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6、俺の知らない、上司の夜
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翔太が担当する取引先の中で、もっとも規模の大きい卸が「モリノー」だ。一階の受付カウンターに着くと、ベルを鳴らす前に事務員さんがやってきてくれた。パーティションに区切られた面談ブースに通された。タブレットに社内カレンダーを表示させ、今日話すべき内容を軽くおさらいしながら、担当がやってくるのを待つ。モリノーのアサヅカ担当は、村上さんだ。
「加藤さん、お待たせしました」
村上さんが頭を下げながら入ってきた。翔太のような若手にも穏やかに接してくれる村上さんは、多分三十代前半。翔太とは十歳くらいしか違わないが、家庭では「優しいお父さん」なんだろうなあと思わせる風貌だ。翔太はぴょこんと立ち上がってお辞儀をした。
「こちらこそ、お忙しいところをありがとうございます」
真っ先に翔太は、「鴨のロースト」のパンフを村上の前に拡げた。
「以前お話ししていた、年末に向けての新商品、ようやく発売日が決まりました!」
「ああ、わたしも楽しみにしていたんです。どれどれ……。はあ、同じ商品で、ソースが二味ですか。それは面白いですね」
「そうなんです。『ベリーのソース』は期間限定で、X'mas時期にしか作りませんので。飲食店さんのクリスマスディナーにご採用いただけると、お店も盛り上がるんじゃないかと」
実はこれ、試食に自分も参加したんですが……と、翔太は自分の経験を交えて話した。モリノーの村上さんは、翔太が話しやすい取引先のひとりだが、こんなに打ち解けて話せるようになったのは、ひとえに村上さんの人柄のおかげだった。
「近々、ご迷惑にならないタイミングで、御社で試食会をさせていただければと」
「そうですね。バイヤー会議に入れ込めばウチもスムーズですから……ちょっとお待ちください」
村上は手帳をパラパラとめくった。
新商品の試食会、個店へのラインナップの紹介パターンと販促ツール、同行営業のスケジューリング。翔太は村上と、今日やるべきことをサクサクとこなしていった。
事務員さんが出してくれたお茶は、すでに冷たくなっていた。最後に村上は「ちょっとコーヒー、飲みたくない?」と笑って立ち上がり、コーヒーを二杯淹れて戻ってきた。村上はこういうところが気が利くというか、お父さんぽい。
「ありがとうございます。いただきます」
翔太は素直にごちそうになった。ひと口飲んで、翔太はカップの中をのぞき込んだ。
「うまいですね、これ」
「そうなんですよ。ウチが扱った商品にしては珍しく、結構いけるんです。普通の、カップに載せてお湯を注ぐドリップバッグなんですがね……」
村上は少し説明した。翔太は村上に、「これ、いただいて帰れますか?」と尋ねた。村上は「もちろんですよ」と笑顔で答えてくれた。
「いやあ、なんか、加藤さん相手に営業したみたくなっちゃって……」
村上はひとの良さそうな顔で頭を掻いた。
「いや、俺も、買いものとか苦手なんで、おいしいものを教えていただけて助かります」
翔太もいささか恐縮気味に頭を下げた。部屋では貧乏性のせいか茶ばかりだったが、行人は外ではコーヒーを頼むことが多い。たまに変わったものを飲ませてやろうと翔太はワクワクした。
「……そういえば」
「はい?」
村上はコーヒーカップを少し持ち上げた。
「この間、すすきのの『ローズ・ガーデン』さんで、お宅の西川係長、見ましたよ」
「え……」
翔太は目をしばたたいた。「ローズ・ガーデン」といえば、老舗の洋食屋兼カフェだ。アサヅカとの取引は確か、まだない。業態的には、ウチの製品を扱って売上UPしていただきたい店だ。行人は個店営業が得意だ。すでにモリノーと取引がある店なら、すぐにも仕入れを開始してもらえる。飛び込み営業でもしていたのか。
黙っているのもヘンなので、翔太は急いで口を開く。
「はあ……そうですか。西川は……」
「秋津物産の竹部さんと一緒だったけど」
