銀鎖

松本尚生

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四、過ぎゆく秋と、冬の初め

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 空になった皿は、もう邪魔されないよう廊下に出した。朝食の注文もドアノブにかけた。

 満腹になった悟はうつらうつらと前後に揺れ始めたので、遼一がバスルームまで抱えて連れていき、歯を磨かせた。悟は幼児のように遼一に歯ブラシを手渡され、水の入ったコップを渡されて、何とか歯を磨ききった。

 うがいをした姿勢のまま洗面台に突っ伏してしまいそうだったので、今度は悟を抱き上げ、ベッドまで運んでやった。手間のかかる子供だ。遼一は苦笑した。

 だが、そんな面倒も疲れも、この寝顔を見れば全てチャラだ。

 遼一に寝室に運び込まれ、そっとベッドに下ろされた悟は、そのまますーすーと安らかな寝息を立てた。

 一週間まともに眠っていなかったのだ。存分に眠ったらいい。そして遼一も。

 時計はまだ十時前だったが、思い切って早く寝てしまうことにした。

 かたわらに悟の体温があるとき、遼一は安心して休むことができる。気力が充実して朝を迎えることができる。これまでの数回の経験でそれは明らかだった。

 そして今日はいつもの遼一の部屋でひとつのふとんにくるまってではなく、ふたりの体格にはゆとりのある大型の寝台だった。悟の規則正しい寝息が遼一を深い眠りに誘い込んだ。

 意識を完全に失う直前、遼一はベッドを置ける部屋に引っ越そうと心に決めた。

 

 熟睡した。

 まだ暗かった。遼一は無意識に腕を伸ばし、悟の体温を確かめた。

「う……ん」

 遼一に触れられ、悟も眠りから覚めないまま遼一の胸に身を寄せた。遼一はその身体に腕を回した。

 額を寄せて、小さな巣の中で同胞と互いに温め合うひな鳥のように。深夜のまどろみは静謐で優しい。

 次に目を覚ましたとき、窓の外はグレーと乳白色の空だった。

 遼一は腕の中に、悟の素肌を抱いていた。幾度かの寝返りで、パジャマ代わりに身につけていた白いバスローブからこぼれ落ちたと見える。幼い甘い香り。すべらかな肌触り。極上の感触だった。

 遼一は悟の背の窪みを撫でた。華奢な身体には無駄肉もなく、背骨の凹凸を楽しむことができた。肩甲骨から背骨を伝い、脚の付け根まで。

「ん……」

 悟が柔らかく伸びをした。身を反らした悟の胸で、うっすらと紅を刷(は)いたような花びらが揺れた。花弁はわずかに隆起して遼一を誘っていた。

 遼一は隆起に口づけた。舌を這わせ、甘くかんだ。悟の咽が切なげに鳴った。反射的に腰を遼一にすりよせながら、悟は昨夜とは打って変わって紅くうるんだ唇を開いた。

 遼一は指と舌とで悟の生理的反応を甘い快楽で満たした。悟はされるがままに身をよじり、甘えるような悲鳴を上げて到達した。放心している悟の表情もまたエロティックで、遼一を惑溺させるに充分だった。

 我に返った悟は遼一の視線に、悔しげに唇をかんだ。負けじと遼一の肩に手をかけ、ベッドに仰向けにさせる。

 悟は裸のまま、不器用に遼一のバスローブのひもを引いた。精一杯荒々しく遼一の身体からそれらを外し、現れた肉体に口づけた。

 十五歳の情熱は歳上の恋人を満足させようと必死で、健気だった。ここ数週間の経験で悟も遼一の反応を快楽へ導くことができるようになっていた。そのときが訪れ遼一は悟の口の中で果てた。悟は脈打つ遼一を舌でなだめ、名残惜しげに舐めとった。

「いつまでも終わらないといいのに」

 悟はそう呟いて、遼一の隣にパタリと倒れた。

「いつまでも一緒にいられたらいいのに」

 もう朝だ。



 指定した七時きっかりにまたチャイムが鳴り、パンとコーヒーにタマゴと果物の朝食が届けられた。悟は寝室に引っ込み、バスローブのひもを固く結んだ遼一が応対した。配膳ワゴンを見送って、遼一は悟を呼んだ。

