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四、過ぎゆく秋と、冬の初め
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時間の縛りなく過ごす夜は甘やかで、ふたりを離れがたくした。
悟の規則的な寝息は健やかで、首筋辺りの幼い香りは不思議に甘かった。この温かみを抱いて浅い眠りを漂っていると、身体の隅々まで浄化されるようだ。
小鳥を胸に抱いて朝が来た。「う……ん」と軽い声とともに遼一の小鳥は目を覚ました。ひとりで深く眠った朝より、遼一の手足には力が充実していた。悟は紅い唇を開いた。
「……朝?」
「ああ」
どちらからともなく唇を合わせ、身体に回した腕に力を入れた。
午前の陽が高くなって、悟は台所でコーヒーを淹れた。遼一はその横で、簡単な朝食を用意した。狭い台所で、肘を、脚をぶつけながら作業をする。
この感覚は何だろう。とてつもなく邪魔なはずなのに。
トーストと卵とコーヒーの遅い朝食を摂っていると、珍しく遼一の携帯が鳴った。
「はい、村上です」
遼一は渋々電話に出た。かけてきたのは取引先の担当者だった。
日曜なので放置し、翌営業日に折り返すという手もあったが、担当者にしたところで日曜日に遼一の個人携帯に連絡してくるのは異例だった。何かのっぴきならない事情に違いない。
「はい……、はい、分かりました。……いえ、構いませんよ。では一四時に」
遼一は通話を切り、憮然としてPCの前に電話を放り出した。
「どうしたの? 何かトラブル?」
悟は気づかわしげに遼一をのぞき込んだ。遼一はムスッとしたまま答えた。
「展示会の準備に来てるロシアの取引先が、子供連れなんだと。午後から商談するので、その間子供を看てて欲しいんだってさ」
ロシア語の通訳は本職を頼むことになり、遼一はお役御免となっていた。こんな形でお役目が回ってくるとは。しかも子供相手。
「ええ? じゃあ、遼一さん、仕事に行っちゃうの」
悟は心細そうな顔をした。遼一は良案を思いついた。
「お前もだ、悟」
「え?」
「いくつの子供か知らんが、俺ひとりで相手は無理だ。一緒に来てくれ」
頼む、と遼一は悟に手を合わせた。
「えー、遼一さんの仕事相手のひとの前に、僕なんかが行っていいの?」
大丈夫? 悟は心配げにそう尋ねた。
「親戚の子を連れてきたって言うよ。『独身男が子供の相手なんて、いろいろ支障があると思って』、そう言えば大概通るだろう」
遼一のような三十男が未成年を連れ回すのは、諸方面に問題があるものだ。ある程度対策を講じておいた方がいい。こうした方面に気を回すたび、遼一の胸は少し痛む。
悟との交際は、本来なら回避すべき性質のものだった。まだ幼い肉体と愛し合うのは、搾取とされても反論できない。だが、あのとき、遼一が手を離してしまえば、せっかく生き返ろうとしていた悟の心が死んでいた。
罪科を課されても、失いたくなかった。
約束の時間に郊外にある取引先の社屋へ向かうと、十歳の少女を託された。がっしりした体格の母親に背中を押されたその少女は、美術館に行きたがっていた。
「カーチャです、村上さん」
通訳担当の外注スタッフが、ニッコリと紹介の労を執った。
「さあ行こう、カーチャ」
悟も負けずにニッコリ笑って、少女の小さな手を取った。悟を連れてきてよかったと遼一は胸を撫で下ろした。
美術館までは車で二〇分と読んだが、日曜のことで一五分かそこらで着いた。
美術館は公園に接している。昔図書館があった場所の、公園をはさんで反対側だ。メジャーな展示をしていないせいか、駐車場は空いていた。
遼一は悟にカーチャの手を引かせ、三人分のチケットを買った。これは後で経費として精算させてもらう。
