夜明けの続唱歌

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往来

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 ぱっと見ただけで、気立てのいい馬だと感じた。
 そばに立ってじっと眼を見つめると、馬もアダムを測るような眼で見つめ返してくる。毛艶もいい。うまやの世話をしている痩せた老人に、馬の名をく。パウド。それが名のようだ。呼びかけながら、ゆっくりと首筋に触れる。パウドの長い睫毛まつげが揺れ、ちょっと耳を動かして答えたように、アダムには見えた。
「パウドを選んだのか、アダム。いい馬だ」
 ザルフィがそう言い、白い歯を見せて笑った。
 先にアダムが選び、次にザルフィの乗る馬も、アダムが選ぶように言われた。それで公平だ、ということなのだろう。
 パウドの肩のあたりを軽く撫でながら、厩の老人にパウドへの指示の出し方を訊き、二、三確認をしてから広場に戻った。
 二頭の馬が、厩からき出されてくる。
 昨晩のうたげのさなかに、ザルフィから競争を持ちかけられた。この集落から北山の水場までである。駱駝らくだと馬ならどちらがいいかと問われ、アダムは馬と答えた。旅の途中で駱駝に乗ったことがないわけではないが、ザルフィにかなうとも思えなかったのだ。
 なぜ、ということはしばらく考えないことにした。騎乗する者の気持ちは、すぐに馬へ伝わる。馬はそれだけ繊細で、敏感なのだ。
 人だかりの見つめる集落の広場に、二頭が並ぶ。朝の陽射しを受け、赤黒い毛並みが輝いていた。
 鞍の乗せられていない、裸馬である。どこか掴むとすれば、首に腕をまわすかたてがみくらいしかない。隣で余裕の表情を見せているザルフィも、アダムがそうやって乗るしかない、と決めてかかっていることだろう。
「駆ける道は、水場までほぼ真直ぐ。迷わない。だけど、ところどころに羊を連れた男を立たせてある。両側に群れ、そこの間を通ると、ひづめが砂に沈まない」
 ザルフィが言う。若い男が、もう少し丁寧な炳辣国ペラブカナハの言葉で、アダムにもう一度説明した。
 水場まで、砂漠のなかの道があるらしい。そこは踏んでも砂があまり沈みこまず、馬で駆けるのにも適しているようだ。道がわかりにくい場所には両側に羊の群れを配しているので、その間を駆け抜けろ、ということだった。
 アダムは、じっとしているパウドの首筋を軽く叩いてから、足場に置かれた踏み台を蹴って飛び乗った。さっと視界が開ける。久しぶりの馬上からの眺めだった。高くなった目線で横を見ると、ザルフィもすでに乗馬し、アダムと同じ高さにいた。
 ザルフィだけでなく、蕘皙国ツァキシュロの人間は古くから遊牧で生きている。羊や駱駝だけでなく、馬の数も少なくない。つまりそれだけ良馬も多くいるということだ。駱駝だけでなく、当然のように馬も巧みに乗りこなすだろう。
 アダムが乗っても、パウドは暴れたりはしなかった。かすかに首を振り、二、三歩後退しただけだ。二頭の馬は、まだ横に立った男たちに押さえられている。
 乗馬したアダムの姿勢を見たザルフィが、おや、という表情を見せた。見物に集まった周囲の者たちも、いくらかざわついている。その声を聞いたせいなのか、ザルフィの表情がにわかにけわしくなった。
 人だかりから、嬌声きょうせいがあがる。ザルフィの女たちだろう。男たちも、つられたように騒ぎだした。
 頭に巻いた朱色の布に手をやり、ザルフィがにやりと笑った。それから顔の横に垂らした布の端を反対側に押しこみ、口もとを覆うようにする。砂避すなよけのためだ。眼だけを出した恰好かっこうになったザルフィに、アダムもうなずいて答え、首に巻いた布で口もとを覆う。
 人だかりが割れ、北への道を開けた。広場から、集落のはずれへ。そこから先は砂漠である。
「俺が勝つ」
「いつでもいいぞ、ザルフィ」
 もう、ザルフィのほうは見なかった。軽く鬣を握った手で、パウドの首にそっと触れる。頼むぞ、とアダムが小さく呟くと、パウドが一度だけ耳をぴくりと動かした。
 若い男が、布を巻いた棒を振りあげる。瞬間、アダムの耳に届くざわめきが、遠ざかったような気がした。
