銀鎖

松本尚生

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五、銀鎖

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 話し合いが終わるまで。

 悟は外で勉強していると言った。

 母が、悟の同席を拒んだのだそうだ。遼一もそれには賛成だった。

 話の流れで、悟本人の耳には入れたくない文言が出てくるかもしれない。大人の計算で出した言葉で、若い悟を傷つけたくなかった。どんな親でも、未成年の子供が他人と暮らすとなれば、正当な理由を要求する。

 交渉は真実だけでは勝利しない。遼一は制限なく戦いたかった。

 いつも悟を降ろすコンビニを通り過ぎその先の道を折れた。悟の案内で、指示された位置に車を停めた。鉄製の門扉が開いて、車一台分のスペースが空けられていた。

 遼一は口笛を吹いた。

「何?」

「すごいお屋敷だな」

「そう?」

 口数が少ない。悟は心持ち緊張しているようだった。

 玄関を入り、廊下を少し進んで左手部屋に通された。

「じゃあ、遼一さん……」

 悟は遼一の左手の薬指をそっと握って、「がんばってね」と小さく言った。

 遼一は悟の手を握り返し、ポンポンと軽く叩いた。「心配するな」と。

 悟は遼一の目を上目づかいにチラと見て、不安そうな顔を無理に笑顔に変えた。遼一の首に腕を回して頬を寄せ、一度だけうなずいて出ていった。



 遼一は広い部屋を見回した。ガランとして、応接室にしてはいやに広い。

 穏やかなベージュを基調とした部屋の中央には応接セット、窓際に半円のコンソールテーブルと布張りの椅子が置かれていた。サイドボードには額のたぐい、装飾のたぐいは一切なく、殺風景と言ってもいい部屋だった。

 家具を見回して、最後に遼一は応接セットの足下にマガジンラックを見つけた。海外のアンティークのようで、日本のものよりふた回りくらいサイズの大きいそれには、今日の新聞が無造作に放り込まれていた。

 してみると殺風景なこの部屋は、家族の居間であるようだ。

 遼一はレースのカーテン越しに外を見た。南向きの窓からは手のかかった庭木が見えた。正面、門扉の方はこの角度からは見えない。遼一は窓際の椅子に浅く腰かけ、ホステスの現れるのを待った。

