銀鎖

松本尚生

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四、過ぎゆく秋と、冬の初め

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 二学期の中間テストが始まっていた。

 悟は一年生のときから英語の点数が悪く、内申点の蓄積は少々心許なかった。今回、そして次回の二学期期末の点数で、この分を挽回できるかどうかの瀬戸際だった。

 街一番の進学校に入れれば、遼一の部屋から通うメリットをうたえる。そこでなければどこも、自宅から通うのとそう変わらない。何か条件を変えて、悟を部屋に住まわせるメリットを新たに作る必要が出てくる。

 聞き慣れた軽い足音がして、ブザーが鳴った。

 カギはかけていないのに、そして部屋のカギは持っているのに、相変わらず悟は行儀よくブザーを鳴らす。そうする訳が、今では遼一にも何となく分かっていた。

 悟は、自分のために遼一がドアを支えていてくれるのが、ドアを支えて腕を伸ばした遼一がその懐に自分を入れてくれるような短い時間が好きなのだ。最近では、悟の方から遼一の胸にキュッと身体を寄せ、照れたような顔をして慌てて離れる日もあった。

「おかえり」

 遼一はあえてそう悟を迎える。恥ずかしそうに急いで靴を脱ごうとかがんだ悟の頭を、今日はくしゃっと撫でてやった。

 悟は「ただいま」と返すべきか「こんにちは」と挨拶すべきなのか決めかねた様子で、口の中でもごもご言った。

「どうだった?」

「うーん。どうだろう。悪くはなかったと思うんだけど」

「手応えありだな。よしよし」

 悟は学生服を脱いでハンガーにかけた。

 遼一はPCの前へ仕事の続きをしに戻った。台所でカチャカチャと音がした。遼一は振り返った。

「悟」

 返事がない。遼一は声を張った。

「さー」

 水音で聞こえないようだ。遼一は立ち上がり台所に顔を出した。

「さーちゃん」

 悟は水を止めて振り返った。

「ん? 何?」

「今日はコーヒーはまだいいぞ。給食なかったんだろ。先にメシにしよう」

「分かった」

 遼一は手がけている作業がもうじき終わる旨を悟に伝え、再びPC前に座った。悟は素直に床のテーブルに向かい、明日のテスト科目をさらい始めた。

 くしゅんと可愛い声がした。

「カゼか?」

 悟は多分違うと思うと答えた。寒いのかもしれない。

 学生服は窮屈で肩が凝る。いつからか悟はこの部屋に「帰って」くると、それをとっとと肩から外すようになっていた。まだ暖房を焚く季節ではないが、一枚羽織るものが欲しい温度だった。