のどが詰まった。
「…………はあ」
「加藤さんの前は、彼がウチを担当してくれましたからね。見間違えることはないんですけどね。今度、秋津さん担当は彼になるの? 全国区の秋津さんと組まれたら、イヤだなー。ウチもキツいなー」
秋津は、原田-内海チームが担当で、係長がテコ入れするような話はない。
(そんなはずない)
村上は穏やかに世間話を続ける。
「どうなんです? 加藤さん」
翔太は営業スマイルを崩さぬよう、答えた。
「さあ……。そのヘンは、よく知らないっす。下っ端なんで」
さっき自分を送り出してくれた、行人の笑顔。握手なんて初めてしたけど、その手の温もり。
翔太の知らない行人が、どこかで何かをしている。
当たり前だ。行人には、翔太の知らない部分がたくさんある。
十月に入ると急速に気温が下がった。社用車のタイヤ交換の時期だ。営業先へ行くのに峠越えをする営業職員もいる。早め早めの対応が必要だ。交換の手配は総務が行うが、車をローテーションで整備に出すと、その日使える台数が減る。翔太たち営業は、借受申請を早めに入れて、足を確保しておかないと仕事にならない。
翔太の卸さんとの同行営業が始まった。今月中に年末商戦の受注を固め、ピーク分は来月フル稼働で製造して、十一月後半からどんどん配荷していく。クリスマスケーキとほとんど同じ年末進行だ。
課員の直行直帰が増え、営業一課はいつも以上に閑散とした。行人も自分の担当社へ出向く頻度が増えていた。行人の得意分野は非チェーンの個人店だ。個店へ細かく営業していく。早くもラウンジやスナックのママさんたちから、大量に注文が入り始めていた。いつものことだ。
取引先がどこも忙しく、訪問を遠慮するルールとなっている、金曜日。午前は各自取ってきた注文の整理やデータ入力、午後は打ち合わせだ。
翔太は書類仕事が苦手なので、順序正しくひとつひとつ片付ける。溜めると後で大変なことになるのが分かっているからだ。最近は案件事にファイルを分け、さらに未処理のものと処理済みのもののファイルを別の色にして、ひと目で区別がつくようにした。そして、やるときには、集中。これに限る。金曜日はうってつけだ。
手許の書類を処理済みファイルにしまって、翔太は腕を伸ばした。ストレッチを装って首を回す。行人が端正な姿でPCに向かっている。
「加藤さん、お待たせしました」
村上さんが頭を下げながら入ってきた。翔太のような若手にも穏やかに接してくれる村上さんは、多分三十代前半。翔太とは十歳くらいしか違わないが、家庭では「優しいお父さん」なんだろうなあと思わせる風貌だ。翔太はぴょこんと立ち上がってお辞儀をした。
「こちらこそ、お忙しいところをありがとうございます」
真っ先に翔太は、「鴨のロースト」のパンフを村上の前に拡げた。
「以前お話ししていた、年末に向けての新商品、ようやく発売日が決まりました!」
「ああ、わたしも楽しみにしていたんです。どれどれ……。はあ、同じ商品で、ソースが二味ですか。それは面白いですね」
「そうなんです。『ベリーのソース』は期間限定で、X'mas時期にしか作りませんので。飲食店さんのクリスマスディナーにご採用いただけると、お店も盛り上がるんじゃないかと」
実はこれ、試食に自分も参加したんですが……と、翔太は自分の経験を交えて話した。モリノーの村上さんは、翔太が話しやすい取引先のひとりだが、こんなに打ち解けて話せるようになったのは、ひとえに村上さんの人柄のおかげだった。
「近々、ご迷惑にならないタイミングで、御社で試食会をさせていただければと」
「そうですね。バイヤー会議に入れ込めばウチもスムーズですから……ちょっとお待ちください」
村上は手帳をパラパラとめくった。
新商品の試食会、個店へのラインナップの紹介パターンと販促ツール、同行営業のスケジューリング。翔太は村上と、今日やるべきことをサクサクとこなしていった。
事務員さんが出してくれたお茶は、すでに冷たくなっていた。最後に村上は「ちょっとコーヒー、飲みたくない?」と笑って立ち上がり、コーヒーを二杯淹れて戻ってきた。村上はこういうところが気が利くというか、お父さんぽい。