 直接訪問してすっぽかしはないだろう。

 観察する対象が尽きた頃、木製のドアがコンコンと鳴った。

 どっしりしたマホガニーのドアがゆっくりと開いて、銀のトレイを持った女性が入ってきた。

「ようこそお越しくださいました。悟の母でございます」

 ゆるやかに結い上げた髪は黒くつややかで、中学生の子を持つ親には見えない。母と名乗った女は頭を上げた。

 床に陶器のポットが転がった。

 ガシャーンと大きな音が広い部屋に響いた。茶色の液体があふれ出し湯気を上げた。トレイに乗せられていた茶道具は、てんでに床に散らばっていた。

 遼一がかけていた椅子がガタンと倒れた。 

「なぜ……。どうしてあなたが」

 女は白くて長い指を口許に当てた。

 遼一は立ち上がっていたのだった。

 遼一は伸ばしかけていた腕を引き戻した。反射的に彼女を守ろうと差し伸べたようだった。戻した腕をさすって言った。

「誰か呼んできましょうか。ひと払いしたんでしょ」

「止めて。誰も呼ばないで」

 冷たい声だった。遼一は腹を見せて紅茶を吐き出し続けるポットを手に取り、床に落ちたままのトレイに乗せた。

「いいんですか? このラグ高価たかいんでしょ」

 女は口に当てていた手を下ろし、ほとんど唇を動かさずに言った。

「どうでもいいわよそんなもの」

 遼一が指をこすり合わせると、わずかについた茶色の液体はすぐに乾いた。

「あなただったの。あの子が通っていた先は」

 聞き覚えのある声。遼一の脳裏に過去の亡霊が蘇る。亡霊と、目の前の女とが、同時に口を開き、悪夢のようなユニゾンを奏でる。

「純香さ……、姉さん」

 遼一は慌てて言い換えた。もう自分とは関係のない、遠い記憶の中に鎮めた女だった。関係があるとすれば、無意味な血のつながりだけだった。

 そう、この街に沈む遼一のルーツから、遼一は解き放たれて自由になったはずだった。

 なのに、なぜ、こんなところで――。

「座ったら」

 純香はけだるくそう言って、自らもひとりがけのソファに収まった。

「昔の映画だったら、絶対ここでタバコを吸ったわね」

 純香はどこを見ているか分からない目をして笑った。

「あなた、変わらないわね。ちっとも老けてない」

 遼一は先ほど自分が倒した年代物の椅子を起こしたが、そこへかけることなく背もたれに腕を載せた。

「姉さんこそ。中学生の子供を持つ親には見えない」

 純香の容姿の若さは、子育ての苦労を放棄しているからだろうか。悟は真剣に向き合って育てても、特段の苦労をかけるような子ではないが。

 純香の子。

 姉の産んだ子なら、悟は甥だ。

「驚いたわ。まさかあなたがやって来るなんて」

 想定外も外、予想だにしなかったこの現実。遼一はとうに捨てた故郷の古い記憶をさらった。

 当時社長候補とされる若者が何人かいて、その中の筆頭と、純香は見合いをさせられていた。婚姻をたてに負債を背負わされるその犠牲者と、あの冬結婚が決められた。

 慌ただしく家を追い出された遼一は相手の顔を見ていない。確かその名を篠田と言ったか。

「そうか……悟は姉さんの……」

 甥なら。

 赤の他人でないのなら、虐待を続けた両親の元から引き離して叔父の許に避難させ、勉強を見てやりながら一緒に住むというストーリーが成立する。

 これは勝機となり得るか。



 悟は自室で、勉強道具をまとめていた。期末テストは今日で終了。あと二ヶ月受験準備に集中できる。

 あんなに苦労した英語も、時制の概念が理解できてからは、どの問題も解けるようになった。遼一のおかげだった。ロシア語の格変化とやらに比べれば、中学で出てくる英語の時制くらい丸呑みしてもよい分量だった。語彙も増えた。

 あとは普通に、日々軽く勉強していけば、多分志望校には合格する。とはいえ、記憶勝負の社会辺りは、あまり油断しない方がいいかも。

 この週末は、理科と社会の総復習に当てようか。そんな風に思って、悟は必要な書籍類をピックアップしていた。

(遼一さんは、うまく言ってくれるかな)

 悟は母親の性格をよく知らない。どこからどう話を持っていくと通じやすいか、全く見当がつかなかった。本来なら、自分の親のタイプに合わせたサジェスチョンを与えておくところなのに。

(ごめんね、遼一さん。全部あなたに任せてしまって)

 悟は春からの生活を想像した。

 朝は遼一の腕の中で目覚める。悟は今までよりほんの少し早く起きて、コーヒーをふたり分淹れる。部屋で仕事をする遼一に「行ってきます」を言って、学校へ向かう。授業が終わったら一目散に部屋へ帰って、ぞんぶんに遼一に甘えよう。遼一から少し株を教わるのもいい。

 親に予定を伝えておくとか、勉強道具をどうするとか、そんな煩わしさは一切なくなる。一日中、遼一のことを考えて暮らそう。

 多分その頃には遼一は部屋を引っ越しているだろう。今よりちょっと広く、ふたりが住むのにちょうどよい、寝室にダブルベッドを置ける部屋に。

(ダブルベッド……)

 悟の胸に甘い蜜が熱くとろけた。別れようとして別れられなかったあの日、ホテルのスイートルームに閉じこめられて存分に抱かれたあのときの感覚が蘇る。きつく抱かれて、息もできないのが、甘くて。

