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盈虚
一
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雨は、断続的に降り続いていた。降りはじめると二刻(約一時間)はやまずに猛烈に降る。暑季ほどの陽射しはないが、日中はとにかく蒸し暑い。
早朝から、周辺の竹林で野鳥を捕らえ、山菜を集めたりして小屋に戻ったあと、半日ほどかけて詳しい事情を聞いた。すでに陽は暮れ、昨夜と同じような雨が降っている。風だけは弱くなっているようだ。
「あなたも、雨を浴びてきたら?」
ルネル・グゼイブ。話を聞けば、孟国と呼ばれる、小国の王女だった。
逃げ続けの身で汚れており、しかも槍などを執ってはいたが、整った目鼻立ちや身に着けた装飾品が、いかにも王族のお嬢様、という気品を漂わせていた。荒っぽく振る舞ってみせてはいるが、言葉の端々にもそれは表れている。
躰を拭きあげ、套衣だけを羽織った姿で、ルネルは火の前に腰をおろした。きめ細かい褐色の肌は輝き、髪先からは、まだ雫がしたたっているようだ。
「そうだな。この山菜を茹で終えたら、そうするか」
ずっと気を張っていたが、追手の気配はなかった。山の麓で老婆が食い止めた、ということなのだろうか。あれだけの殺気を放つ手練れに囲まれて、無事でいられるとは到底思えなかった。だが、ルネルは老婆の無事を信じて疑っていない。なにか根拠があるらしく、実際に追手が途絶えているので、アダムも無理に否定しようとは思わなかった。無事ならば、そのほうがいいのだ。
茹でた山菜を竹籠にあげ、そのまま水にさらしてアダムは腰をあげた。
戸口のそばで着ているものをすべて脱ぎ、雨のなかへ出る。ルネルもここで衣服を脱ぎ、外へ出たはずだ。小屋のなかには視界を遮るものなどなにもないが、その様子を盗み見るような真似はしなかった。
小屋の周囲は、竹林だった。手入れなどまったくされていない。ここでの仕事を請けたアダムも、あらかじめ山の頂上からの目印を聞かされていなければ、容易にはたどり着けなかっただろう。そばを通っても、竹に呑まれるようにしてひっそりと建つ小屋には、気づけなかったに違いない。つまり、身を隠すにはうってつけの場所だといえた。
顔に貼りついた濡れ髪を掻きあげながら上を向く。相変わらず、激しい雨だった。打ちつける雨粒は大きく、眼を開けてはいられなかった。
アダムは雨に打たれながら、眼を閉じてルネルの話を思い返していた。
炳辣国北部の辺境にあったルネルの故国、孟国は三か月ほど前に襲撃を受け、攻め滅ぼされていた。
敵は、西域からやって来たという。頭に朱色の布を巻いて幅広の剣を佩き、白い駱駝に跨るのは、西域一帯に版図を広げる蕘皙国の軍勢である。
牧草地の広がる西域には良馬も多い。駱駝だけでなく、騎馬隊もかなりの数、編成されていたようだ。駱駝部隊を迎え撃つ孟国に馬はそれほど多くなく、策尽きて籠城するも水源を絶たれ、なすすべもなく孟王城は攻め落とされた。
王家であるグゼイブ一族は、ルネル一人を残して討ち取られている。逃げ遅れた兵や民も同様に、ことごとく斬り捨てられたようだ。
ルネルを救い出したのは、代々の王家に仕えてきた隠術師団だったという。辺境の小国に、優れた隠術師団が存在したことが、アダムにはいささか驚きだった。
隠術師団は、ときには暗殺や謀略をも担う、影の集団である。彼らは信仰を守るために存在していた、というのがルネルの考えだった。
孟国は、原理神教を深く信仰していた。僧侶を中心にして、聖御と呼ばれる、瞑想のような儀式を行う宗教で、炳辣国一帯では実に古くから根強く、また広く支持されているものだ。アダムも以前、炳都の大寺院で聖御の見物をしたことがあった。
孟国の隠術師たちも、みなが原理神教の信徒だったという。進んで領外へ打って出るようなことはないが、信仰のためという大義があり、そこに孟王の下知がくだれば、私心を抱かず果敢に闘う集団だったようだ。
信仰のために闘う。それによって、生まれながらに与えられた宿業を払い、原理の神々へと近づけるのだ、とルネルは言った。