「ありがとうございます。いただきます」
翔太は素直にごちそうになった。ひと口飲んで、翔太はカップの中をのぞき込んだ。
「うまいですね、これ」
「そうなんですよ。ウチが扱った商品にしては珍しく、結構いけるんです。普通の、カップに載せてお湯を注ぐドリップバッグなんですがね……」
村上は少し説明した。翔太は村上に、「これ、いただいて帰れますか?」と尋ねた。村上は「もちろんですよ」と笑顔で答えてくれた。
「いやあ、なんか、加藤さん相手に営業したみたくなっちゃって……」
村上はひとの良さそうな顔で頭を掻いた。
「いや、俺も、買いものとか苦手なんで、おいしいものを教えていただけて助かります」
翔太もいささか恐縮気味に頭を下げた。部屋では貧乏性のせいか茶ばかりだったが、行人は外ではコーヒーを頼むことが多い。たまに変わったものを飲ませてやろうと翔太はワクワクした。
「……そういえば」
「はい?」
村上はコーヒーカップを少し持ち上げた。
「この間、すすきのの『ローズ・ガーデン』さんで、お宅の西川係長、見ましたよ」
「え……」
翔太は目をしばたたいた。「ローズ・ガーデン」といえば、老舗の洋食屋兼カフェだ。アサヅカとの取引は確か、まだない。業態的には、ウチの製品を扱って売上UPしていただきたい店だ。行人は個店営業が得意だ。すでにモリノーと取引がある店なら、すぐにも仕入れを開始してもらえる。飛び込み営業でもしていたのか。
黙っているのもヘンなので、翔太は急いで口を開く。
「はあ……そうですか。西川は……」
「秋津物産の竹部さんと一緒だったけど」
のどが詰まった。
「…………はあ」
「加藤さんの前は、彼がウチを担当してくれましたからね。見間違えることはないんですけどね。今度、秋津さん担当は彼になるの? 全国区の秋津さんと組まれたら、イヤだなー。ウチもキツいなー」
秋津は、原田-内海チームが担当で、係長がテコ入れするような話はない。
(そんなはずない)
村上は穏やかに世間話を続ける。
「どうなんです? 加藤さん」
翔太は営業スマイルを崩さぬよう、答えた。
「さあ……。そのヘンは、よく知らないっす。下っ端なんで」
さっき自分を送り出してくれた、行人の笑顔。握手なんて初めてしたけど、その手の温もり。
翔太の知らない行人が、どこかで何かをしている。
当たり前だ。行人には、翔太の知らない部分がたくさんある。
十月に入ると急速に気温が下がった。社用車のタイヤ交換の時期だ。営業先へ行くのに峠越えをする営業職員もいる。早め早めの対応が必要だ。交換の手配は総務が行うが、車をローテーションで整備に出すと、その日使える台数が減る。翔太たち営業は、借受申請を早めに入れて、足を確保しておかないと仕事にならない。
翔太の卸さんとの同行営業が始まった。今月中に年末商戦の受注を固め、ピーク分は来月フル稼働で製造して、十一月後半からどんどん配荷していく。クリスマスケーキとほとんど同じ年末進行だ。
課員の直行直帰が増え、営業一課はいつも以上に閑散とした。行人も自分の担当社へ出向く頻度が増えていた。行人の得意分野は非チェーンの個人店だ。個店へ細かく営業していく。早くもラウンジやスナックのママさんたちから、大量に注文が入り始めていた。いつものことだ。
取引先がどこも忙しく、訪問を遠慮するルールとなっている、金曜日。午前は各自取ってきた注文の整理やデータ入力、午後は打ち合わせだ。
翔太は書類仕事が苦手なので、順序正しくひとつひとつ片付ける。溜めると後で大変なことになるのが分かっているからだ。最近は案件事にファイルを分け、さらに未処理のものと処理済みのもののファイルを別の色にして、ひと目で区別がつくようにした。そして、やるときには、集中。これに限る。金曜日はうってつけだ。
手許の書類を処理済みファイルにしまって、翔太は腕を伸ばした。ストレッチを装って首を回す。行人が端正な姿でPCに向かっている。
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