「さー、もういいぞ。出てこいよ」

「うん」

 悟はコーヒーをひと口飲み、嘆息した。

「あーあ、あと三年かあ。早く十八歳にならないかな」

 遼一も悟を後ろ暗い秘密にしておくのは本意ではない。コーヒーカップを両手で抱える悟の頭をポンポンと叩いて励ました。

 腹が減っているのかいないのか、悟はオムレツを小さく切って、少しずつ口に入れた。上品というか、食欲不振なのか。固形物より先にコーヒーが減った。遼一は銀のポットを傾けて、悟のカップに注ぎ足した。

「腹減ってないのか」

 昨夜ゆうべ張り切っていろいろ頼みすぎたろうか。

「そんなことないよ。おいしいし」

 悟はベーコンをまた小さく切り刻んだ。

「ただ、なんか……」

「なんか?」

「胸がいっぱいで」

 ひと晩ぐっすり眠ったせいか、夕べまともな食事を摂れたせいか、今朝の悟は頬に血色が差している。遼一が充分可愛がってやったせいもあるようだ。

「苦しいのか」

 遼一は大きめにちぎり取ったクロワッサンを、わしゃっと口に放り込んだ。

 悟は苦笑した。

「もう……情緒がないなあ。感情表現だよ」

 もぐもぐと大きく口を動かす遼一を、うっとりした瞳で眺めながら悟は言った。

「豪華な部屋にずっとこもって、おいしいもの食べて、したいだけして。スプリングの利いたベッド、気持ちよかったぁ……」

 悟はあの感覚を思い出したのか、とろりと甘い表情になった。遼一は食べるのを忘れて見とれてしまった。

「なんだか蜜月旅行ハネムーンのようじゃない? 幸せで、僕、普通に息ができない」

 悟はそう言ってため息をついた。

 遼一の胸がざわついた。次の行動目標ができた。

「じゃ、次は本当に蜜月旅行に出よう。どこがいい? ハワイ? バリ?」

 すっかりその気の遼一に、悟はまた苦笑した。

「だから、それは三年後でしょ? ひと前で一緒にいられないなら、どこへも行けないじゃない」

「そうだな。さーはこれから、まず受験だしな」

「意地悪を言うんだな」と悟は拗ねて唇をとがらせた。



 スイートルーム軟禁作戦は成功だった。

 チェックアウトを済ませて車を出し、いつものコンビニの前でいったん悟を降ろした。カバンの中の教科書を入れ替えてきた悟を再び乗せて学校へ。悟はその間ずっと、幸福の余韻に瞳をうるませて上機嫌だった。

 遼一は、咄嗟の自分の機転を我ながら高く評価した。

 よくやった。あのまま、泣きじゃくって詫びる悟と、精神的な疲労で言葉も出ない自分とが、寒々しい部屋で面つき合わせていたら、どうなっていたことか。

 昼に大塚から電話が来た。遼一が自宅のPC前でそれを取ると、「篠田君が今日、元気に登校してきました」との報告だった。顔色も表情も、すっかり元気になったと。

 遼一は詫びた。

「先生には、どうもご心配おかけしました。多分、もう大丈夫だと思いますので」

 大塚は「いえいえ。仕事ですから」と恐縮した。

 大塚は会話の最後にこうつけ加えた。

「それにしても、お兄さん、どうやってあの子を元気づけたんです? たった一晩であの効果だ」

 大塚は、遼一を悟の何だと思っているのだろう。遼一は答えられなかった。

「それではまた、何かありましたらご連絡いたします」

 大塚はそう丁寧に挨拶して電話を切った。

 答えられる訳もなかった。ホテルのスイートルームに閉じこめて、獣のように華奢な身体を責めさいなんだ。悟が欲しがるだけ、いやもっとだ。会わずにいた数日分をまとめて満たしてやった。

 別れようとして別れられず、泣きながらまた元の鞘に戻った。そんな恋人同士のあれこれを。

 相手が中学生だというときに、その担任の中学校教諭にはとても言えない。

 大塚相手のこの緊張を、悟は毎日教室で味わっているのだろうか。

 悟が不安定になるのも、無理ないことかもしれなかった。
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