森でアダムに襲いかかってきたのも、おそらくは隠術師だった。そのことをルネルに話すと、孟国の隠術師ではない、と断言した。信仰に仇なす者とわからぬうちに斬りかかるような者は、孟国の隠術師にはいない、というのだ。確かに、どこの所属かはわからなかった。孟国が一団を抱えていたのだから、ほかの地方小国も同様に隠術師を使っている、ということも考えられないことではなかった。
眼を開き、闇を見つめる。深い闇だった。風に揺れた竹が軋り、からからと音をたてて打ち鳴らし合っている。
アダムは掌で雨水を受け、それで耳を洗った。耳を澄ます。竹林から、なにか聞こえそうな気がしたのだ。待ってみたが、風雨の音だけだった。
北の簪呂国へと越境し、ルネルを安全な場所へ連れて行くことが、アダムの請けた仕事のすべてだ。
しかしルネルは、真相を知らずに生き長らえても、死んでいった故国の者たちに顔向けができない、と嘆いた。声を詰まらせ、震わせながらも気丈に振る舞っていたが、ルネルの大きな眼には涙が浮かんでいた。
その涙がはじめて落ちたのは、ルネルが一人の隠術師について話しはじめたときだった。
エフレム・ヴィクノール。従者のように、常にそばに控えていた隠術師で、ルネルが物心ついたときには、すでに兄のような存在として、ごくあたりまえに隣りにいたという。隠術師たちの多くがするように面体を隠すことはなく、むしろ隠術師であるということを伏せて、ルネルの身を守っていたようだ。
三十五歳にして、岩をも射抜くほどの強弓を遣う武術の達人として、その名は炳都でも知られていたらしい。アダムも噂話程度に、耳にしたことがあるような気がした。
そのエフレムが、姿を消した。孟国が攻めこまれる五日前のことだった、とルネルは続けた。
亡き母の化粧道具が宝物庫にあると知ったルネルは、父王と番兵が狩りで城を出ているときに、眼を盗んで一人で宝物庫の鍵を開けたという。王からは立ち入りを禁じられていたらしい。
翌朝、近隣の詳細な地図が宝物庫からなくなっている、と番兵から報告があった。地図というのは国の重要な機密である。騒ぎが大きくなる前に、ルネルは前日、宝物庫に入ったことを正直に明かした。地図には心あたりはなかったが、王の叱責は、当然ながら相当に厳しいものだったようだ。
宝物庫の番兵を狩りに連れ出していたのは王であり、結局、仔の産まれる馬を見るために、ほんのひととき、ルネルから眼を離していたエフレムが責任を問われた。ルネルは父王に泣いてすがったが、処刑ではなく流刑としたのは恩情からだ、と一蹴されただけで、エフレムの追放は止められなかったという。
その後、西域、つまり蕘皙国の軍勢が攻め寄せてきた。
しばらくなにも考えなかった。ただ、全身を雨に打たせる。蒸し暑さは、いつの間にか遠のいていた。
口を開け、流れこんできた雨水で渇きを潤す。生きている。理由もなく、そう思った。
簪呂国には、アダムの知人もいる。ルネルを連れていけば、それで仕事は終わりだ。
しかしルネルは、真相を知りたがっている。
不可解な点が、いくつかあった。
西域が境を越え、突如として攻めてきた動機、そして孟国を選んだ理由。孟国の防衛という点でも要人であったエフレムの追放と、それを待ってから攻めてきたような軍勢。何者かの手引きがあったとは考えられないか。
ルネルの言うように、みなが原理神教の教えに忠実だったとすれば、内応し、手引きする者がいたとは考えられない。彼らは、みずからの行為が魂に刻みこまれ、いずれ自分に返ってくると信じているからこそ、一心に信仰を続けていたはずなのだ。
地図は、本当に盗み出されたのか。ルネルの父は頑固で、峻厳な態度を崩さない王だったという。一人娘のルネルが、隠術師であるエフレムに対し、兄以上の憧れを抱いていることを察していた可能性はある。とすれば、エフレムをルネルから遠ざける狙いがあったようにも思えなくはない。エフレムの追放だけで、事が済んでいればだ。
しかし実際に孟国は滅ぼされ、王は死んでいる。
地図が盗まれたのなら、盗んだのはどこの勢力なのか。攻めてきた蕘皙国だとするのが自然だが、本当にそうなのか。見え隠れしている影。西域ではなく、アダムを襲った隠術師の一党の仕業だとすると、また別の勢力の気配を感じられはしないか。
考え続けたが、まとまらなかった。わからないことが多すぎるのだ。
風が唸っている。蒸し暑さどころか、雨に打たれ続けで躰が冷えてきていた。アダムは髪を束ねて絞り、戸板に手をかけた。
