20 / 37
盈虚
三
しおりを挟む
花を見ていた。
深い赤色をした花びらが、中央の黄色い芯のような部分を掌で包むようにして咲いている。葉に満ちた雨水が滑り、落ちた透明な雫が花びらをすっと走る。
繰り返されるその光景を、じっと見ていた。城の中庭に咲いていた花で、名はわからなかった。
ルネルは眼を開いた。見ていたのは、幼いころの何気ない風景だった。四、五歳くらいだろう。雨あがりの中庭に出て立ち尽くし、ただ赤い花を見ていた。いつも見ていたというわけではない。ルネル自身、ずっと忘れていたことだ。なぜ、いまになってそれを思い出すのか。
それ以上は、考えることをやめた。聖御のさなかである。余計なことを考えるのは、原理の神々と向き合えていないからだ、とルネルは未熟な自分を恥じた。
聖御は、原理神教の信徒が毎日欠かさずに行う修練のひとつである。肉体や心の修練を通じて、原理の神々へと近づくことを目的としている。聖御は壱式から六式まであり、すべての基本となるのが、いまルネルが行っている壱式静であった。壱式は、心の虚しさや動揺を遠ざける。そして静寂な境地に至る、という初歩的な修練である。
このところ、ルネルはその初歩すらも満足にできていなかった。火の前に腰をおろして脚を組み、手指を組み、眼を閉じる。しばらくは、取り留めのないことが去来する。そこまでは、変わったことではない。よほどの高僧でもなければ、そういうものなのだ。
エフレム・ヴィクノール。やはりどうしても、頭を離れなかった。姿勢だけは聖御の作法に則っているが、ふと気づいたときには、考えてしまっているのだ。
エフレムが無事かどうかと考えて、答えが出るわけではない。なにもわかりはしないのだ。それを追いやるために、無理に別のことを考えようとして、幼い日の赤い花のことなどを思い出したのかもしれない。
エフレムは、優秀な隠術師だった。ルネルの従者となったことで、隠術師団とは別の任務に就くことも少なくなかったが、ルネルの見るかぎり、あらゆる面で師長よりも秀でた技倆を持っていた。弓術は、その最たるものだろう。ルネルの稽古中、強風に揺れる枝の葉を一矢で射抜いてみせたこともあった。
そのエフレムが流刑となったのは自分のせいだ、とルネルは歯噛みする思いだった。ルネルが宝物庫に無断で入りさえしなければ、たとえ地図が消えていたとしても、エフレムが咎められることはなかったはずなのだ。
西域の蕘皙国が攻め入ってきたときに、城に残っていた隠術師たちは、ことごとく死んだ。流刑で北へと送られたエフレムだけは、生きていてほしい。いや、生きているはずだ。
流刑となる少し前、エフレムは蛇に噛まれた、と言っていた。少しくらい毒があったほうが刺激があっていい、などと冗談を言って笑っていた。そんな男が、孤島に送られたからといって簡単に死んだりするわけがない。
孟国が攻めこまれたことなど、エフレムは知りようもないはずなのだ。流された先の離島で、魚や鳥獣を捕らえながら、平穏に暮らしていればいい。こちらから会いに行くことだってできるのだ。
そこまで考えて、ルネルは唇を噛んだ。
エフレムはきっと、恨んでいるだろう。ルネルは、こみあげてくる涙を抑えこんだ。自分に、涙を流す資格などない。民や兵、隠術師たちの屍(かばね)を踏み越えるようにして、いまの自分は生きている。
孟国は滅びた。しかしエフレムが、孟王や王家に対する恨みを抱き、深い憎しみとなれば、いずれ原理神教の教えに背くことになるだろう。宿業を抱えたまま生きれば、死しても魂は救われない。それが原理神教の教えだ。
エフレムに対して、それだけのことをしたのだ、とルネルは思った。聖御の姿勢は崩していない。それでもやはり、心は風雨のなかにあった。
戸が叩かれる音で、とっさに槍を執った。片膝立ちで身構える。決まった調子で叩かれる合図だとわかり、息を吐く。
「婆や」
「ルネル様。いかがですか、ご気分は?」
「変わらない。変わってはいけないのだとも思う」
