自分の罪を知る唯一の理解者だったからかもしれない。ある意味共犯関係だったのか。

 そして、遼一だけが知らなかった。十五年、故郷を離れて自由を謳歌していた遼一だけが――。

「あなたの血よね。遼一くん」

 あの子は間違いなく、あのときの、あなたの子供よ。あたし、あなたの子供を産んだの。

 純香の声が呪いのように遼一の耳にこだました。

「そんな……そんなひどいこと」

「そうね。ひどいわ確かに。それだけのことをわたしはした。言い訳はしないわ」

 遼一を見据えたまま、純香は細い脚を組み替えた。

「それで? あなたはあの子にどんなひどいことをしたのかしら」

 自分の血を分けた子だって、知らないでここへやってきたんでしょ?

 なら、何をもって、あなたはここへやってきたの?

 純香の追求は冷酷で、そして的確だった。



 遼一は、自分がひどいことをしていると知っていた。確かによくないことだった。

 窮地から救い出そうとしただけ、せがまれるままに相手をしてやっただけ。そう思い込むことはできたかもしれない。自分の褥に入れてやるには、まだ年若すぎた。罪だった。だが。

 悟は言った。「はじめからあなたが好きだった」と。だから近づいたのだと。

 泣きながらそう告白した悟が、遼一の胸で泣いたあの子が。

 愛おしかったのだ。

 泣いて遼一のシャツを握りしめた指。

「助けて」と訴えた小さな声。

 遼一にほかの選択肢はなかった。

 あの子を抱きしめて、欠落を充たし、笑顔にしてやりたかった。引き返すことはできなかった。なぜなら。

 遼一こそが、どうしようもないほど、悟を愛してしまっていたからだ。

 機械的に時間で線を引くことにどんな意味があるだろう。遼一は思ったのだ。自分が十五年分を愛してやろうと。瞳に命を灯してやりたかった。自分を受け入れ、愛してくれる世界を、あの子に与えたかった。

 遼一が認識していた「ひどいこと」は、年齢的なことだけだった。

 まさか「息子」とは――。 

「そうだ。俺は確かに、ひどいことをした」

「抱いたの」

 純香は特段の興味もないように、聞くともなしにそう聞いた。

「あなたは優しいひとだから。淋しくて泣いてる子にすがりつかれたら、拒めないでしょうね」

 そうして、あの子を愛してしまったのね。

 歌うように純香は言った。感情のこもらない透き通った単調な声で。 

「俺の……子か、悟は」

「篠田も、自分の種でないことは、うすうす気づいているみたい。誰の子かは分からないし、証拠もないからあえて言い出さないけれど。まあ、あのひとも、あのタイミングであたしを引き受けたことに、いろいろメリットはあった訳だから」

 でも、家には寄りつかなくなったわねえ。

 純香は妙に間延びした一本調子で、呪いの言葉を紡ぎ続けた。

 淋しくて泣いているだけなら、遼一は心を動かされない。眉ひとつ動かさず通り過ぎることができる。

 遼一が弱いのは、何の表情も宿さず、ただただ世界を映している、ガラス玉の瞳。

 自分の感情も見失って、固く閉ざしている、冷たい心。

 全てを諦めた、透明な佇まい。

 これらに出会うと、遼一は平常心でいられない。

 何とかして感情を、表情を、命を、取り戻して欲しいと願ってしまう。

 世界が針のむしろでも、自分が胸に守るから、自分が背で針を受け止めるから、笑って欲しい。悲しいでもいい、恨みでもいい、心の底に凍らせた感情を、自分に見せて欲しい。そして。

 この世に希望を取り戻して欲しい。そのためなら自分は何だってする。

 そうして、遼一は悟を胸に抱きしめた。ガラス玉の瞳に、命の光が宿るのを待った。悟の瞳は、遼一の許で生き返ったのだ。純香のときとは異なって――。

 純香。あのとき純香は、確かに遼一を愛していただろう。遼一は最後のあの居間で、純香が一瞬見せた激情を思い出す。「弟であるあなたなんて要らない」、そう純香は叫んだ。遼一が弟でさえなかったら。

 だが純香はこの街に留まることを選んだ。結局全てを振り切って、父の重力から逃れることを選ばなかった。そうして思うようにならない自分の人生に、精一杯の復讐を果たした。存在させてはいけない、血のつながった遼一を愛した証をこの世に産み出した。

 たとえ親らしく世話を焼き、愛情を注ぐことができなくても。

「何だ、この、繰り返しは……。何かの呪いなのか」

 そうして十五年が経ち、帰るまいと誓っていたこの街に、偶然職を紹介されて、戻ってきた数日後。

 悟に出会った。

 純香が、自分と同じくまだ十代だった純香が、守り通した小さな命。

 この世界に、無数の人間がいる中で、ほんの一握り、触れてはならない特別の間柄にあるひとがいる。異母とは言え姉の純香と、その姉と自分の血を分けた息子。

 越えてはならない壁を越えてしまうことでしか、自分はひとを愛せないのか――。

「どうして俺は、いつも」

 吐き気がした。握りしめた拳でみぞおちを強く押さえた。

 バタンと表玄関の扉が閉まった。

 遼一はその音に顔を上げた。

「やだ。あの子、まだいたのかしら」

 部屋のドアを開き、廊下をうかがった純香が言った。

「いや。悟は『外で勉強して待つ』と、俺に確かにそう言った」

「台所の誰かかもしれないわね」と、呟くように純香が言った。

 女主人がひと払いした表側を、お手伝いさんが今通るだろうか。外へ出るなら勝手口を使うだろう。だがしかし、可能性がないではない。

 遼一のみぞおちは鈍い痛みに震えた。

「ちょっと見てくるわ」と、純香は居間を出ていった。
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