小屋に入る前にもう一度、背中越しの風を聴く。やはり、耳に届いてくる聲はなにもなかった。
躰を拭き、アダムも套衣を羽織って火のそばに戻った。竹林で捕らえた野鳥が、遠火で焼かれており、煙とともにいいにおいが立ち昇っている。小さな鳥だが、三羽獲れていた。
アダムは竹籠にあげておいた山菜を引き寄せ、水気を切ってから短剣で適当に切り分けた。竹ひと節の長さを縦半分に割ってふたつの器にし、そこに刻んだ山菜を分けて盛る。
炳辣薇と呼ばれる薇の一種は、口にしたことがあった。塩ひとつまみを加えて茹でてあるので、灰汁は抜けているはずだ。
鳥の肉と一緒に竹筒に詰め、火床に突き刺して蒸し焼きにする、という方法もあったが、ルネルがせっかく鳥を焼いているので、流れに任せることにした。
焼きあがるのを待つ間、と思いアダムは荷袋から酒瓶を取り出した。隠れ酒場の主人から、仕事の報酬と一緒に貰った高級品だ。襲われたときに瓶を割らなくてよかった、とアダムは思った。
ルネルの眼が、鋭く射抜いてくる。
「お酒?」
「ああ。私はべつに、原理神教の信徒じゃないしな」
原理神教では、禁酒が布かれている。ルネルから見れば、掟破りのようなものだ。忘れていたわけではないが、アダムは気にしなかった。なにを信じるか。つまり信仰というのは、個人のものだ。
器に注ぎ、ちょっと掲げて見せてから、口をつけた。とろみがあって甘いが、すっきりとした飲み口だ。西の大陸の酒だろう。
ルネルはじっと冷たい視線を投げかけているが、アダムは取り合わなかった。
鳥が焼けた。
焼けた鳥の肉を削ぎ、山菜を盛った隣に落としていく。ルネルは黙ったまま、アダムの手もとを見つめていた。いくらか伏せたルネルの眼には揺れる炎が映り、艶やかな輝きを放っている。
削ぎ終えた肉に塩を振りかけて、竹の器のひとつをルネルに渡した。竹で作った箆のようなものも添えてある。アダムのほうは、ただの棒だ。手掴みでも構わなかったが、なんとなくそうした。
肉を口に入れる。蒸し焼きでなくとも、青竹の豊かな香りが肉汁と混ざり合い、口のなかに広がった。美味い。柔らかく焼けており、噛んだところから甘みのある肉汁が飛び出してきた。
「すごく美味しい。久しぶりに食べた気がする、こういうの」
「君の、肉の焼き方がよかったんだ。皮はちょっとだけ焦げていて、なかのほうは柔らかい。焼きすぎると火のなかに脂が落ちてしまって、ぱさついた感じになるんだ」
「城を出てから、肉か魚を焼いてばかりだった。はじめて焼いた干肉は、黒焦げにしたのよ」
「私も、鹿肉を焼きながらぼんやりしていて、片面を真黒にしたことがあるよ」
アダムが言うと、ルネルがかすかに笑ったような気がした。火明かりのなかで、はっきりとは見てとれなかった。
いつかまた、手を叩いて笑えるような日が来ればいい。アダムは、眼を伏せて寂しそうな表情のまま、小さく口を動かすルネルを見て、そう思わずにはいられなかった。
「今夜だけでも、飲まないか。なかなか、いい酒だよ」
「一度も飲んだことないの。実はこうして中身の入った瓶を見るのもはじめて。わかってて言ってるんでしょ?」
「酒が、ほんのひとときだけでも、忘れさせてくれることはある。それで、なにもかも救われるとは言えないが」
「ありがとう。気にかけてくれているのね。でも、忘れようとは思わない。仕事をしたいあなたには悪いけど、やっぱり私は真相を知り、彼らをきちんと弔うまでは逃げたくない。どこに行ったって、そのことからは逃げられないのよ」
「そうか」
「あなたの宗教は?」
「あいにく、私に信仰はない」
アダムの答えを聞いて、ルネルが呆れたような表情を見せたあと、ひとつ溜息をついた。
「みなが教えに忠実でないから、歪みが生じるのよ。原理神教以外に、正しい教えなんてないんだから」
「そうかな」
小枝を使って火床を掻き混ぜ、いくつか薪を足す。食べ終えた竹の器も、アダムは火のなかに放りこんだ。
微妙な話題だった。信じるものは、信じる者が自分で決めればいい、とアダムは思っていた。他人がとやかく言って、なにか大きく変わるものでもない。ただ、これだけが絶対だと固執することは、危ういことだった。正義を掲げた刃で責めるうちに、知らぬ間に自身が斬られ、身を滅ぼすこともある。固執というのは、そういうものだ。