言うと、老婆が顔の皺をさらに深くした。笑ったのだ。この山の麓にある崩れかけた小屋で暮らしている、元隠術師の老婆である。ルネルは、婆や、と呼んでいた。齢は知らない。八十は過ぎていそうな気配だった。
隠術師の師長は、ルネルを中心とした孟国の復興を望んでいた。孟王として担がれたルネル自身はすでに望みを持っていなかったが、師長は状況は変えられると信じていたのだ。少なくとも、岩山に身を寄せていたときには、そうだった。
その岩山も襲撃を受け、散り散りになって追われながら師長が目指すように言ったのが、婆やの小屋だった。ルネルは、幼いころに会ったことがあるようだったが、覚えていなかった。婆やの隠居小屋を訪れたことは、一度もない。
「あいにく山菜しかありませんでな。登りながら罠を仕掛けてきたので、そのうちなにか獲れるといいのですが」
「いいのよ、婆や。無理しないで」
床におろされた竹籠には、茸や木の実などを中心に、炳辣薇以外にもさまざまな山菜が入っていた。いまルネルのいる小屋は、山を登り、山頂からさらにいくつかの急斜面をくだった竹林のなかにある。老体にはどう考えても無謀な道だった。それでも踏破できるのは、隠術師として厳しい調練を重ねた、若いころの経験があるからなのだろう。婆やは、山道に適した足の運び方というものがある、と言って笑うだけだった。
ルネルの心配をよそに、婆やは小屋に転がっていた大鍋を拾いあげ、湯を沸かしはじめた。もともと山菜採りに使われていた小屋で、古くなってはいるが大抵のものは揃っているようだ。
ルネルは、婆やにエフレムのことを訊くかどうか、束の間迷った。
「礼の、荷運びの男。杖を置いて行ったのですな」
訊くより先に、アダムの話になった。婆やが眼をやる奥の壁に、アダムが持っていた白杖が立て掛けてある。
「ええ。必ず戻る、という意味だとか」
「ほう」
それだけ言うと、婆やはもう杖に興味を失ったようだった。薪を増やして、炎を大きくしている。
「本当なら、私がルネル様を簪呂国へお連れしたい。いますぐにでも。師長だけでも生きておったなら、と思います」
「ごめんなさい」
「孟王は、簡単に謝ってはなりませんぞ、ルネル様。この婆やとて、お気持ちは痛いほどわかるのです。真相を知らなければならぬ、というお気持ちは」
手を動かしながら呟くような婆やの口調にも、やはり口惜しさが滲んでいた。現役を退いたとはいえ、王家に対する忠誠心のようなものは、隠術師であったころとなにも変わっていないのだろう。その真直ぐな思いにすら応えられない自分自身を、ルネルは哀しく見つめるような気分だった。だが、知らずに生きていくことはできない。それは、動かしがたい思いだった。
なぜ、西域が攻めこんできたのか。
王家には、父祖から受け継がれてきたそれなりの蓄えがあり、雨季を利用した農耕もうまくいっていた。臣下も民も、飢えるようなことなどなく、野心に身を焦がすような者は、ルネルの知るかぎり一人としていなかった。みなが原理神教の信徒だったのだ。それは炳都にしても同じことだった。野心のようなものが魂を穢し、どれだけ自分の首を絞めるかということは、信徒であれば骨身に沁みて知っているはずである。
ずっと、気になっていることがあった。
かたちとしては庇護を受ける恰好であったはずの孟王城が攻められても、炳都が動いたという話は、これまで一度も耳にしなかったのだ。城を離脱してから隠術師たちが調べたかぎり、西域の男たちが王都へと至る南道を塞いだあとも、炳都がなにか対策を講じたという情報は得られていない。討伐の兵が出動したというような報せも、隠術師たちからは聞くことができなかった。
違和感はあったが、それは確実なことではなかった。都は遠い。調べ歩く隠術師も限られていたし、連日の移動で、掴める情報もわずかなものだったのだ。なにより、原理神教の信仰のあり方に照らし合わせて突き詰めていくと、どうしても途中で説明がつかなくなる。信徒がそんな選択をするわけがない、と結局はどんな仮説も説得力に欠けることになるのだ。炳都も、なにかしら動いたはずで、情報を掴めなかっただけなのだ、と考えるのが自然だった。