悟が自分と歳近く、小綺麗な形(なり)をしているせいか、カーチャは嫌がらずに手をつながれていてくれた。目を離した隙に見えなくなったりしたら、国際問題になりかねない。遼一は、カーチャと悟の三語文程度の会話を通訳するだけでよかった。
カーチャは絵画が好きらしかった。明るい色の風景画の前を、一枚一枚、ゆっくりと少女は見て歩いた。
悟もカーチャにペースを合わせ、ゆっくりゆっくり歩いた。
通訳の都合上、遼一はふたりの背後に控えてつき添ったが、絵を見ている間は言葉も少なかった。
遼一は絵よりも悟に目が行った。子供のペースに合わせて歩き、段差では手を握ったまま立ち止まって待ち、少女が何か言ったときには笑顔で礼儀正しく返事をする。なかなかのエスコート振りだった。
暗い展示室に、白いうなじから耳、頬にかけての曲線が浮かび上がる。その首筋に触れたくなった。細い首と、うぶ毛の感触。
悟は十五歳、そして目の前のカーチャは十歳だ。五歳違いの恋人なんて、珍しくもない。自分たち三人はどちらかというと、微笑ましい小さなカップルと、それを見守る保護者の組み合わせである方が自然だった。
このカーチャと恋に落ちることはないにしても、いつか悟に年回りのよい恋人ができる日が来るのだろうか。そのとき、自分はどうするだろう。今少女の手を握っている悟の細い指を、手放すことができるだろうか。
そうしてひとり残された自分は、また何の目的もない人生に戻るのだろうか。
冷たい恐怖を背に感じた。
「まだ時間があるな」
遼一は腕時計を見て呟いた。展示室を出た後、売店で風景画の絵ハガキを買った。悟の提案だった。土産に、ふたりでカーチャにそれをプレゼントすると、カーチャは可愛らしく笑って礼を言った。
「ケーキかパフェで、お茶はどう?」
悟は商店街へ足を伸ばそうと言った。女の子なら喜ぶだろう。遼一は少し考えて、首を振った。
「街に入ると、車を停める場所を探すのが大変だ」
このまま美術館に置いていけば駐車場代が高くつくし、街からここまで戻ってくるのも面倒だ。
「じゃあ、公園を散歩しようか」
悟に促され、遼一はカーチャに「公園を少し散歩するのは気に入るか」と尋ねた。カーチャは機嫌よく同意した。
駐車場に車を置いたまま、美術館の公園側の出入り口から三人は芝生の中へ進んでいった。池のほとりを、少女のペースに合わせてのんびり歩いた。
カーチャは「あれは何か」「それは何をするものか」などいくつか質問した。日常語の語彙はがっかりするほど錆びていて、遼一は慌ててスマートフォンを取り出し、翻訳ソフトを起動させた。便利な世の中になったものだ。
悟がそのさまを見てクスクスと笑った。遼一は悟を肘でつついて反撃した。
唐突に、カーチャは振り返った。
『二人は恋人なの?』
遼一は動きを止めた。
「ねえ、彼女何て言ってるの?」
通訳を催促した悟に、早口にその問いを翻訳して伝えるだけは伝えた。たが、彼女には何と答えたものか。
『大丈夫よ。誰にも言わないわ』
カーチャはまた笑って言った。
「当たり。よく分かったね」
悟は目を丸くして答えた。職務上遼一はそれを訳した。
カーチャは楽しそうに笑ってうなずいた。
『分かるわよ。仲よさそうだもん。』
わたしのママもね、女のひとの恋人がいるんだ。外ではナイショって言われてるけど、あなたたちになら、言ってもいいわよね。ひそひそ話の要領で、カーチャは二人の耳許でそう言った。
『ママにはナイショよ』
カーチャはそう言ってウインクした。
売店のあった辺りに建物はすでになく、自動販売機とベンチがいくつか並んでいた。
遼一はそこで、二人にはアイスを、自分には熱いコーヒーを買った。
池のほとりのベンチに二人は座り、アイスを食べながら何てことのない会話を、ぽつりぽつりと交わしていた。遼一はそれを機械的に訳してやった。