「ここよりずっと西方の、南壤大陸の大森林奥地で暮らす者たちは、吊床を大切にしている」
アダムは、旅先の話をすることにした。ルネルはまだ若く、孟国の外をほとんど知らない。これから視野が広がれば、おのずと見えてくるものもあるかもしれない、とアダムは思った。
「吊床って?」
「木立や柱に布の両端を結び、地から浮かせたまま寝転がって使う、寝具さ」
「ふうん。祈るよりも、寝る場所が大事なのね」
「そうじゃない。彼らは朝から晩まで、精霊に捧げるさまざまな儀式を執り行う。早朝の笛にはじまり、歌や踊りが続く。狩りの前には無事を、獲物を得て戻れば感謝を、また歌や踊りで捧げる。つまり一日中、精霊に祈り続けているわけだ。そして一日の終わりに休む吊床は、精霊の揺籠と考えられている」
「でも、自分たちで作った布なんでしょ?」
ルネルが、苦笑するように頬を歪めた。
「彼らは、赤子のころから吊床の布で寝る。死ぬまでずっと、同じ布を直しながら使うんだ。破れても縫い合わせることを繰り返してね。そして死者は、生涯使い続けたその布に包まれ、吊床の掛けられていた場所に埋められる」
「間違ってる。それじゃ弔ったことにはならない」
「私は、そうは思わなかった」
「荼毘に付すことで、はじめて弔いになるのよ。死者は火葬の炎によってのみ、天に還るの。葬儀を行わなければ、魂は地に留まって、悪霊や怨霊になってしまうんだから」
「と、原理神教の僧侶は説く。それは、私も聞いて知ってるよ」
言って、アダムは酒の器を呷った。二杯目を注ぐ。小さな器で、たいした量ではない。
「森深く入りこんでしまった私は、ひと晩、彼らの族長の家に屋根を借りた。族長は、一人息子をまだ小さなころに亡くし、家のなかの地面に埋めていた。息子の吊床を掛けていた場所にな。老いた族長は、息子が家のなかにいる、そう思うと家族は気持ちが安らぎ、自分は息子に会いたいときに、夢で会うことができる、と教えてくれた。もうほとんど見えていない眼に涙は浮かべていたが、笑顔は誇らしげだったよ」
二杯目の酒を呷る。やはり甘い酒だ。一人で飲むには、甘すぎる。とアダムは思った。
「彼らは彼らで、現実を受けとめて、慎ましく穏やかに生きてる。精霊に祈りを捧げ、悪霊にも怨霊にも悩まされていない。それでも間違った弔い方だと言い切れるかな?」
「それは」
「一度、信徒ではなくなったつもりで世界を眺めてみたら、違ったものの見方もできるようになるんじゃないかな、ルネル。世界は、絶えず変化し続けている。ひとつのことが絶対に正しいなんてことはないんだ、と私は思ってるよ。さっき君が言ったように、吊床は人の手で作られた布かもしれない。だけど彼らは信じている。君が原理の神々を信じるのと同じように」
「でも、原理神教は違う。大昔から受け継がれてきた、正しい信仰よ」
「同じさ。彼らの布を、たかが布だと君は嗤ったが、彼らは君の信じるものを嗤いはしないだろう。救いを求める人の手によって作られ、何世代にも渡って受け継がれてきたものとしては、なにも違わない。そのことを彼らは知っていた」
ルネルはなにか言い返そうとしたが、唇を噛み、そのままうつむいた。
アダムは酒瓶に蓋を叩きこんで、腰をあげた。
「明日の朝、もう一度だけ訊く」
「私は行かない。答えは変わらない」
「それならそれでいい。今日はもう休むんだ」
「どうしてなの」
「なにが?」
「どうして、放っておいてくれないの」
ルネルが思いつめた顔をあげ、アダムの眼を覗きこんできた。光の強い、強い意志を宿した眼だ。
「さあな」
「報酬は前金で貰ったんでしょう。放っておけばいい」
「それはできない。請けた仕事はやる。それに、死者を弔わなければ悪霊や怨霊になる、と言ったのは君だ」
「その話、信じてないんでしょ」
「人が、心のよりどころとして信じていることは尊重する。もし吊床が盗まれたと聞けば、危険でも森に探しに行く。私にとっては、吊床も原理神教も同じことだ」
戸惑ったような表情で、ルネルが見つめ続けている。女や子供のひたむきな眼はなんとなく苦手で、アダムは背を向けた。
「とにかく、答えは明日の朝だ。おやすみ」
アダムは戸口のそばに移動して腰をおろし、套衣で躰を包みこんで床板に横たわった。
すぐに、眠りが訪れてくる。ルネルの答えは、一択だろう。