孟国も炳都も、原理神教の信仰とともにある。確かなのは、それだけである。
「婆やは、アダムさんのことをどう思った?」
「さて、どうですかな。腕は立つ。技倆があるのは、眼や、なんでもない挙措からでもわかります。隙はありませんでした。信用できる男かどうか、という点では、隠術師を隠退して炳西の集落で雑貨商をやっておる老人が認めておるので、私はあえて判断はしませんでした。流れ者のようですが、わずかでも疑わしいようであれば、荷運びを依頼するようなことはしなかったはずですので」
「なぜ、流れ者の彼が選ばれたのかは知ってるの、婆やは?」
「隠術師であれば、任せずともルネル様を守ります。しかし、それゆえに逃げ切る前に命を落とす者が続出することは予測できました。隠術師とあらば、物資の調達で単独行動しているときにも狙われましたろう。孟国を攻める以上、こちらの動きには眼を光らせていたはず。そこで万一の備えとして、あえて簪呂国への越境には、部外者を使うことを考えたのです。それは師長の判断で、伝令の早馬が駆けております」
「師長が。そうだったの」
「こんなときこそ、我らのような隠居の者が動ければよかったのですが、簪呂国への道は険しく、老いぼれどもには、とてもお守りできるとは思えませんでな。結果として、一応の備えが活きることになりました」
「アダムさんは、森で襲われて追われていたとか。その追手は、婆やが引き受けてくれたのよね」
「老いても短剣の投げ方を忘れはしません。小屋の壁の四方にも日頃から仕掛けが施してありましてな。駆けまわるような立ち合いはもうできませんが、老いたぶんだけ工夫する智恵も持っております」
「追手は、どこかの隠術師だったの?」
「ええ。しかし所属を示すものはなにも。面体を覆う布を剥ぎ取ると、炳辣人の容貌をしておりましたが」
「炳辣国のどこかの勢力が、西域の連中と手を結んでいるということなの?」
「一概にそうとも言えません。西域の蕘皙国にも、炳辣人の血を引く者はおりますし。確かなのは、孟国の隠術師ではないということだけですな」
「アダムさんに、手掛かりを持ち帰ってもらうしかない、ということね」
おそらくアダムは、戻ってくるだろう。白杖がここにあるからではなく、そういう男なのだとルネルは明確な理由もなく思っていた。それでも杖を置いていったのは、少しでも安心をさせるためだったのか。
本当は、ルネルが自分で調べてまわりたかった。小屋にいても考えるばかりで、じっとしていることが耐えられなくなってくる。命が惜しいとは思わなかった。だが、投げ出すことはできない。死ななくてもいい者たちが、ルネルを生かすために大勢死んでいった。それを思うと、迂闊に小屋を動くこともできないのだった。
「山菜を茹でるまでに、まだしばらくかかります」
言って、ルネルの心の動揺を見透かしたかのように、婆やが脚を組みはじめた。ルネルもあとに続く。
聖御。指組みをして、眼を閉じる。
いま自分にできることは、本当になにもないのか。なんのために、王女として生き、孟王として守られたというのか。胸に轟々と渦巻くものは、黒くざらついた夜の嵐のようである。生きている。だから悩み、苦しむのだ。自分のために死んでいった者たちは、もうそれすらもできないのだ、とルネルは思った。
壱式静。心の虚しさや動揺を止め、静寂な境地に至る。そんな日が、いつかまた自分にも来るのだろうか。
また、赤い花を見ていた。
忘れていたことがあった、とルネルは気づいた。雫の滴る花を見ながら、待っていたのだ。背後から肩にかけられる、雨除けの套衣。振り返ると、いつもそこにはエフレムがいたのだった。
不意に思い出し、思いがけず涙があふれてきた。
それでも眼は開かなかった。音もなく涙が流れていく。それだけを、ルネルははっきりと感じていた。