カーチャの髪はブルネットというのか、やや暗めの茶色だった。日本人でも、色素の薄い子なら近い色はある。頭の上の方にリボンを結び、あとはゆったりと髪を肩に下ろしていた。時折風が髪を揺らした。
池の向こうでは、家族連れが遊んでいた。子供の明るい声が遠く聞こえていた。
変わったものと、変わらないもの。
(今度来るときは恋人とおいで)
子供をあやすように笑う、記憶の中のおばさんの声。
あのとき遼一の隣にいたのは、おばさんの言う通り、恋人にはなれないひとだった。あれから十数年。
遼一は悟の肩に手を置いて、曇り空を見上げた。夕映えをその厚みの向こうに隠して、雲は温かな色をしていた。
カーチャを送り届けた帰り道。
「さっきはびっくりしたね」
助手席の悟は、そう言って遼一を見上げた。
「ああ。母親のことがあるにせよ、大した観察眼だったな」
「まさか、僕たちって、外から見たらバレバレなのかな」
悟はこの街が地元だし、高校卒業までここで暮らす。余計な噂はない方がいいだろう。それに。
「通報されると、俺はお前に近づけなくなる」
「うん。そうだよね」
気をつけなきゃね。悟は小さな声でそう言った。
次は悟を送り届ける番だった。自宅での夕食に間に合うように。誰もいない食卓テーブルで、悟は今夜はひとりで食事を摂るのだ。
遼一は昨夜の食卓を思い出した。夕べはカセットコンロを出して鍋をした。悟は珍しいのか、きゃあきゃあ言って喜んで食べた。大した材料は使っていないが、普段の食事なら充分だ。
材料や調味料より、一緒に食べる誰かに意味がある。
今夜の悟の淋しい食卓風景は、そのまま十数年暮らした遼一自身のものだった。遼一は、家族の不幸にまみれるくらいなら、ひとりの方がいいと思って暮らしていた。その考えに偽りはない。
だが、遼一は知らなかったのだ。幸福な食卓がこの世に存在することを。一緒に食べると幸せな気持ちになれる誰かがいる感じを。
いつもの角で別れるのが苦しかった。
しばらくすると雪が降る。
一瞬の夏のあとの秋は長いようで短い。
悟の規則的な寝息は健やかで、首筋辺りの幼い香りは不思議に甘かった。この温かみを抱いて浅い眠りを漂っていると、身体の隅々まで浄化されるようだ。
小鳥を胸に抱いて朝が来た。「う……ん」と軽い声とともに遼一の小鳥は目を覚ました。ひとりで深く眠った朝より、遼一の手足には力が充実していた。悟は紅い唇を開いた。
「……朝?」
「ああ」
どちらからともなく唇を合わせ、身体に回した腕に力を入れた。
午前の陽が高くなって、悟は台所でコーヒーを淹れた。遼一はその横で、簡単な朝食を用意した。狭い台所で、肘を、脚をぶつけながら作業をする。
この感覚は何だろう。とてつもなく邪魔なはずなのに。
トーストと卵とコーヒーの遅い朝食を摂っていると、珍しく遼一の携帯が鳴った。
「はい、村上です」
遼一は渋々電話に出た。かけてきたのは取引先の担当者だった。
日曜なので放置し、翌営業日に折り返すという手もあったが、担当者にしたところで日曜日に遼一の個人携帯に連絡してくるのは異例だった。何かのっぴきならない事情に違いない。
「はい……、はい、分かりました。……いえ、構いませんよ。では一四時に」
遼一は通話を切り、憮然としてPCの前に電話を放り出した。
「どうしたの? 何かトラブル?」
悟は気づかわしげに遼一をのぞき込んだ。遼一はムスッとしたまま答えた。
「展示会の準備に来てるロシアの取引先が、子供連れなんだと。午後から商談するので、その間子供を看てて欲しいんだってさ」
ロシア語の通訳は本職を頼むことになり、遼一はお役御免となっていた。こんな形でお役目が回ってくるとは。しかも子供相手。
「ええ? じゃあ、遼一さん、仕事に行っちゃうの」
悟は心細そうな顔をした。遼一は良案を思いついた。
「お前もだ、悟」
「え?」
「いくつの子供か知らんが、俺ひとりで相手は無理だ。一緒に来てくれ」
頼む、と遼一は悟に手を合わせた。
「えー、遼一さんの仕事相手のひとの前に、僕なんかが行っていいの?」
大丈夫? 悟は心配げにそう尋ねた。
「親戚の子を連れてきたって言うよ。『独身男が子供の相手なんて、いろいろ支障があると思って』、そう言えば大概通るだろう」
遼一のような三十男が未成年を連れ回すのは、諸方面に問題があるものだ。ある程度対策を講じておいた方がいい。こうした方面に気を回すたび、遼一の胸は少し痛む。
悟との交際は、本来なら回避すべき性質のものだった。まだ幼い肉体と愛し合うのは、搾取とされても反論できない。だが、あのとき、遼一が手を離してしまえば、せっかく生き返ろうとしていた悟の心が死んでいた。
罪科を課されても、失いたくなかった。
約束の時間に郊外にある取引先の社屋へ向かうと、十歳の少女を託された。がっしりした体格の母親に背中を押されたその少女は、美術館に行きたがっていた。
「カーチャです、村上さん」
通訳担当の外注スタッフが、ニッコリと紹介の労を執った。
「さあ行こう、カーチャ」
悟も負けずにニッコリ笑って、少女の小さな手を取った。悟を連れてきてよかったと遼一は胸を撫で下ろした。
美術館までは車で二〇分と読んだが、日曜のことで一五分かそこらで着いた。
美術館は公園に接している。昔図書館があった場所の、公園をはさんで反対側だ。メジャーな展示をしていないせいか、駐車場は空いていた。
遼一は悟にカーチャの手を引かせ、三人分のチケットを買った。これは後で経費として精算させてもらう。
悟が自分と歳近く、小綺麗な形(なり)をしているせいか、カーチャは嫌がらずに手をつながれていてくれた。目を離した隙に見えなくなったりしたら、国際問題になりかねない。遼一は、カーチャと悟の三語文程度の会話を通訳するだけでよかった。
カーチャは絵画が好きらしかった。明るい色の風景画の前を、一枚一枚、ゆっくりと少女は見て歩いた。
悟もカーチャにペースを合わせ、ゆっくりゆっくり歩いた。
通訳の都合上、遼一はふたりの背後に控えてつき添ったが、絵を見ている間は言葉も少なかった。
遼一は絵よりも悟に目が行った。子供のペースに合わせて歩き、段差では手を握ったまま立ち止まって待ち、少女が何か言ったときには笑顔で礼儀正しく返事をする。なかなかのエスコート振りだった。
暗い展示室に、白いうなじから耳、頬にかけての曲線が浮かび上がる。その首筋に触れたくなった。細い首と、うぶ毛の感触。
悟は十五歳、そして目の前のカーチャは十歳だ。五歳違いの恋人なんて、珍しくもない。自分たち三人はどちらかというと、微笑ましい小さなカップルと、それを見守る保護者の組み合わせである方が自然だった。
このカーチャと恋に落ちることはないにしても、いつか悟に年回りのよい恋人ができる日が来るのだろうか。そのとき、自分はどうするだろう。今少女の手を握っている悟の細い指を、手放すことができるだろうか。
そうしてひとり残された自分は、また何の目的もない人生に戻るのだろうか。
冷たい恐怖を背に感じた。
「まだ時間があるな」
遼一は腕時計を見て呟いた。展示室を出た後、売店で風景画の絵ハガキを買った。悟の提案だった。土産に、ふたりでカーチャにそれをプレゼントすると、カーチャは可愛らしく笑って礼を言った。
「ケーキかパフェで、お茶はどう?」
悟は商店街へ足を伸ばそうと言った。女の子なら喜ぶだろう。遼一は少し考えて、首を振った。
「街に入ると、車を停める場所を探すのが大変だ」
このまま美術館に置いていけば駐車場代が高くつくし、街からここまで戻ってくるのも面倒だ。
「じゃあ、公園を散歩しようか」
悟に促され、遼一はカーチャに「公園を少し散歩するのは気に入るか」と尋ねた。カーチャは機嫌よく同意した。
駐車場に車を置いたまま、美術館の公園側の出入り口から三人は芝生の中へ進んでいった。池のほとりを、少女のペースに合わせてのんびり歩いた。
カーチャは「あれは何か」「それは何をするものか」などいくつか質問した。日常語の語彙はがっかりするほど錆びていて、遼一は慌ててスマートフォンを取り出し、翻訳ソフトを起動させた。便利な世の中になったものだ。
悟がそのさまを見てクスクスと笑った。遼一は悟を肘でつついて反撃した。
唐突に、カーチャは振り返った。
『二人は恋人なの?』
遼一は動きを止めた。
「ねえ、彼女何て言ってるの?」
通訳を催促した悟に、早口にその問いを翻訳して伝えるだけは伝えた。たが、彼女には何と答えたものか。
『大丈夫よ。誰にも言わないわ』
カーチャはまた笑って言った。
「当たり。よく分かったね」
悟は目を丸くして答えた。職務上遼一はそれを訳した。
カーチャは楽しそうに笑ってうなずいた。
『分かるわよ。仲よさそうだもん。』
わたしのママもね、女のひとの恋人がいるんだ。外ではナイショって言われてるけど、あなたたちになら、言ってもいいわよね。ひそひそ話の要領で、カーチャは二人の耳許でそう言った。
『ママにはナイショよ』
カーチャはそう言ってウインクした。
売店のあった辺りに建物はすでになく、自動販売機とベンチがいくつか並んでいた。
遼一はそこで、二人にはアイスを、自分には熱いコーヒーを買った。
池のほとりのベンチに二人は座り、アイスを食べながら何てことのない会話を、ぽつりぽつりと交わしていた。遼一はそれを機械的に訳してやった。
カーチャの髪はブルネットというのか、やや暗めの茶色だった。日本人でも、色素の薄い子なら近い色はある。頭の上の方にリボンを結び、あとはゆったりと髪を肩に下ろしていた。時折風が髪を揺らした。
池の向こうでは、家族連れが遊んでいた。子供の明るい声が遠く聞こえていた。
変わったものと、変わらないもの。
(今度来るときは恋人とおいで)
子供をあやすように笑う、記憶の中のおばさんの声。
あのとき遼一の隣にいたのは、おばさんの言う通り、恋人にはなれないひとだった。あれから十数年。
遼一は悟の肩に手を置いて、曇り空を見上げた。夕映えをその厚みの向こうに隠して、雲は温かな色をしていた。
カーチャを送り届けた帰り道。
「さっきはびっくりしたね」
助手席の悟は、そう言って遼一を見上げた。
「ああ。母親のことがあるにせよ、大した観察眼だったな」
「まさか、僕たちって、外から見たらバレバレなのかな」
悟はこの街が地元だし、高校卒業までここで暮らす。余計な噂はない方がいいだろう。それに。
「通報されると、俺はお前に近づけなくなる」
「うん。そうだよね」
気をつけなきゃね。悟は小さな声でそう言った。
次は悟を送り届ける番だった。自宅での夕食に間に合うように。誰もいない食卓テーブルで、悟は今夜はひとりで食事を摂るのだ。
遼一は昨夜の食卓を思い出した。夕べはカセットコンロを出して鍋をした。悟は珍しいのか、きゃあきゃあ言って喜んで食べた。大した材料は使っていないが、普段の食事なら充分だ。
材料や調味料より、一緒に食べる誰かに意味がある。
今夜の悟の淋しい食卓風景は、そのまま十数年暮らした遼一自身のものだった。遼一は、家族の不幸にまみれるくらいなら、ひとりの方がいいと思って暮らしていた。その考えに偽りはない。
だが、遼一は知らなかったのだ。幸福な食卓がこの世に存在することを。一緒に食べると幸せな気持ちになれる誰かがいる感じを。
いつもの角で別れるのが苦しかった。
しばらくすると雪が降る。
一瞬の夏のあとの秋は長いようで短い。
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