眠りに落ちながら、アダムは再び南に戻ることをもう決めていた。
眼を閉じる。雨音が大きくなり、やがて遠くなっていった。
早朝から、周辺の竹林で野鳥を捕らえ、山菜を集めたりして小屋に戻ったあと、半日ほどかけて詳しい事情を聞いた。すでに陽は暮れ、昨夜と同じような雨が降っている。風だけは弱くなっているようだ。
「あなたも、雨を浴びてきたら?」
ルネル・グゼイブ。話を聞けば、孟国と呼ばれる、小国の王女だった。
逃げ続けの身で汚れており、しかも槍などを執ってはいたが、整った目鼻立ちや身に着けた装飾品が、いかにも王族のお嬢様、という気品を漂わせていた。荒っぽく振る舞ってみせてはいるが、言葉の端々にもそれは表れている。
躰を拭きあげ、套衣だけを羽織った姿で、ルネルは火の前に腰をおろした。きめ細かい褐色の肌は輝き、髪先からは、まだ雫がしたたっているようだ。
「そうだな。この山菜を茹で終えたら、そうするか」
ずっと気を張っていたが、追手の気配はなかった。山の麓で老婆が食い止めた、ということなのだろうか。あれだけの殺気を放つ手練れに囲まれて、無事でいられるとは到底思えなかった。だが、ルネルは老婆の無事を信じて疑っていない。なにか根拠があるらしく、実際に追手が途絶えているので、アダムも無理に否定しようとは思わなかった。無事ならば、そのほうがいいのだ。
茹でた山菜を竹籠にあげ、そのまま水にさらしてアダムは腰をあげた。
戸口のそばで着ているものをすべて脱ぎ、雨のなかへ出る。ルネルもここで衣服を脱ぎ、外へ出たはずだ。小屋のなかには視界を遮るものなどなにもないが、その様子を盗み見るような真似はしなかった。
小屋の周囲は、竹林だった。手入れなどまったくされていない。ここでの仕事を請けたアダムも、あらかじめ山の頂上からの目印を聞かされていなければ、容易にはたどり着けなかっただろう。そばを通っても、竹に呑まれるようにしてひっそりと建つ小屋には、気づけなかったに違いない。つまり、身を隠すにはうってつけの場所だといえた。
顔に貼りついた濡れ髪を掻きあげながら上を向く。相変わらず、激しい雨だった。打ちつける雨粒は大きく、眼を開けてはいられなかった。
アダムは雨に打たれながら、眼を閉じてルネルの話を思い返していた。
炳辣国北部の辺境にあったルネルの故国、孟国は三か月ほど前に襲撃を受け、攻め滅ぼされていた。
敵は、西域からやって来たという。頭に朱色の布を巻いて幅広の剣を佩き、白い駱駝に跨るのは、西域一帯に版図を広げる蕘皙国の軍勢である。
牧草地の広がる西域には良馬も多い。駱駝だけでなく、騎馬隊もかなりの数、編成されていたようだ。駱駝部隊を迎え撃つ孟国に馬はそれほど多くなく、策尽きて籠城するも水源を絶たれ、なすすべもなく孟王城は攻め落とされた。
王家であるグゼイブ一族は、ルネル一人を残して討ち取られている。逃げ遅れた兵や民も同様に、ことごとく斬り捨てられたようだ。
ルネルを救い出したのは、代々の王家に仕えてきた隠術師団だったという。辺境の小国に、優れた隠術師団が存在したことが、アダムにはいささか驚きだった。
隠術師団は、ときには暗殺や謀略をも担う、影の集団である。彼らは信仰を守るために存在していた、というのがルネルの考えだった。
孟国は、原理神教を深く信仰していた。僧侶を中心にして、聖御と呼ばれる、瞑想のような儀式を行う宗教で、炳辣国一帯では実に古くから根強く、また広く支持されているものだ。アダムも以前、炳都の大寺院で聖御の見物をしたことがあった。
孟国の隠術師たちも、みなが原理神教の信徒だったという。進んで領外へ打って出るようなことはないが、信仰のためという大義があり、そこに孟王の下知がくだれば、私心を抱かず果敢に闘う集団だったようだ。
信仰のために闘う。それによって、生まれながらに与えられた宿業を払い、原理の神々へと近づけるのだ、とルネルは言った。
森でアダムに襲いかかってきたのも、おそらくは隠術師だった。そのことをルネルに話すと、孟国の隠術師ではない、と断言した。信仰に仇なす者とわからぬうちに斬りかかるような者は、孟国の隠術師にはいない、というのだ。確かに、どこの所属かはわからなかった。孟国が一団を抱えていたのだから、ほかの地方小国も同様に隠術師を使っている、ということも考えられないことではなかった。
眼を開き、闇を見つめる。深い闇だった。風に揺れた竹が軋り、からからと音をたてて打ち鳴らし合っている。
アダムは掌で雨水を受け、それで耳を洗った。耳を澄ます。竹林から、なにか聞こえそうな気がしたのだ。待ってみたが、風雨の音だけだった。
北の簪呂国へと越境し、ルネルを安全な場所へ連れて行くことが、アダムの請けた仕事のすべてだ。
しかしルネルは、真相を知らずに生き長らえても、死んでいった故国の者たちに顔向けができない、と嘆いた。声を詰まらせ、震わせながらも気丈に振る舞っていたが、ルネルの大きな眼には涙が浮かんでいた。
その涙がはじめて落ちたのは、ルネルが一人の隠術師について話しはじめたときだった。
エフレム・ヴィクノール。従者のように、常にそばに控えていた隠術師で、ルネルが物心ついたときには、すでに兄のような存在として、ごくあたりまえに隣りにいたという。隠術師たちの多くがするように面体を隠すことはなく、むしろ隠術師であるということを伏せて、ルネルの身を守っていたようだ。
三十五歳にして、岩をも射抜くほどの強弓を遣う武術の達人として、その名は炳都でも知られていたらしい。アダムも噂話程度に、耳にしたことがあるような気がした。
そのエフレムが、姿を消した。孟国が攻めこまれる五日前のことだった、とルネルは続けた。
亡き母の化粧道具が宝物庫にあると知ったルネルは、父王と番兵が狩りで城を出ているときに、眼を盗んで一人で宝物庫の鍵を開けたという。王からは立ち入りを禁じられていたらしい。
翌朝、近隣の詳細な地図が宝物庫からなくなっている、と番兵から報告があった。地図というのは国の重要な機密である。騒ぎが大きくなる前に、ルネルは前日、宝物庫に入ったことを正直に明かした。地図には心あたりはなかったが、王の叱責は、当然ながら相当に厳しいものだったようだ。
宝物庫の番兵を狩りに連れ出していたのは王であり、結局、仔の産まれる馬を見るために、ほんのひととき、ルネルから眼を離していたエフレムが責任を問われた。ルネルは父王に泣いてすがったが、処刑ではなく流刑としたのは恩情からだ、と一蹴されただけで、エフレムの追放は止められなかったという。
その後、西域、つまり蕘皙国の軍勢が攻め寄せてきた。
しばらくなにも考えなかった。ただ、全身を雨に打たせる。蒸し暑さは、いつの間にか遠のいていた。
口を開け、流れこんできた雨水で渇きを潤す。生きている。理由もなく、そう思った。
簪呂国には、アダムの知人もいる。ルネルを連れていけば、それで仕事は終わりだ。
しかしルネルは、真相を知りたがっている。
不可解な点が、いくつかあった。
西域が境を越え、突如として攻めてきた動機、そして孟国を選んだ理由。孟国の防衛という点でも要人であったエフレムの追放と、それを待ってから攻めてきたような軍勢。何者かの手引きがあったとは考えられないか。
ルネルの言うように、みなが原理神教の教えに忠実だったとすれば、内応し、手引きする者がいたとは考えられない。彼らは、みずからの行為が魂に刻みこまれ、いずれ自分に返ってくると信じているからこそ、一心に信仰を続けていたはずなのだ。
地図は、本当に盗み出されたのか。ルネルの父は頑固で、峻厳な態度を崩さない王だったという。一人娘のルネルが、隠術師であるエフレムに対し、兄以上の憧れを抱いていることを察していた可能性はある。とすれば、エフレムをルネルから遠ざける狙いがあったようにも思えなくはない。エフレムの追放だけで、事が済んでいればだ。
しかし実際に孟国は滅ぼされ、王は死んでいる。
地図が盗まれたのなら、盗んだのはどこの勢力なのか。攻めてきた蕘皙国だとするのが自然だが、本当にそうなのか。見え隠れしている影。西域ではなく、アダムを襲った隠術師の一党の仕業だとすると、また別の勢力の気配を感じられはしないか。
考え続けたが、まとまらなかった。わからないことが多すぎるのだ。
風が唸っている。蒸し暑さどころか、雨に打たれ続けで躰が冷えてきていた。アダムは髪を束ねて絞り、戸板に手をかけた。
小屋に入る前にもう一度、背中越しの風を聴く。やはり、耳に届いてくる聲はなにもなかった。
躰を拭き、アダムも套衣を羽織って火のそばに戻った。竹林で捕らえた野鳥が、遠火で焼かれており、煙とともにいいにおいが立ち昇っている。小さな鳥だが、三羽獲れていた。
アダムは竹籠にあげておいた山菜を引き寄せ、水気を切ってから短剣で適当に切り分けた。竹ひと節の長さを縦半分に割ってふたつの器にし、そこに刻んだ山菜を分けて盛る。
炳辣薇と呼ばれる薇の一種は、口にしたことがあった。塩ひとつまみを加えて茹でてあるので、灰汁は抜けているはずだ。
鳥の肉と一緒に竹筒に詰め、火床に突き刺して蒸し焼きにする、という方法もあったが、ルネルがせっかく鳥を焼いているので、流れに任せることにした。
焼きあがるのを待つ間、と思いアダムは荷袋から酒瓶を取り出した。隠れ酒場の主人から、仕事の報酬と一緒に貰った高級品だ。襲われたときに瓶を割らなくてよかった、とアダムは思った。
ルネルの眼が、鋭く射抜いてくる。
「お酒?」
「ああ。私はべつに、原理神教の信徒じゃないしな」
原理神教では、禁酒が布かれている。ルネルから見れば、掟破りのようなものだ。忘れていたわけではないが、アダムは気にしなかった。なにを信じるか。つまり信仰というのは、個人のものだ。
器に注ぎ、ちょっと掲げて見せてから、口をつけた。とろみがあって甘いが、すっきりとした飲み口だ。西の大陸の酒だろう。
ルネルはじっと冷たい視線を投げかけているが、アダムは取り合わなかった。
鳥が焼けた。
焼けた鳥の肉を削ぎ、山菜を盛った隣に落としていく。ルネルは黙ったまま、アダムの手もとを見つめていた。いくらか伏せたルネルの眼には揺れる炎が映り、艶やかな輝きを放っている。
削ぎ終えた肉に塩を振りかけて、竹の器のひとつをルネルに渡した。竹で作った箆のようなものも添えてある。アダムのほうは、ただの棒だ。手掴みでも構わなかったが、なんとなくそうした。
肉を口に入れる。蒸し焼きでなくとも、青竹の豊かな香りが肉汁と混ざり合い、口のなかに広がった。美味い。柔らかく焼けており、噛んだところから甘みのある肉汁が飛び出してきた。
「すごく美味しい。久しぶりに食べた気がする、こういうの」
「君の、肉の焼き方がよかったんだ。皮はちょっとだけ焦げていて、なかのほうは柔らかい。焼きすぎると火のなかに脂が落ちてしまって、ぱさついた感じになるんだ」
「城を出てから、肉か魚を焼いてばかりだった。はじめて焼いた干肉は、黒焦げにしたのよ」
「私も、鹿肉を焼きながらぼんやりしていて、片面を真黒にしたことがあるよ」
アダムが言うと、ルネルがかすかに笑ったような気がした。火明かりのなかで、はっきりとは見てとれなかった。
いつかまた、手を叩いて笑えるような日が来ればいい。アダムは、眼を伏せて寂しそうな表情のまま、小さく口を動かすルネルを見て、そう思わずにはいられなかった。
「今夜だけでも、飲まないか。なかなか、いい酒だよ」
「一度も飲んだことないの。実はこうして中身の入った瓶を見るのもはじめて。わかってて言ってるんでしょ?」
「酒が、ほんのひとときだけでも、忘れさせてくれることはある。それで、なにもかも救われるとは言えないが」
「ありがとう。気にかけてくれているのね。でも、忘れようとは思わない。仕事をしたいあなたには悪いけど、やっぱり私は真相を知り、彼らをきちんと弔うまでは逃げたくない。どこに行ったって、そのことからは逃げられないのよ」
「そうか」
「あなたの宗教は?」
「あいにく、私に信仰はない」
アダムの答えを聞いて、ルネルが呆れたような表情を見せたあと、ひとつ溜息をついた。
「みなが教えに忠実でないから、歪みが生じるのよ。原理神教以外に、正しい教えなんてないんだから」
「そうかな」
小枝を使って火床を掻き混ぜ、いくつか薪を足す。食べ終えた竹の器も、アダムは火のなかに放りこんだ。
微妙な話題だった。信じるものは、信じる者が自分で決めればいい、とアダムは思っていた。他人がとやかく言って、なにか大きく変わるものでもない。ただ、これだけが絶対だと固執することは、危ういことだった。正義を掲げた刃で責めるうちに、知らぬ間に自身が斬られ、身を滅ぼすこともある。固執というのは、そういうものだ。
「ここよりずっと西方の、南壤大陸の大森林奥地で暮らす者たちは、吊床を大切にしている」
アダムは、旅先の話をすることにした。ルネルはまだ若く、孟国の外をほとんど知らない。これから視野が広がれば、おのずと見えてくるものもあるかもしれない、とアダムは思った。
「吊床って?」
「木立や柱に布の両端を結び、地から浮かせたまま寝転がって使う、寝具さ」
「ふうん。祈るよりも、寝る場所が大事なのね」
「そうじゃない。彼らは朝から晩まで、精霊に捧げるさまざまな儀式を執り行う。早朝の笛にはじまり、歌や踊りが続く。狩りの前には無事を、獲物を得て戻れば感謝を、また歌や踊りで捧げる。つまり一日中、精霊に祈り続けているわけだ。そして一日の終わりに休む吊床は、精霊の揺籠と考えられている」
「でも、自分たちで作った布なんでしょ?」
ルネルが、苦笑するように頬を歪めた。
「彼らは、赤子のころから吊床の布で寝る。死ぬまでずっと、同じ布を直しながら使うんだ。破れても縫い合わせることを繰り返してね。そして死者は、生涯使い続けたその布に包まれ、吊床の掛けられていた場所に埋められる」
「間違ってる。それじゃ弔ったことにはならない」
「私は、そうは思わなかった」
「荼毘に付すことで、はじめて弔いになるのよ。死者は火葬の炎によってのみ、天に還るの。葬儀を行わなければ、魂は地に留まって、悪霊や怨霊になってしまうんだから」
「と、原理神教の僧侶は説く。それは、私も聞いて知ってるよ」
言って、アダムは酒の器を呷った。二杯目を注ぐ。小さな器で、たいした量ではない。
「森深く入りこんでしまった私は、ひと晩、彼らの族長の家に屋根を借りた。族長は、一人息子をまだ小さなころに亡くし、家のなかの地面に埋めていた。息子の吊床を掛けていた場所にな。老いた族長は、息子が家のなかにいる、そう思うと家族は気持ちが安らぎ、自分は息子に会いたいときに、夢で会うことができる、と教えてくれた。もうほとんど見えていない眼に涙は浮かべていたが、笑顔は誇らしげだったよ」
二杯目の酒を呷る。やはり甘い酒だ。一人で飲むには、甘すぎる。とアダムは思った。
「彼らは彼らで、現実を受けとめて、慎ましく穏やかに生きてる。精霊に祈りを捧げ、悪霊にも怨霊にも悩まされていない。それでも間違った弔い方だと言い切れるかな?」
「それは」
「一度、信徒ではなくなったつもりで世界を眺めてみたら、違ったものの見方もできるようになるんじゃないかな、ルネル。世界は、絶えず変化し続けている。ひとつのことが絶対に正しいなんてことはないんだ、と私は思ってるよ。さっき君が言ったように、吊床は人の手で作られた布かもしれない。だけど彼らは信じている。君が原理の神々を信じるのと同じように」
「でも、原理神教は違う。大昔から受け継がれてきた、正しい信仰よ」
「同じさ。彼らの布を、たかが布だと君は嗤ったが、彼らは君の信じるものを嗤いはしないだろう。救いを求める人の手によって作られ、何世代にも渡って受け継がれてきたものとしては、なにも違わない。そのことを彼らは知っていた」
ルネルはなにか言い返そうとしたが、唇を噛み、そのままうつむいた。
アダムは酒瓶に蓋を叩きこんで、腰をあげた。
「明日の朝、もう一度だけ訊く」
「私は行かない。答えは変わらない」
「それならそれでいい。今日はもう休むんだ」
「どうしてなの」
「なにが?」
「どうして、放っておいてくれないの」
ルネルが思いつめた顔をあげ、アダムの眼を覗きこんできた。光の強い、強い意志を宿した眼だ。
「さあな」
「報酬は前金で貰ったんでしょう。放っておけばいい」
「それはできない。請けた仕事はやる。それに、死者を弔わなければ悪霊や怨霊になる、と言ったのは君だ」
「その話、信じてないんでしょ」
「人が、心のよりどころとして信じていることは尊重する。もし吊床が盗まれたと聞けば、危険でも森に探しに行く。私にとっては、吊床も原理神教も同じことだ」
戸惑ったような表情で、ルネルが見つめ続けている。女や子供のひたむきな眼はなんとなく苦手で、アダムは背を向けた。
「とにかく、答えは明日の朝だ。おやすみ」
アダムは戸口のそばに移動して腰をおろし、套衣で躰を包みこんで床板に横たわった。
すぐに、眠りが訪れてくる。ルネルの答えは、一択だろう。
眠りに落ちながら、アダムは再び南に戻ることをもう決めていた。
眼を閉じる。雨音が大きくなり、やがて遠くなっていった。
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