深い赤色をした花びらが、中央の黄色い芯のような部分を掌で包むようにして咲いている。葉に満ちた雨水が滑り、落ちた透明な雫が花びらをすっと走る。
繰り返されるその光景を、じっと見ていた。城の中庭に咲いていた花で、名はわからなかった。
ルネルは眼を開いた。見ていたのは、幼いころの何気ない風景だった。四、五歳くらいだろう。雨あがりの中庭に出て立ち尽くし、ただ赤い花を見ていた。いつも見ていたというわけではない。ルネル自身、ずっと忘れていたことだ。なぜ、いまになってそれを思い出すのか。
それ以上は、考えることをやめた。聖御のさなかである。余計なことを考えるのは、原理の神々と向き合えていないからだ、とルネルは未熟な自分を恥じた。
聖御は、原理神教の信徒が毎日欠かさずに行う修練のひとつである。肉体や心の修練を通じて、原理の神々へと近づくことを目的としている。聖御は壱式から六式まであり、すべての基本となるのが、いまルネルが行っている壱式静であった。壱式は、心の虚しさや動揺を遠ざける。そして静寂な境地に至る、という初歩的な修練である。
このところ、ルネルはその初歩すらも満足にできていなかった。火の前に腰をおろして脚を組み、手指を組み、眼を閉じる。しばらくは、取り留めのないことが去来する。そこまでは、変わったことではない。よほどの高僧でもなければ、そういうものなのだ。
エフレム・ヴィクノール。やはりどうしても、頭を離れなかった。姿勢だけは聖御の作法に則っているが、ふと気づいたときには、考えてしまっているのだ。
エフレムが無事かどうかと考えて、答えが出るわけではない。なにもわかりはしないのだ。それを追いやるために、無理に別のことを考えようとして、幼い日の赤い花のことなどを思い出したのかもしれない。
エフレムは、優秀な隠術師だった。ルネルの従者となったことで、隠術師団とは別の任務に就くことも少なくなかったが、ルネルの見るかぎり、あらゆる面で師長よりも秀でた技倆を持っていた。弓術は、その最たるものだろう。ルネルの稽古中、強風に揺れる枝の葉を一矢で射抜いてみせたこともあった。
そのエフレムが流刑となったのは自分のせいだ、とルネルは歯噛みする思いだった。ルネルが宝物庫に無断で入りさえしなければ、たとえ地図が消えていたとしても、エフレムが咎められることはなかったはずなのだ。
西域の蕘皙国が攻め入ってきたときに、城に残っていた隠術師たちは、ことごとく死んだ。流刑で北へと送られたエフレムだけは、生きていてほしい。いや、生きているはずだ。
流刑となる少し前、エフレムは蛇に噛まれた、と言っていた。少しくらい毒があったほうが刺激があっていい、などと冗談を言って笑っていた。そんな男が、孤島に送られたからといって簡単に死んだりするわけがない。
孟国が攻めこまれたことなど、エフレムは知りようもないはずなのだ。流された先の離島で、魚や鳥獣を捕らえながら、平穏に暮らしていればいい。こちらから会いに行くことだってできるのだ。
そこまで考えて、ルネルは唇を噛んだ。
エフレムはきっと、恨んでいるだろう。ルネルは、こみあげてくる涙を抑えこんだ。自分に、涙を流す資格などない。民や兵、隠術師たちの屍(かばね)を踏み越えるようにして、いまの自分は生きている。
孟国は滅びた。しかしエフレムが、孟王や王家に対する恨みを抱き、深い憎しみとなれば、いずれ原理神教の教えに背くことになるだろう。宿業を抱えたまま生きれば、死しても魂は救われない。それが原理神教の教えだ。
エフレムに対して、それだけのことをしたのだ、とルネルは思った。聖御の姿勢は崩していない。それでもやはり、心は風雨のなかにあった。
戸が叩かれる音で、とっさに槍を執った。片膝立ちで身構える。決まった調子で叩かれる合図だとわかり、息を吐く。
「婆や」
「ルネル様。いかがですか、ご気分は?」
「変わらない。変わってはいけないのだとも思う」
言うと、老婆が顔の皺をさらに深くした。笑ったのだ。この山の麓にある崩れかけた小屋で暮らしている、元隠術師の老婆である。ルネルは、婆や、と呼んでいた。齢は知らない。八十は過ぎていそうな気配だった。