 棒が振りおろされると同時に、駆け出した。わっと歓声があがる。
 出足は、悪くなかった。馬の頭ひとつ分だけ、ザルフィが左斜め前に出ている。乾いた風が、アダムの頬を打った。集落にぽつぽつと並ぶ小屋が、飛ぶように後ろへと流れていく。
 斜め前のザルフィが、一度振り返ってこちらを見たようだった。馬というより、アダムの様子をうかがったのだろう。アダムは前方だけを見ていた。
 乗っているのは鞍もあぶみも、そして手綱もない、完全な裸馬である。確かに、誰もがすぐに乗りこなせるというわけではない。ザルフィも、アダムがこれほどに乗りこなせるとは、考えてもみなかったはずだ。
 鞍を乗せた駱駝か、裸馬か。迷わず馬を選んだアダムに、ザルフィは宴の酔いのなかで、不敵な笑みを浮かべてみせたのだった。それがいま、馬首を並べて駆けるアダムを見て、動揺を隠せずにいる。
 おまえの主人は、まだ若いな。アダムは心のなかで、パウドに語りかけた。
 実際のところ、手放しで裸馬に乗るということを、アダムのからだはよく知っていた。
 アダムの故郷では、そもそも鞍というものがなかったのだ。気の向くまま、丘や森へ果実を採りに行った若い娘が、そこらにいる裸馬に飛び乗り、両手でかごを持ったまま戻ってくる、などということが日常の光景だったのである。
 厩で見たパウドは、ほどよく肉のついた美しい馬体をしていた。馬体がすべてだとは考えていないが、良馬の条件のひとつだと、アダムは思っていた。
 厩には、疾駆するために鍛えあげられた筋肉で、パウドよりも締まった馬体をしたものも少なくなかった。鞍を乗せるのであれば、そちらを選ぶことも考えたかもしれない。選ばなかったのは、裸馬に跨るということが前提にあったからだった。鍛えて馬体を絞っていたり、もともと痩せている馬にじかに跨るとなると、骨ばって尖ったような背に尻を預けることになる。それは、駆け続ける間ずっと、股を裂かれているようなものなのである。
 パウドは背幅があり、安定感もあった。それでも、やはり裸馬の背は滑りやすい。放り出されないようにするためには、脚の遣い方が重要だった。まずはしっかりとかかとをさげて爪先をあげ、馬体を膝で抱かないように姿勢を保つことだった。
 風が変わった。集落を抜け、砂漠に出たのだ。集落のなかの安定した地面ではいくらか駆歩かけあし気味だったが、速歩はやあし程度に落とした。砂を蹴立てて斜め前を駆けるザルフィも、アダムと同じようにしたようだ。差はほぼ変わっていない。
 こちらの意思は、ももの締めつけ具合などで伝える。本当に通じ合った馬とは、気持ちで通じ合えるようなこともあった。駆けるぞ、と心で呼びかけると、それに答えるのだ。パウドはいい馬だが、親密だとはいえない。主人はあくまでザルフィである。厩の老人に教わった指示の出し方で、正確に伝えてやるしかない。
 前方に横たわるのは、広大な砂漠だった。水場があるという北山の麓まで、一刻(約三十分)ほどだという。馬が一度に駆歩を続けられる限界がおよそそれくらいだが、足を取られやすい砂地では、もっと早くに音をあげると考えていたほうが無難だろう。無理をさせて、パウドを潰したくはない。
 陽が、どこまでも照りつけている。パウドの背も汗で濡れ、美しく輝いていた。
 砂漠には、確かに駆けられる道のような筋が続いている。その両側に、砂の丘がいくつも連なっていた。風が吹き荒れれば、ひと晩でそのかおをすっかりと変えてしまうのだろう。大小の丘陵が波打つ、砂の海だ、とアダムは思った。
 ぼうぼうと風を切る音だけが耳を覆う。勝負などということとは別に、なんとも心地よいひとときだった。
 そのまま半刻(約十五分)ほど駆けると、周囲に転がっている岩が増えてきた。ザルフィが何度も振り返り、アダムの位置を確認している。前方に見える、狭い岩場を通るようだ。おそらく、一頭分の幅しかない。先に駆けこんだほうが有利になるのかもしれない。
 並んだ。アダムは腿をぐっと締めた。行け。二頭がり合う。両側が土色の岩場になり、道が狭まってくる。
 ザルフィも、見事に裸馬を乗りこなしていた。蕘皙国では、おそらくそのまま剣や弓などの武器を遣う訓練も行っているだろう。だが、アダムもそれに遅れをとるつもりはなかった。パウドも、必死に食らいついている。