 遼一は押し入れの衣装ケースから、自分の深緑のセーターを取り出した。

「さー。腕挙げて」

「え? 何?」

「いいから」

「何だよ」

 悟が両腕を挙げたところに、遼一はセーターをズボッとかぶせ、着せてやった。

「今日はちょっと寒いもんな。カゼ引いたら大変だ」

 悟は少し目を伏せて、自分の身体には大きいセーターの胸の辺りを押さえて「ありがと」と言った。

 遼一はまたぽふんと悟の頭を撫でて、自分の仕事を片づけに戻った。

「昼、何か食いたいものあるか」

 遼一はキーボードを叩きながらそう訊いた。

「んー。とくに」

 悟もさらさらとシャーペンを走らせながら答えた。

「軽いものでいいんだよね。重いものお腹に入れちゃうと、頭が働かなくなるから」

 遼一はPCの画面から目を話さずに言った。

「じゃ、蕎麦でも茹でるか」

 悟は不機嫌になった。

「そばー?」

 不満そうなその声に、遼一は手を止めて後ろを振り返った。

「別に蕎麦でなくてもいいぞ。何なら食べられる?」

 悟の目が吊り上がった。

「何だよ、それ」

 始まった。

 悟は手にしたシャーペンを遼一の膝の辺りに投げつけた。

「テスト期間で、僕、頭がいっぱいいっぱいなの、分かってるでしょ!? この上食事のメニューまで聞かないでよ。そんなことまで考えられないよ」

 遼一は椅子から降りた。

「悟」

 ノートが飛んできた。

「どうして遼一さんはいつも意地悪なの。そんなに僕のこと嫌いなの?」

「悟!」

 遼一は悟を背後から抱きしめた。これ以上ものが飛び交って、遼一の部屋のいろんなものが壊れたり汚れたりしないうちに、悟の動きを止める。

 悟は「離せ」としばらく手足をバタつかせていたが、少しすると静かになった。落ち着いたのを見計らって、遼一はゆっくりと声をかけた。

「悟?」

 悟は返事をしない。遼一は抱きしめた悟の身体を微かに揺すってまた呼んだ。

「さー?」

「ん。何」

 やっと答えた悟の声は、予想通り湿っていた。

「落ち着いたな」

 遼一は穏やかに笑ってそう言った。

「ごめん。またやっちゃった」

 悟は悔しそうにそう呟いた。自分でも、このかんしゃくを止めたいと思っているのだろう。

「さー……、分かってると思うけど」

 遼一はそこで言葉を切り、悟がその続きを答えるのを待った。

「分かってる。遼一さんは『僕のこと嫌い』じゃない」

 遼一はまた悟の身体をそっと揺すった。

「そう。『嫌い』じゃない。だが、それはちょっと正確じゃないな。正確には、嫌いじゃないんじゃなくて……?」

「『僕のこと好き』」

「ああ」

「『僕のこと愛してる』」

「そうだ」

 自分に言い聞かせるように悟は呟いた。遼一はそれらをすべて肯定した。悟の認識を、ひとつひとつ修正していく。繰り返し、繰り返しだ。結果が出ても出なくても、遼一はこのステップを繰り返していく。

 悟はくるりと向きを変え、遼一の胸に顔を埋めた。

「遼一さんが僕のこと、『さー』って呼んでくれるの……」

 遼一は悟の背中をいつものようにさすってやった。

「……好き」

 聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。



 遼一はしばらくそうやって悟の身体を抱いていたが、次第に腹が減ってきた。育ち盛りの悟はもっと空腹なはずだ。

 また何を食べるかで揉めないよう、遼一はショッピングモールへ悟を誘った。そこでなら、目に止まったものを好きに選んで食べられるし、夕食の材料も手に入る。テスト期間はみっちり遼一の部屋で合宿の予定だった。

 悟も遼一の提案を承服した。遼一は車を出した。

「ねえ、遼一さん」

「ん?」

 昼どきでただでさえ少ない交通量がさらに少ない。地方都市では、道幅もゆったりで運転しやすい。

「どうして許してくれるの?」

 許す?

「何を」

「そのう……いつも僕、おかしくなって、ひどいこと言ったり暴れちゃったりするでしょ。あれ」

 もう止めようと思ってるのに、止められないんだと悟は言った。

「何度も何度もやっちゃって……。毎回今度こそ嫌われる、今度こそ遼一さんに追い出されちゃう、そう思うのに」

 悟は俯いて唇をかんだ。遼一は淡々と答えた。

「別にいいよ。悟が本気で俺に嫌われたくてやってるんでなければ」

「嫌われたくなんか、ない」

「なら、別にいい」

 俺はそんなことでお前を嫌ったりしない。遼一はそうつけ加えた。

「どうして?」

「何が」

「嫌に、ならないの? 僕のこと」

「ならないさ。ただのワガママだろ。可愛いよ」

 悟は拳を口に当てて真っ赤になった。

 遼一はゆっくりハンドルを切って、ショッピングモールの敷地へ車を入れた。

「ただ、ワガママならもっと普通に言ってくれればいいのに、とは思ってるけど」

 ガランと広い駐車場を、入り口近くへと進んでいく。

「『普通』って……?」

 悟は恐る恐るそう訊いた。

「ん?」

 遼一は大きくハンドルを切って、入り口近くのスペースへ車を入れた。

「いっぱいあるだろ。もっと抱っこしてーとか。アイス食べたいーとか」

「何だよ、子供扱いして」

 悟は頬を赤くしたまま、濃緑のセーターの裾をいじっていた。遼一はエンジンを切った。

「まずは、何を食べたいから行ってみようか」

 店内配置図の前で、悟は少しの間ああだこうだ言っていた。今日はジャンクなものが食べたい気分らしかった。

「じゃあ、ハンバーガーでも、いい? 遼一さん」

 遼一は悟の顔を横目で見た。

「駄目」

「え……」

「もっと『ワガママ風に』言ってみろ」

「ええっ」

 悟はまた赤くなった。数秒逡巡していたが、目を伏せてようやく言った。

「……ハンバーガーが、食べたい」

 遼一は、「まあいいだろう」と渋々OKを出した。ふたりは入ってきた入り口から見て反対方向へと歩き出した。

「もっと甘えた感じで言って欲しいなあ」

 遼一は不満を漏らした。

「何だよ、演技指導かよ。どこの映画監督だよ」

 悟は乱暴に言い返した。照れ隠しの積もりらしい。
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