隠術師の師長は、ルネルを中心とした孟国の復興を望んでいた。孟王として担がれたルネル自身はすでに望みを持っていなかったが、師長は状況は変えられると信じていたのだ。少なくとも、岩山に身を寄せていたときには、そうだった。
その岩山も襲撃を受け、散り散りになって追われながら師長が目指すように言ったのが、婆やの小屋だった。ルネルは、幼いころに会ったことがあるようだったが、覚えていなかった。婆やの隠居小屋を訪れたことは、一度もない。
「あいにく山菜しかありませんでな。登りながら罠を仕掛けてきたので、そのうちなにか獲れるといいのですが」
「いいのよ、婆や。無理しないで」
床におろされた竹籠には、茸や木の実などを中心に、炳辣薇以外にもさまざまな山菜が入っていた。いまルネルのいる小屋は、山を登り、山頂からさらにいくつかの急斜面をくだった竹林のなかにある。老体にはどう考えても無謀な道だった。それでも踏破できるのは、隠術師として厳しい調練を重ねた、若いころの経験があるからなのだろう。婆やは、山道に適した足の運び方というものがある、と言って笑うだけだった。
ルネルの心配をよそに、婆やは小屋に転がっていた大鍋を拾いあげ、湯を沸かしはじめた。もともと山菜採りに使われていた小屋で、古くなってはいるが大抵のものは揃っているようだ。
ルネルは、婆やにエフレムのことを訊くかどうか、束の間迷った。
「礼の、荷運びの男。杖を置いて行ったのですな」
訊くより先に、アダムの話になった。婆やが眼をやる奥の壁に、アダムが持っていた白杖が立て掛けてある。
「ええ。必ず戻る、という意味だとか」
「ほう」
それだけ言うと、婆やはもう杖に興味を失ったようだった。薪を増やして、炎を大きくしている。
「本当なら、私がルネル様を簪呂国へお連れしたい。いますぐにでも。師長だけでも生きておったなら、と思います」
「ごめんなさい」
「孟王は、簡単に謝ってはなりませんぞ、ルネル様。この婆やとて、お気持ちは痛いほどわかるのです。真相を知らなければならぬ、というお気持ちは」
手を動かしながら呟くような婆やの口調にも、やはり口惜しさが滲んでいた。現役を退いたとはいえ、王家に対する忠誠心のようなものは、隠術師であったころとなにも変わっていないのだろう。その真直ぐな思いにすら応えられない自分自身を、ルネルは哀しく見つめるような気分だった。だが、知らずに生きていくことはできない。それは、動かしがたい思いだった。
なぜ、西域が攻めこんできたのか。
王家には、父祖から受け継がれてきたそれなりの蓄えがあり、雨季を利用した農耕もうまくいっていた。臣下も民も、飢えるようなことなどなく、野心に身を焦がすような者は、ルネルの知るかぎり一人としていなかった。みなが原理神教の信徒だったのだ。それは炳都にしても同じことだった。野心のようなものが魂を穢し、どれだけ自分の首を絞めるかということは、信徒であれば骨身に沁みて知っているはずである。
ずっと、気になっていることがあった。
かたちとしては庇護を受ける恰好であったはずの孟王城が攻められても、炳都が動いたという話は、これまで一度も耳にしなかったのだ。城を離脱してから隠術師たちが調べたかぎり、西域の男たちが王都へと至る南道を塞いだあとも、炳都がなにか対策を講じたという情報は得られていない。討伐の兵が出動したというような報せも、隠術師たちからは聞くことができなかった。
違和感はあったが、それは確実なことではなかった。都は遠い。調べ歩く隠術師も限られていたし、連日の移動で、掴める情報もわずかなものだったのだ。なにより、原理神教の信仰のあり方に照らし合わせて突き詰めていくと、どうしても途中で説明がつかなくなる。信徒がそんな選択をするわけがない、と結局はどんな仮説も説得力に欠けることになるのだ。炳都も、なにかしら動いたはずで、情報を掴めなかっただけなのだ、と考えるのが自然だった。