(死んじゃいそうに気持ちよかった)

 悟は手を止め目を閉じた。

(どうしてこんなに好きなんだろう)

 遼一の何が自分をこんなにも夢中にさせるのか。

 多分、自分が初めて出会った人間が、遼一だったんだろうと悟は思う。

 家ではネグレクト、学校ではいじめ。自分を人間扱いして、抱きしめ、愛してくれた、初めてのひと。

 もう、誰も要らない。遼一だけがいればいい。

(遼一さん……)

 悟の鼻の奥がツンと痛んだ。

 そのとき。

 階下でガシャーンと金属性の音がした。

 悟はビクリと振り返った。

 何があったのだろう。遼一が危険な目に遭っていないか。

 確かめなければ。

 悟はカバンをつかみ急いで階段を降りた。 

「止めて。誰も呼ばないで」

 いつもの母の冷たい声が聞こえた。

 先ほど遼一を招じ入れた居間の前で、音を立てずに悟は立ち止まった。

「いいんですか? このラグ高価たかいんでしょ」

「どうでもいいわよそんなもの」

 悟は息を呑んだ。

 これは、初対面の会話じゃない。

 居間のドアは締まりきらずほんのわずか浮いていた。漏れないはずのふたりの会話は、息を潜め耳を澄ませば、ぎりぎり聞き取ることができた。

 苦い唾が湧いた。悟はそれを無音で呑み込んだ。ゆっくりゆっくり息を吐いた。かばんが床や壁に当たって音を立てぬよう、ひもを握り直した。母の声が聞こえた。

「あなただったの。あの子が通っていた先は」

「純香さ……、姉さん」

 ドア越しに聞こえる遼一の声。先ほどの音は何だったのか、遼一の身にとくに危険はないようだ。しかし。

(「姉さん」?)

 遼一は確かに母のことを姉と呼んだ?

 悟は制服の胸のボタンを握りしめた。

 まさか。

 まさか……。

「驚いたわ。まさかあなたがやって来るなんて」

「そうか……悟は姉さんの……」

 悟の歳では、姉弟の名字が異なる場合があるくらいの知識はあった。異母で父の氏へ変更していない場合だ。

 異母。

 とすれば。

(お祖父さんの、婚外子だった……遼一さんが……)

 村上という名字は、遼一を産んだ親のもの。自分は篠田という男に嫁いだ母が産んだ子。だから誰も祖父の名字を継いでいない。理屈は合っている。

(まさか、本当に)

 遼一が母の異母弟なら、自分は遼一の甥、遼一は自分の叔父だ。

(遼一さんが、僕の叔父さん……)

 悟は深く息をついた。誰にも聞かれないように少しずつ、音を出さないように注意しながら。

 いつ遼一の気が変わるか、いつ自分は棄てられるか。いつも不安だった。

 遼一はそんな自分を気遣って、何とか信じさせようと気を配ってくれた。指輪の約束もしてくれた。

 しかし、人間の気持ちを、生きものの変化を、止めることは原理的にできない。不安を完全に消し去ることは不可能だった。そして、自分と遼一は、結婚という社会的な契約に頼ることもできない。不安定な関係だった。

 だが、遼一が母の弟で、自分が遼一の甥ならば。

 血の絆は永遠に消えない。

 何があっても、遼一と自分をつなぐ糸は、切れることはない。一生、未来永劫に。

 悟の腹の底から、温かな波が全身に拡がった。

 安堵だった。

(遼一さん……)

 悟は音を立てないように、廊下の壁に寄りかかった。

 どこかで読んだ。左手の薬指には見えない糸がついていて、それが決まったひとの指につながっていると。約束の指輪は、その伝承を元にした風習だと。

 悟は目を閉じ、学生服の襟許に指を差し入れ、シャツの上から鎖骨に揺れる指輪を握った。

 これがなくても、遼一と自分とは、血の絆で結ばれている。
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