 正面から、岩場を抜けて風が押し返してきた。その瞬間、わずかだがザルフィが遅れた。いまだ。
 気づいたときには、岩場を抜けていた。アダムが先である。北山が、ほとんど目前に迫っていた。ふもとに、緑が広がっている。水場があるということだ。白い鳥が、上空を旋回しているのも見えた。
 丘陵をふたつ越えると、広がる羊群が眼に入った。駆け抜けるのはふたつに別れた群れの中心。多少、右に進路をとる必要があるようだ。それまではほぼ直線である。
 一度だけ、アダムは肩越しに後方のザルフィの位置を確認した。岩場で遅れて、三馬身ほどの差がついたようだ。それでもまだ、油断はできない。
 不意に、ザルフィが声をあげた。追いあげてくる。後方を確認したアダムに気づいて、かっとなったのだろう。酋長として、後塵を浴び続けるというのも、許せないことだったに違いない。
 再び並びかけたが、ザルフィはそのままじわじわと遅れはじめた。馬が音をあげている。岩場からここまで、駆歩を続けすぎたのだ。
 前方。すぐそばまで、羊群が迫っていた。とっさに右寄りの進路をとる。両側に羊。突然、パウドがいなないて前脚をあげ、棹立さおだちになった。そう思ったときには、アダムは地に尻をついていた。落馬したのだ。
 立ちあがり、衣服の砂を払う。落ちたのが砂の上で、躰を転がしたこともよかったのだろう。怪我はなかった。パウドは道をはずれて砂地に駆けこんだところで立ち止まり、首を左右に大きく振っていた。
 駆け抜けて道を先に進んでいたザルフィが、馬首をまわしてすぐに駆け戻ってきた。止まる前に馬から飛び降りると、羊群を従えていた男を張り倒した。言葉はわからないが、声を荒げて男を怒鳴りつけている。
 アダムがパウドとともに駆け抜けようとしたとき、道に羊が飛び出してきた。パウドはそれに驚いて、棹立ちになったのだ。鞍も手綱もないアダムは、背から落ちるしかなかった。羊群のなかに立っていた男が、手にした枝で羊を追って道に駆け出させたのを、アダムは眼の端ではっきりと捉えていた。
 パウドを連れて、険しい表情のザルフィが歩いてきた。
「悪かった。あいつ、俺が負けると思って勝手に余計なことした。許してくれ、アダム」
 不思議と、腹は立たなかった。アダムもパウドも、怪我はしていない。つまらないことで邪魔をされた、と思っただけだ。
「あいつ、痛めつける。アダムも、好きなだけあいつを殴っていい」
「勝負はどうするんだ?」
「勝負は、なしだ。いや違う、俺の負けだ。卑怯なこと、あいつがした。それ、酋長である俺の負けだ。俺のことも、思い切り殴っていい」
「いいんだ、ザルフィ。わかったから泣くな」
「恩人のアダムに、悪いことをした。謝りたい」
「もう、謝ったさ」
 アダムは近くに転がっている岩のそばまでパウドを連れていき、岩を足場にして再び跨った。
「なにしてる。早く行こう、ザルフィ」
「行くって、どこへ?」
「喉が渇いた」
 アダムは言って、緑が広がる北山の麓を指さした。ザルフィが何度もうなずいた。
 ひと駆けで、水場に着いた。
 岩山から湧き出た水が小さな湖を作り、南東へと流れ出ている。流れのある水は澄み、そのまま飲んでも問題なかった。砂漠にはこうした水場がいくつかある。ただし、その流れを追っても途中で地中に消えていることが多く、迷ったときに流れをたどって川に行き着くようなことは難しい。乾季になると、干あがる水場もあるはずだ。
「さて。私の勝ちだったよな、ザルフィ」
 言いながら、アダムは水辺に腰をおろした。パウドたち馬は、思い思いに周囲の草をんでいる。
「競争して俺が負ければ、アダムの質問にはなんでも答える。酋長として言えないようなことも。忘れてない」
「よし。いくつか教えてほしい」
 小さくうなずき、ザルフィもアダムと並んで腰をおろした。草をむしり、指先で弄んでいる。少年のような仕草だった。
「まずは、蕘皙国ツァキシュロの駱駝部隊が、炳辣国ペラブカナハの孟王城を襲撃した理由だ」
 ザルフィが、しばらく黙った。白い水鳥が、舞い降りてくる。そのまま湖のなかほどに浮かんで翼を畳むと、首を曲げて羽をつくろいはじめた。気忙しく、くちばしを羽のなかに突っこんでいる。
「襲撃は、酋長たちの会合で決まった。俺は、蕘皙国の、蕘東じょうとう地域の端の酋長。ほかにも酋長は、たくさんいる。一年の間に四回、中央に集まって話す。決まりごととか」
「地域ごとに集落があって、それぞれに酋長がいるんだったな」
「蕘東だけでも、五人。俺は一番若い」
「それで」
「孟王城、小さい。でも孟国もうこくは水と、農地が豊か。それはみんな知ってた。蕘皙国には、牧草地はある。でもほとんどが、乾いた砂地。作物は育たない」
「耕作できる土地が欲しかったということか。なぜいまになって?」
蕘皙人ツァカ、増えた。子供たくさん生まれて、遊牧だけではえる者が出てきた」
「だからといって、いきなり襲うようなことをするのか、蕘皙国の人間は」
「水のないところでは、喉はうるおせない」
「炳辣国には、馬を売っているだろう。外貨が手に入るのなら、食料をあがなうこともできるはずだ」
「馬は売れる。だけど金が手に入っても、子供たち全員の腹が満たせるほどの食料は売ってもらえない。炳辣人ペラバも、大勢いる。俺たちには、食べ物以外の余ったものばかり、売ろうとする。酋長たちはずっと前から、作物が収穫できるようにしたい、と話していた」
「それで、なぜ攻めるのが孟王城ということになったんだ。孟国は北の辺境で、ここからはかなり遠い。越境してからなら、もっと近い場所にも、農地にできるような場所がないとは思えない」
 ザルフィが、また黙った。しばらく考える表情をしていたが、大きく息をついてから口を開いた。
「手引きが、あった」
「どんな」
「それだけは、どうしても言えない。酋長たちとの血の誓い、ある。誓いを破れば死ぬ。俺が死ねば、次は集落の子供たちが」
「待ってくれ。血の誓いなんて、いままで蕘皙国にあったのか?」
「酋長じゃない男が、集まりにいた。その男がやった」
「その男も、蕘皙人ツァカか?」
「そうかもしれないし、違うのかもしれない。言葉はおかしくなかった。でも顔はよくわからなかった。その男が、なんとかいう術を使うと言って、その術で酋長たちが誓った」
「その男の術、呪誓じゅぜいと言ってなかったか、ザルフィ?」
「言った。そうだ、呪誓術と言っていた」
 呪詛じゅその一種で、与えられた禁忌や、みずから口にした誓いを、命に変えてでも成し遂げなければならない、というものだ。術の効果がどれほどのものなのかはともかく、それだけの術を使うような、極秘の取り決めがあったということだ。
「その男が、どこへ行ったかわかるか?」
「わからない。三、四人の年寄りの酋長と一緒に、どこかへ行った」
 その年寄りを探すべきなのか。若いザルフィよりも、詳しいことを知っている可能性は高い。しかし、砂漠に点在する集落をひとつずつまわる余裕があるのか。
 もうひとつの手掛かりは、その術師の男だ。どこから、足取りを追うのが確実なのか。
 しばらく考えこんでから、アダムは立ちあがった。じっとしていても、事態は明らかにならない。
「その男なのかどうかはわからない」
 ぽつり、とザルフィが呟いた。眼は、湖を見つめたままだ。
「なんだって?」
炳都ペラブーハンには数年前から怪しげな術者がいて、いまは孟王城にいるらしい。向こうから戻ってきた、駱駝部隊の隊長の報告にあった。でも、その男とは違うかもしれない」
 言い終わっても、ザルフィは沈んだ様子でじっとしていた。泣いてはいない。アダムに言うべきかどうか、ずいぶんと悩んだのだろう。
 ザルフィは直接的な言い方を避けたが、それは炳都が関わっている、とアダムに教えたようなものだった。
 馬を売って外貨を手にした、ということは話のなかで認めた。つまり炳都との取引が存在していることは確かだ。良馬の少ない炳辣国では軍馬を必要としている。利害が一致し、手引きがあったのではないか。
 ずっと、わからないことが多すぎた。だがここにきて、絡まっていた糸が少しずつほどけてきている、とアダムは感じはじめていた。
 湖を漂っていた水鳥が不意に飛び立ち、陽を受けた雫がきらきらと散った。白い翼を広げ、上空へと舞いあがっていく。乾いた砂漠の空に、なんとも鮮やかな光景だった。
 それでもしばらくの間、ザルフィの眼が湖面を離れることはなかった。
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