孟国も炳都も、原理神教の信仰とともにある。確かなのは、それだけである。
「婆やは、アダムさんのことをどう思った?」
「さて、どうですかな。腕は立つ。技倆があるのは、眼や、なんでもない挙措からでもわかります。隙はありませんでした。信用できる男かどうか、という点では、隠術師を隠退して炳西の集落で雑貨商をやっておる老人が認めておるので、私はあえて判断はしませんでした。流れ者のようですが、わずかでも疑わしいようであれば、荷運びを依頼するようなことはしなかったはずですので」
「なぜ、流れ者の彼が選ばれたのかは知ってるの、婆やは?」
「隠術師であれば、任せずともルネル様を守ります。しかし、それゆえに逃げ切る前に命を落とす者が続出することは予測できました。隠術師とあらば、物資の調達で単独行動しているときにも狙われましたろう。孟国を攻める以上、こちらの動きには眼を光らせていたはず。そこで万一の備えとして、あえて簪呂国への越境には、部外者を使うことを考えたのです。それは師長の判断で、伝令の早馬が駆けております」
「師長が。そうだったの」
「こんなときこそ、我らのような隠居の者が動ければよかったのですが、簪呂国への道は険しく、老いぼれどもには、とてもお守りできるとは思えませんでな。結果として、一応の備えが活きることになりました」
「アダムさんは、森で襲われて追われていたとか。その追手は、婆やが引き受けてくれたのよね」
「老いても短剣の投げ方を忘れはしません。小屋の壁の四方にも日頃から仕掛けが施してありましてな。駆けまわるような立ち合いはもうできませんが、老いたぶんだけ工夫する智恵も持っております」
「追手は、どこかの隠術師だったの?」
「ええ。しかし所属を示すものはなにも。面体を覆う布を剥ぎ取ると、炳辣人の容貌をしておりましたが」
「炳辣国のどこかの勢力が、西域の連中と手を結んでいるということなの?」
「一概にそうとも言えません。西域の蕘皙国にも、炳辣人の血を引く者はおりますし。確かなのは、孟国の隠術師ではないということだけですな」
「アダムさんに、手掛かりを持ち帰ってもらうしかない、ということね」
おそらくアダムは、戻ってくるだろう。白杖がここにあるからではなく、そういう男なのだとルネルは明確な理由もなく思っていた。それでも杖を置いていったのは、少しでも安心をさせるためだったのか。
本当は、ルネルが自分で調べてまわりたかった。小屋にいても考えるばかりで、じっとしていることが耐えられなくなってくる。命が惜しいとは思わなかった。だが、投げ出すことはできない。死ななくてもいい者たちが、ルネルを生かすために大勢死んでいった。それを思うと、迂闊に小屋を動くこともできないのだった。
「山菜を茹でるまでに、まだしばらくかかります」
言って、ルネルの心の動揺を見透かしたかのように、婆やが脚を組みはじめた。ルネルもあとに続く。
聖御。指組みをして、眼を閉じる。
いま自分にできることは、本当になにもないのか。なんのために、王女として生き、孟王として守られたというのか。胸に轟々と渦巻くものは、黒くざらついた夜の嵐のようである。生きている。だから悩み、苦しむのだ。自分のために死んでいった者たちは、もうそれすらもできないのだ、とルネルは思った。
壱式静。心の虚しさや動揺を止め、静寂な境地に至る。そんな日が、いつかまた自分にも来るのだろうか。
また、赤い花を見ていた。
忘れていたことがあった、とルネルは気づいた。雫の滴る花を見ながら、待っていたのだ。背後から肩にかけられる、雨除けの套衣。振り返ると、いつもそこにはエフレムがいたのだった。
不意に思い出し、思いがけず涙があふれてきた。
それでも眼は開かなかった。音もなく涙が流れていく。それだけを、ルネルははっきりと感じていた。
0
お気に入りに追加
1
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる